吸い魔狂の館

振矢 留以洲

文字の大きさ
上 下
40 / 45
第3章

第12話

しおりを挟む
 鮫川権吉はもはや三田園健吾に戻りたいと思っていなかった。権吉が自分自身に言い聞かせていることである。三田園健吾として生きてきた華々しい生活、それを経験したものが、それに戻りたいと思わない者はいないはずである。健吾はそのことは重々と分かっていた。だがどう転んでもだめなものはだめである。そのことのほうが権吉はより多く理解していた。
 無人島の洞窟から持ってきた鏡が普通の鏡になってしまった今となっては、権吉にはどうすることもできないのである。
 最低辺のどん底の生活を嫌と言うほど経験済みの権吉にとって、どのような貧しい惨めな生活も厭わなかった。だが記憶の断片に散りばめられているかつての華々しい生活の残像が、権吉の潜在意識の中で、疼くような痛みで時々権吉を苦しめるのである。
 なぜ無人島の洞窟から持ってきた鏡に以前のような力が全くなくなってしまったのか、権吉は全く理解できなかった。香風堂の社長に就任が決まって、出社してから社長室に入った。それからの記憶がまったくないのである。気がついたら権吉は、レストランの入り口に立っていた。権吉はその時今までにもない空腹を覚えてレストランの中に入っていた。
 そのレストランで注文した料理の名前は聞いたこともないような名前であったので覚えていないが、その料理の映像は記憶の中にはっきりと残っている。そしてその料理の味はそれ以上にはっきりと記憶の中に残っている。生涯これ以上の美味な料理には出会うことはないだろうと何故かその時直感的に思ったのである。

 ゴミ集積所の中から、衣服類が詰め込まれたゴミ袋を見つけた。その中から権吉が着られそうな男性用の衣服類を見つけ出した。公園内にある公衆トイレに入って、着ているスーツと着替えた。脱いだスーツを持ってリサイクルショップに行った。高級生地を使ったオーダーメイドのスーツであるが、買った値段の十分の一にもならなかった。だがそのお金でも今の権吉にとってはしばらくの間飢えをしのいでくれるのに十分なお金であった。  だからと言って今すぐこのお金を使うわけにはいかなかった。金目のものになる最後のものを手放してどうにか手に入れたお金である。いざという時に取っておきたかった。
 炊き出しのある場所と時間の情報を得ることが、権吉にとって最も重要な情報の一つであった。だが炊き出しだけにたよって食いつないでいくことは至難の業であった。飲食店、食料品店の裏口で、売れ残りが廃棄される時間帯の情報も重要な情報である。
 炊き出しの列に並んでいると、ホームレス仲間の一人と一緒になった。彼は仲間の一人が亡くなって、その人の持ち物を皆で分け合うのでこれから来たらどうかと言った。そしてその人のバラックを使ったらどうかと言った。
 権吉は亡くなったホームレスの持ち物から何も取らなかった。バラックさえあれば十分であった。以前は寒い冬でも、野宿していける自信があった。だが、三田園健吾として快適な生活を経験した今、極寒の夜を外で過ごしていける自信はまったくなかった。偶然にもバラックが与えられたことはこの上もなく幸運なことであった。バラックの中にあった亡くなったホームレスの持ち物は、ホームレス仲間たちで分け合ったので何も残っていなかった。ガランとしたバラックの中で鏡一つが立て掛けてあった。線路高架下の目立たないところに隠しておいたものであった。
 無人島の洞窟から持ってきた鏡には以前のような力は全くなくなってしまった。何の変哲もない普通の鏡になってしまった。純金と思っていた額は、金のメッキが貼られていただけであった。金メッキは所々剥がれていて、かつての豪華さはもうなくなっていた。だが、権吉は何故かこの鏡を捨てる気にはなれなかった。
 貧しさと屈辱に満ちた彼の長い人生のなかで、ほんの短い期間であったが、権吉にきらびやかな時間を与えてくれた。それはまさしくこの鏡であった。この鏡にはあの力は全く残っていなかった。しかしこの鏡を見ていると、この鏡が与えたくれたあのきらびやかな時に浸れるような気がしたのである。
 権吉は毎日鏡の前に立って、自分の姿を見つめた。少しずつ変わっていることが分かった。毎日少しずつホームレスらしくなっていく自分がこの鏡に映っているのである。
 そんな毎日の繰り返しの中で、それは突然訪れた。いつものように朝権吉は、鏡の前に立った。その瞬間権吉はハッとした。自分の姿が鏡に映っていないのである。権吉の姿以外はそのまま映っているのである。鏡の反対側にあるバラックの内部をそのまま映しているのである。権吉の姿が全く映っていない。またこの鏡に以前の力が戻ったに違いない。
 ということは、また自分の姿を人に見えなくすることができると権吉は思った。それでしばらくの間鏡の前に立ち続けた。バラックの中から外に出ると、ホームレス仲間たちは一箇所に集まっていた。焚き火で熱している大鍋を囲むようにして、今朝皆で分け合った食べ物ができるのを待っているようであった。
 今、権吉の姿は誰にも見えないはずである。鏡の前に20分くらいは立っていたはずである。だから20分くらいは誰も権吉の姿が見えないはずである。
「これから食べるところなんだ一緒にどうだ」権吉が歩いてくる方を向いて座っていた男が、すぐに権吉のことに気がついて言った。その男が声を発したあと他のホームレスたち全員が権吉の方を振り向いた。権吉の姿が見えないものはいなかった。権吉だけの姿がったった今鏡に映っていなかったのは幻覚だったかもしれない。無意識の内に疼いていた三田園健吾としての淡い記憶が、権吉に幻覚を見せていたのかもしれない。先程まで抱いてい期待が一瞬の内に消えてしまったような気がした。
 大鍋の中で煮えたぎっていたものは、いろいろな食材が入っているごった煮のようなものであった。仲間の一人が器とスプーンを貸してくれた。器に盛られたものをスプーンで掬って口に運んだ。スプーンで掬った食べ物が舌に触れた時、予期せぬ感動が体中をほとばしった。見た目と正反対に、信じられないほどの美味しさであった。三田園健吾であった時に食べたどんなグルメ料理も足元に及ばないほどの味であった。鏡の力が戻らなかったために感じた落胆の思いが一瞬の内に消えてしまったように思えた。
しおりを挟む

処理中です...