阿部師成

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鵜 1

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 店内は炭火焼の煙が充満していた。サラリーマンがしみったれた顔でビールをすする店内で、若者のグループから下品な話し声が耳に入ってくる。まるでバナナを見つけた猿のような笑い声だった。
「今日は俺のおごりだ」
 おしぼりで額の脂を拭いながらガンさんがいった。
「マジですか?」
 媚びるように聞き返すと、ガンさんは誇らしげな顔をのぞかせた。
「まあ……な」
「なんか臨時収入でもあったんすか?」
「ちょっとスロットで万枚だしてな。久しぶりの大勝ちだ」
 そう言ってガンさんは水滴の浮いたビールジョッキをすすった。実際は金のない俺が払えないことなど百も承知なのだから、そうでなきゃ困るのだが、それでも驚いた振りをしたのは、オレと隣りにいるイタオのせめてもの礼儀である。俺らをホルモン焼きに誘ってくれたのはこれで三回目だった。コンビニ弁当とカップラーメンばかりの食生活に、この誘いはありがたかった。そんな時のガンさんはどこか父親のように見えた。
「お前ら、いつもロクなもん喰ってねぇだろう。ほら、遠慮すんな」
 仕事の師匠だった。いや正確にはただの同業者なのだが、ずいぶん良くしてくれた。右も左もわからない俺たちに、客がかかる場所を教えてくれたり、気乗りしない客をその気にさせる術を伝授してくれた。伊勢佐木町のキャバクラのポン引きをはじめて三年が経った。ガンさんはそのずーっと前からやっている。
 焦げの少し入ったホルモンとビールを交互に口に入れながら、ガンさんは嬉しそうに語った。俺らはガンさんの武勇伝に大袈裟な相槌をうった。昔はサーファーだったとか、金貸しをやっていたとか、ヤクザの金を使い込んで夜逃げしたとか、そんな話しだった。たまに尾ひれがついたり、誇張されたような感じを受けたが、俺もイタオも別に気にすることもなかった。なにせ奢ってもらってる身分なのだ。
 気になることがあるとすれば、一通りガンさんの今までの生涯が語られても、なにひとつガンさんの周囲ついてはわからないということだ。ガンさんの歳を聞いたこともなければ、どこに住んでいるのかさえわからない。定年を過ぎたオヤジくらいだろうけども、誰も年齢を知る人はいなかった。もしかしたら本人も正確な年齢など忘れてしまっているかもしれない。きっとガンさんの人生は消しゴムで消された跡がたくさんあるような気がした。
「まあ、いろんな人間を裏切ってきたよ」
 怪しい呂律でガンさんがいった。

〈新人キャバ嬢はいりました〉
 滑らすように打ち込んだ字が、Twitterに羅列されていく。
 舞寺ワタルは湿ったベッドで、横になりながら携帯をいじった。
 手を伸ばし、飲みかけマックコーラで喉を潤すと炭酸の抜けた甘ったるい液体が、口のなかで粘ついた。
 カーテンの隙間から、正午の陽射しが入り込んでいた。光のなかでホコリが舞い、キラキラと反射するのを目にして決まって思い出す。
 そろそろ部屋の掃除をした方がよさそうだと。
 いつのまにか賃貸の1DKは、ゴミの入ったコンビニ袋が足の踏み場もないほど埋まり、どこからともなく飛んでくる小さな虫を殺虫スプレーで片付ける生活が長いこと続いていた。
 寝起きの正午を見計らってTwitterに書き込むのが、客引きを業とするワタルの習慣だった。この携帯を使った広報作業も仕事の一環になりつつあった。
 最近は厳しさを増した風営法のおかげで客引きが禁止になり、盛り場はどこも下降気味になっていた。クリーンなイメージで民意を得た市長の目玉政策は、夜の水商売に大きな打撃を与えた。路上での客引きを禁止にする法案ができたおかげで、どこの店も集客に躍起になっていた。
 そんなワタルが、路上からネットに客引きの場所を移すのに、時間はかからなかった。舌の肥えたお客にTwitterからコアな情報を流して、釣る作戦が最近の流行りだった。
 始めたころは斬新なサービスも、日を追うごとに同業者が真似をして、数週間後には常識になってしまったが、ライバルは多いほうが業界には活気がでるようだし、何より自分で開拓した自負が、出不精のワタルをマメにツィートさせた。
 今では雀の涙のようなフォロワーが粘り強く呟き続けたことで、数千まで増やしてきたことも大きな要因の一つだった。
 〈長野からやって来た彼女はホンワカ癒し系ですよー〉
