引きこもり女子と猫殺し

ももさん

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 火曜日の一限目は英語だった。早口で教師が英文を読み上げていた。

 ──ナンシーはいつだって悩んでいた。自分がどんな存在で、世界という存在はなんなのか。自分はどこに向かい、どこで終わるのか。ナンシーは飽きることなく悩んでいた。そして、やがてナンシーは気づくだろう。それは、若さゆえの悩みであると。

 なかなか良い文であった。だが、あまり教師の発音は良くなかった。

 一限目が終わると、俺は猫殺しがあった現場に向かった。
 我が校は、左から第一校舎、第二校舎と縦に並んでいる。第一校舎は生徒が学園生活を送る教室があり、第二校舎には職員室や保健室などがあった。
 渡り廊下は、第一、第二校舎の端と端を繋ぐように、二本あった。上空から見れば、『口』という字を縦に長細くしたように見えるだろう。
 それぞれ、渡り廊下には数字が振られていた。『口』の上の部分に当たるところが、第一渡り廊下。そして下の部分に当たるところが、第二渡り廊下である。校門に近いほうから数えているらしいので、そういう割り振りだった。

 猫が殺されたのは、第二渡り廊下だった。

 俺は今、その渡り廊下にやってきていた。校舎は三階建てであるが、渡り廊下は一階建てであった。
 柱には、校内放送用のスピーカーが設置されている。比較的新しいようだ。あくまで比較的にではあるが。
 廊下は雨風を防げるようにちゃんと屋根もつけられ、左右には胸の高さのトタンの柵もはられていた。中央には、外に出られるように出口があった。
 中庭側の左出口ではなく、右出口から出ると、五メートル先に学校を囲むグリーンのフェンスがあり、その前にベンチが二つあった。今は誰も座ってなかった。三枚の落ち葉が座っているだけだった。

 俺は柵に背中をつけ、腕を組んだ。幾人の生徒が、俺の前を通り過ぎていった。

 俺は思った。
 目撃証言は、この柵と屋根によって得られないだろう。猫を殺すときは、身長を合わせるために必ずしゃがむはずだ。となれば、すっかり体は隠れてしまう。
 猫の遺体があったのは、渡り廊下の入口から二メートルほど先であると言っていた。そこはちゃんと柵で守られているところだった。

 いや、そもそも目撃証言なんて得られないではないか。

 今、思い出した。
 それぞれ第一校舎も第二校舎も、“中庭側に廊下があるのだ”。だから忌々しいことに、教室からは渡り廊下は見えない。

 俺はポケットから買ってきた缶コーヒーを取り出すと、蓋を開けた。そしてコーヒーを飲みながら、事件のことを再度考え始めた。

 約一月前の、今日と同じ火曜日に事件は起こった。
 犯行時間は、おおよそ三十分。時刻にすると、二限目が始まる十時三十五分から、さくらが猫の遺体を発見する十一時五分のあいだとみられる。
 我が春風高校は九十分授業のため、二限目にしてこの時間になるのだ。
 よって一限目と二限目のあいだの休み時間は、十五分となる。五分前には予鈴が鳴るようになっており、大半の生徒はこの予鈴が鳴ると教室に入るため、ひとけはなくなる。そのあいだに犯行は可能であるが、しかし、あくまで“大半の生徒”である。目撃される可能性は充分にあるのだ。だから、授業が始まる十時三十五分からの犯行だと考えた。

 だが、これはさくらの証言を信じた場合である。

 ──いや、と俺は頭を振り、その考えを消した。
 今は、あれやこれやと疑っていても仕方がない。

 コーヒーを啜り、吐息をつくと、もう一度事件の考えに戻った。
 おそらく、これは計画的犯行ではないだろう。猫を殺そうと計画していたのなら、こんな廊下は選ばない。ましてや学校では殺さないだろう。この廊下に猫がやってくるとも限らないのだ。三日待とうが一週間待とうが、一年待とうが通る保証はない。
 では、猫嫌いのやからがいて、猫を歩いているのを見て思わず激情し殺したのか? だが、それだと生活なんてできないだろう。なら、ストレス発散のためだろうか? サドによる快楽のため?
 もしくは、なにか別の理由があったのかも知れない。

 例えば、猫になにかを盗まれたとか。

 いや、これも現実的ではないな。犯人が煮干しでも持っていたというのか。仮にそうだとしても、殺すに至らないだろう、煮干しくらいで。

 もう一つ重要なことがある。殺害に用いた凶器についてだ。刺殺されていたらしいが、ナイフでも持っていたというのだろうか? だが、それこそ計画的犯行でしか有り得ないことだろう。通常、そんなものなど持ち歩いていない。
 ならば、ボールペンかなにかだろうか。ペンも凶器にはなり得るはずだ。

 だがこれも、これだなと納得はできなかった。何かしらの事情で授業を抜け出し、第二校舎に向かうためこの廊下を通ったとしても、ボールペンなどは手には持っていないはずだ。それこそ、さくらみたいに体調不良で授業を抜け出した場合は。まさか猫が通ると予測して、教室を出れるはずもないだろうし。
 なら学校の者ではなく、外部の人間だろうか? 何者かが学校に侵入し、猫を殺したのだ。

 しかし、それはリスクは高すぎるだろう。それならば、何処かで殺した猫を学校に放置した、と考えた方がまだリアリティーがある。校内で見つかれば、学校の誰かがやったと思われるからだ。
 一応、外部犯という線も考えておいた方がいいかも知らない。

 そしてもう一つ、思いつくことがあった。
 人間ではなく、“動物”がやったのではないかということだ。例えば猿が、木の棒のようなものを持ち、威嚇してきた猫に突き刺す──

 そこまで考えたところで、俺は思わず笑った。

 猿に武器を使う知能などないではないか。あれば大発見である。ましてや猿が犯人などと。モルグ街の殺人じゃあるまいし。
 俺はそこで、猿が手を叩き大笑いしているのを想像した。俺を馬鹿にしていた。想像なのに、耳を押さえたくなるほどうるさい鳴き声であった。
 お笑い草だ。俺にもデュパンのような推理力があれば。

 鳴き声──。

 俺はあっ、と声を出した。
 そうだ、鳴き声である。殺された時、猫は鳴き声を上げなかったのか?

 いや、大いに上げたはずである。

 となれば、大人数が聞いているはずだ。特に授業中ならば、校舎は静まり返っている。鳴き声は届くはずだ。
 だが、鳴き声が聞こえたという話は聞いていない。どうなっている。なにかしらの方法で鳴き声を防いだのか? 考えられるとすれば、猫の口を塞いだということだ。だが手を引っ掻かれてしまうだろうし、そうなると犯行は難しいだろう。もし手を離してしまえば、いっかんの終わりなのである。

 では、なにかタオルのようなものを被せて? だが誰がそんなものを持っていたというのか? これは計画的犯行ではない。

「おい、夢野くん。夢野くん」

 そこで誰かに呼ばれた。うつむけていた顔を上げると、授業帰りの青野がいた。
「予鈴が聞こえなかったのか? もうすぐで授業が始まるぞ」
 俺は、はっとした。気がつかない内に、ずいぶんと時間が経っていたらしい。青野は微笑を浮かべていた。

 礼を言うと、俺は教室に戻っていった。

 解らないことは、まだまだ沢山あった。長い仕事になりそうだった。
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