【完結】風はいつか、君の名を運ぶ

とっくり

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 その日、王立植物園には風がなかった。

 雲の間から柔らかな光が差し、温室のガラス越しに草花の緑をやさしく照らしていた。

 セシルは一人、いつもの温室の棚の前に立っていた。手には小さな乾いた葉を一枚、無意識に弄びながら、呼吸を整えていた。

 静寂が満ちている。だが、その沈黙の中に、何かを切り出さねばならない緊張が渦巻いていた。

「お待たせしました」

 足音もなく、リーゼロッテが現れた。
 いつもの作業着に、淡い色の肩掛けをしている。落ち着いた面持ちだったが、セシルの表情を一目見て、ふと足を止めた。

「……なにか、ありましたか?」

 その声音には、無理に踏み込もうとしない静かな気遣いがあった。

「君に話があります」

 それが、かえってセシルの決意を強める。

「話・・・ですか」
「はい・・・実は」

 セシルは一瞬、目を瞑ったが、
すぐさま開いて真っ直ぐにリーゼロッテを見つめた。

「僕の本当の名は、セシル・ルートヴィヒ・フォン・オルデンブルク。オルデンブルク帝国の第三王子なのです」

 言葉を発した瞬間、空気がわずかに震えた気がした。

 リーゼロッテは驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情を静かに整えた。
 息をのむでも、後ずさるでもなく、ただそこに立ち続けていた。

「……それがあなたの……本当の名前…」

 セシルは小さく頷いた。

「偽っていたこと、謝ります。最初は身分を隠すつもりなんてなかった。ただ……命を守るために、それしか手段がなかった」

 少し声が震えていた。

 彼は視線を落としながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「帝国では、政争が続いていました。父は病に伏し、継承権をめぐる争いが激しくなって……僕も何度か、命を狙われた。身体も弱っていて、帝国の医術でも治らず、もはや望みは薄いとまで言われたんです」

 リーゼロッテは何も言わず、ただその言葉を受け止めるように頷いた。

「それでも、生き延びてしまった。情けないと思うこともありました。でも……薬草療法の噂を聞いて、ここに来て、あなたと出会って……」

 セシルはそこで言葉を切った。
 感情が喉の奥で絡まり、言葉にならない。

 リーゼロッテがそっと近づき、セシルの手に触れた。その手は静かで温かく、震える彼の指をやさしく包んだ。

「……言ってくださって、ありがとうございます」

 彼女は、まっすぐに彼を見つめていた。恐れや猜疑の色は、どこにもなかった。

「私は……あなたが誰であっても、ここで過ごした時間や言葉が、偽りだったとは思っていません」

 その一言が、セシルの胸を深く打った。

「僕は、君を巻き込むつもりはなかった。君の静かな生活を壊すようなことは……」

「……でも、それでも伝えてくれたんですね」

 彼女の声には、悲しみも優しさも入り混じっていた。

「これまで、君に本当の名を伝えようと何度も思いました。自分が誰なのか、何をしてきたのか・・・ただ、君と過ごす時間が僕にとってかけがえのないものになって、君の前でだけは、ただの静かな青年でいたかったんです。けれど……」
「けれど?」
「名前も過去も、全部、隠したままじゃ……本当に君と向き合えない気がして」

 リーゼロッテの目がわずかに潤んだ。

 けれど、彼女は笑った。ほんのすこし、けれど確かに。

「――私にとって、目の前に映るセシルさんが全てです」

 セシルは思わず、小さく息をこぼした。胸の奥に絡まっていたものが、わずかにほどけた気がした。

 ただ、その安堵の奥には、まだ明確な影があった。

 帝国の影は、まだ完全に彼を解放してはいない。
 いずれ追っ手が現れるかもしれない。
 リーゼロッテを巻き込むことになる未来も、想像しないわけにはいかなかった。

 それでも――今だけは。

 彼女と、たしかな言葉を交わし合えたこと。その事実だけが、彼の魂をそっと支えていた。

 外では、雲が流れ始めていた。
 次の風が何を運んでくるのか、誰にもわからない。
 けれど今は、まだ少しだけ、この静かな時間に身を委ねていたかった。
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