 まだ頭はボーッとしていた。わざわざこの時間に目を覚ますには訳があった。ちょうどオフィス街では昼休みの時間で、ビジネスマンが休憩の合間にTwitterを覗いてくる。都会にでて間もない新人キャバ嬢は需要が高く、価値がある。高級バッグをねだる擦れたキャバ嬢よりも、隙だらけの新人の方が中年オヤジも希望が見い出せる、というわけだ。
 ポン引き稼業にとってこれ以上の獲物はない。性欲旺盛な中年は決まって金を持っている。仕事に対してもアグレッシブで、それなりの役職に着く人間も多かった。つまり常連になる可能性が高い。
 数分もすると案の定、数人がリツイートしてきた。
 〈どんなかんじ? 笑〉
 喰いついてきてもじっと我慢する。すけべ野郎が、たかだか一人盛り上がっても旨味は少ない。ライバルを多くして、餌に群がらせると男は簡単に気を緩める。なにより見栄を張って金を使う。それには焦らすのが一番手っ取り早い。
 〈今日は接待。カラノキャバで考えてる。どこキャバ?」
 ライバルが現れたところでワタルは返答した。
 〈長野の天使ちゃんは推定Gカップ。まだまだ擦れてないのでお手柔らかに。本日キャバご予定ならぜひ当店ele'zへ〉
 〈マジ!? イクイク〉
 馬鹿が二匹喰いついた。見計らってワタルは二度寝した。

 伊勢佐木長者町の交差点をわたりながら、舞寺ワタルは煙草の紫煙をどっぷりと吐いた。
 闇に染まりはじめた空に、モズが群れをなして飛んでいる。この時間の駅前は、仕事帰りのサラリーマンと、派手な水商売女でごった返している。
 ラーメンの脂が浮いた口の周りを拭うと、ニンニクの匂いにめまいを覚えそうだった。相棒のイタオがミントのタブレットを一粒くれた。
「これでごまかしとけ」
「サンキュ」
「ところで今日は何日だっけ?」
 イタオも前歯を覗かせて息を確かめていた。ヤンキー時代にトルエンで溶かされた歯が、老人のように黄ばんでいる。
「二十五日だよ。給料日だし、しかも花の金曜。コンビニのATMも混んでたよ」
 渋滞する車を見渡したながら、ワタルは応えた。
 この界隈の人波がどっと増えている。平日に抑えこまれた欲求が漲っている。
 人が増えれば金が動く。魚が群れたら網で掬《すく》う。絶好の好機であるだけに、外したらいい訳がたたない。
「今日は稼がないとヤバイな。ノルマに追いつかねぇ」
 ドヤしつけられる恐怖にイラだちながら、イタオが舌打ちした。週末が迫るにつれて、舌打ちの数は増えていく。
 先週はノルマに追いつかず、ずいぶんと絞られた。今週も達成できなかったら……俺ら二人はクビか? いやそれはないだろう。きっと活かさず殺さずで働かされる。骨の髄までしゃぶり尽くされて廃人になっていく人間をいく度も目にしてきた。そんなこと考えたくもなかった。
 「今日は長くなりそうだな」
 ワタルが独り言のようにボヤくと、イタオがうなづいた。
 不漁で港に帰れない漁師も同じ気持ちだろう。それに加えてケツに蹴りを入れられる憂鬱を考えると、どこかに消えたくなる。
 瑛士とイタオは、いつものように伊勢佐木町のプロムナードに歩を進めた。
 居酒屋はどこも賑わっている。まだ酔っ払いは少なかった。あと数十分もすれば、千鳥足の中年でいっぱいになるはずだ。潮が動きだし、魚の活性があがる。地合いは悪くない。
 じきに男は酔いにまかせて女を求める。若い女は金のために、肌の露出とおべっかを連ねる。金を持った魚を連れて、店に引き込むのが俺らの仕事だった。一人あたり一割のマージンが俺らの懐に入る。
ワタルはこの仕事は嫌いではなかった。いい加減な酔っ払い相手に気を使うこともないし、腹の底で馬鹿にしていた。大抵の客が大袈裟なゴマスリに小躍りするのは愉しかった。人間の本性を見分けるにはいい職場だと本気で思ったこともあった。
 そんな思いで飛び込んだ世界だったが、一度染まりきるとマトモな生活がひどく遠く感じた。そして歳を重ねる度にそれは焦りと変わっていった。酔っ払いに頭を下げて太陽が登りきる頃に眠る。コウモリのような生活の報酬が、安い給料とくればなおさらだった。
 大通り公園の噴水の周りでイタオが脚を止めた。
「どうした?」
 イタオは公園のほうを向いていた。
 視線の先にあったのは、ブルーシートに占領された公園の垣根だった。
