【完結】風はいつか、君の名を運ぶ

とっくり

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 薬草園の木陰を抜ける風が、涼やかに頬を撫でた。

 草木に囲まれた静かな小道を、リーゼロッテとセシルは並んで歩いていた。いつもなら一人で行う園内の見回りだったが、今日はセシルが「少し体を動かしたい」と申し出たのだった。

 無理をさせてしまうのではと一度は迷ったものの、どこか表情の明るい彼に、リーゼロッテは自然と頷いていた。

「体調、大丈夫ですか?」
 歩調を合わせながらリーゼロッテが問いかけると、セシルは柔らかく微笑んだ。

「ええ。今日は少し調子が良いみたいです。こうして外を歩くのも、久しぶりで」

 その声には、ほんの少し高揚した響きが混じっていた。

「このあたりは風通しもよくて気持ちがいいですから。私も、疲れたときによく歩くんですよ。ちょっとした気分転換にもなりますし」

「君のように、植物と共に過ごしている人が言うと、説得力がありますね」

 セシルはそう言って、緑の葉を指先でそっと撫でた。表情に張り詰めた影が少し和らいで見えたのは、気のせいではなかった。

「それに、園内のこの辺り――ちょうど午後の時間になると、陽がちょうど木の葉の隙間から差し込んできて綺麗なんです。とくに初夏の時期は、光がやわらかくて」
「……君がこの場所のことをよく知っていて、大切にしているのが伝わってくるようです」

 セシルのそんな言葉に、リーゼロッテは少しだけ照れたように笑った。

「ずっとここで働いていますから、きっと……人より植物の顔の方が、よく覚えているかもしれません」

 そんな風に言うと、セシルもくすりと笑った。

「薬草の妖精ですね」
「ふふ…それは褒め言葉でしょうか」
「もちろん。素敵な褒め言葉です」

 自然な冗談の応酬に、二人の間にある空気が、ふっと軽くなる。

 しばらく静かに歩いたあと、セシルがふと問いかけた。

「君は……どんなところで育ったんですか?」

 足を止めずに問いかけるその声音には、興味とともに、どこか静かな敬意が滲んでいた。

 リーゼロッテは一瞬だけ迷い、けれど歩を進めながらそっと答えた。

「小さな農村です。山のふもとの、静かな村。裕福ではなかったけれど、笑顔の多い家でした」
「きっと、あたたかいご家庭なんですね」
「ええ。……今は少し、静かになりましたけど」

 彼女はそっと息を継いで、語りはじめた。

「昔、母が病気になってしまって。王都で書記官をしていた父は、そのとき仕事を辞めて、家族みんなで空気の良い故郷に戻ったんです。少しでも母の体に良い場所を、って」

 セシルは何も言わず、静かに聞いていた。

「私も、何かできることはないかと思って……それで薬草の勉強を始めました。最初は、母の咳を少しでも和らげたいって、それだけだったんですけど」
「……その気持ちが、ここまで君を導いたのですね」

 セシルの声は、驚きよりも、どこか感嘆に近いものだった。

「……その昔、弟が森で変な虫を捕まえてきたことがありました。母に見せたら腰を抜かすほど驚いて……でも弟は、自分が見つけた虫が母の病に効くかも、って信じてたんです」
「それは……とても勇敢な弟さんだ」
「勇敢というより、単に無鉄砲なんです。でも、その虫、実は本当に珍しい薬効があったんです!」

 セシルが思わず噴き出した。

「……なんと。薬草園では虫の扱いにはご注意を」
「ええ、今でも弟は送ってきます。虫と一緒に」

 そんな微笑ましい話に、セシルの笑みも自然と深まっていた。

 しばらく歩き、風の通る一本の木の下で足を止めたセシルが、ぽつりと呟くように言った。

「……僕は、寒い土地で育ちました。冬の朝は凍えるほど冷たくて。でも、空気が澄んでいて、空が高くて。そういうところです」
「雪の多いところですか?」
「はい。雪は毎年積もって、地面の輪郭すら見えなくなるくらい。だからでしょうか……暖かな場所にいると、どうも落ち着かないことがあって」

 その言葉に、彼の奥にある寂しさのようなものが、ふと透けて見えた。

「……ご家族は?」

 問いかけると、セシルは少しだけ視線を落とした。

「います。けれど……少し、複雑な事情があって」

 それ以上は語らず、彼は視線を木々の間に逃がす。けれど、そこに拒絶の色はなかった。

 リーゼロッテは一拍置き、そっと口を開いた。

「私は・・・家族に恵まれていると思う一方で……それが誰にとっても当たり前じゃないことも、少しずつ分かってきました」

 セシルは小さく目を見開いたが、リーゼロッテは続けた。

「うまくいかないことがあっても、自分で進む道を選んでいけるなら……未来はきっと、変えられる。私は、そう信じています」

 それは誰かに教えられた言葉ではなく、彼女自身が、日々を選び取るように歩んできた結果として、自然に胸に抱くようになった想いだった。

 セシルはその言葉を、静かに、深く胸の中に染みこませるように受け止めていた。

「……不思議ですね。君といると、なぜか、心が軽くなります」
「それは、もしかすると、私が薬草の妖精だからかもしれません」
「ははは!それなら、もう少しそばにいてもらえると助かりますね」

 珍しくセシルが大きな声で笑う。それを見たリーゼロッテは驚きと同時に笑顔になった。二人の笑い声が、やわらかな木漏れ日の中に溶けていく。

 ゆるやかな歩みの中で、まだ知らないことは多くても――
 確かに二人の距離は、ほんの少しだけ、近づいていた。
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