 そこにはホームレスが溜まるありふれた光景があった。大通り公園は奴らの集落と化している。木枠に段ボールを積み重ね、鍋もあればガスコンロもある。家のように暮らしている者もいれば、何も見に纏わず雑魚寝をしている者もいた。ドロップアウトした彼らには、快適な暮らしを追求するものと、常に体を動かさずに死を待つだけの者がいた。後者はすでに人間のとしての生気は感じられなかった。置物のような錯覚すらする。イタオは周囲に群がるホームレスに視線をやった。
「なあ、俺らいつまでこの仕事するつもりだ?」
 シャツと同様にくたびれた表情でイタオが訊ねた。
 俺らのようポン引きが客にヘーコラと諂《へつら》うには若さがいる。商売相手は酔っ払いだし、時には呂律の回らない泥酔者だったりする。金をふんだくれる客を除いて、網にかかるのはショボい客ばかりになった。
からかい半分の客とわかっていても揉み手すりてで近づくのがポン引きの悲しい性《さが》だ。同業者の年配が珍しいのは歳を食ってもなお客に媚びるのだから、追い込まれた生活環境でないと続かない。
「さあ……な」
 ワタルは煙のように軽い返事をした。
「相変わらずだな」
「俺だって早く足洗って正社員にでもなりたいよ。こんな安っぽいスーツ脱ぎ捨ててぇよ。夜通し仕事して朝方眠るような生活からおさらばしたいさ」
 擦り切れたローファーの先でワタルは行き場のない鬱憤《うっぷん》を冷たい地面に向けた。アスファルトが擦れる音がした。
「もう俺らも若くないしな」
 イタオは溜息と一緒に紫煙を吐いた。燻らす煙の中にあったイタオの目尻にはまだ充分なほどの若さがあった。なのに焦る理由はこの職種のは明るい将来が見えないからだろう。
「仕方ないだろ。学もねぇ俺らが着ける職場なんて限られてる」
 いく度なく吐いたセリフをワタルは口にした。イタオはホームレスに虫ケラの対するような嫌悪の視線を向けながら灰を落とした。
「今はまだ許される若さだ。だが十年後にはどうなってるか不安だよ。ひょっとしたらこいつらみたいに路地裏で寝てるかもしれないと思うと背筋が寒くなるね」
 イタオが路上生活者の彼らに対してナーバスな感情を抱くには訳があった。
 ガンさんが先日、行方をくらませたのだ。それから間もなく新橋でホームレスになった彼を見かけた情報があったは先週だった。ワタルとイタオにとっての師匠は忽然と消え、姿を変えた。明るく話す彼が闇を抱え込んでいたとは誰も気づかなかった。馬のあったイタオにとってはショックな疾走劇だったに違いない。
 ホームレスになったガンさんをイタオは見たくなかった。それが本音だろう。あの日以来、ホームレスの溜まる大通り公園にくると彼らを目の敵にするようになった。自分に打ち明けて貰えなかった悔しさがそうさせているように思えた。
「ワタル。お前は夢あるか?」
「夢? やめろよ。そんなクセー台詞はくキャラだったけ? お前って」
「いや。最近はマジで考えるよ。このまま俺は朽ちていくなんてまっぴらだね。俺たちと変わらぬ歳で会社起こして億単位稼ぐ奴だっている」
「そういう成功者が産まれるのに、数えきれない屍が必要なんだよ」
「何もやらなきゃただ年老いてくだけだ」
「俺は食うに困らなければ良いんだよ。仕事に生き甲斐なんていらない」
「だったらお前は何に生き甲斐を見つけるんだ?」
「そうだな……リュック一つ持って世界を歩き周りたいよ。海外に行っていろいろな価値を見つけたい。そして日本の拝金主義を自分の中から抹消するんだ。金に左右されない人生を歩めるように」
「リュックを背負って金から逃げる。お前が言ってるのはここにいるホームレスと変わらないぜ。食うに困らなければ残飯を漁るのか」
「そうは言ってない……」
「お前が言ってるのはただの現実逃避だ。生きてる以上、誰も金から逃げることはできない。それは国境を渡ってもだ。そうだろ。何かやるならいましかねえ」
「目標を見つけたような口ぶりだな」
 イタオは否定しなかった。むしろイタオのここまで輝やいた瞳を見たのは始めてだった。
「そのうちお前にも話してやるよ。ホントは一緒にやりたかったけどな。このチャンスにはリスクがあるんだ。ワタルを道連れにはできないからな」
「俺は置いてきぼりか」
「そう腐るなって。いいか俺に考えがるんだ。もし全てがうまくいったら瑛士お前と会社を興すんだ。イベントの会社を立ち上げようぜ。使われる身じゃなくて俺らが作り上げるんだ。ワタルは専務で俺が社長。俺とお前となら絶対に成功する。でっかくいこいぜ」
 腕時計を確かめてイタオがいった。
「時間だ。そろそろ狩に行かねえと」
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