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稽古が終わった帰り道。劇場の裏口から出たアナベルは、いつものように控えめに夜風を吸い込んだ。
夏の終わりを告げる風が、首元の髪をさらりと撫でていく。控えめな星明かりの下、昼間の熱気が嘘のように引き、静けさが辺りを包んでいた。
「……アナベル嬢?」
聞き慣れた低い声に、思わず振り返る。
「エリオットさん?」
彼はすでに舞台衣装から私服に着替え、肩に軽く上着を掛けていた。シャツの袖をまくった腕には、稽古の熱気がまだほんのりと残っているようだった。
「馬車乗り場まで行く? 僕もそっち方面なんだけど……一緒にいいかな?」
「はっ……はい! 喜んで!」
驚いて声を張り上げてしまった自分に気づき、アナベルは慌てて口元を押さえる。そして小さくうなずいて、エリオットと歩調を合わせた。
並んで歩く帰り道。ふたりの距離は一定に保たれていたが、不思議な静けさと心地よさが、ゆるやかに流れていた。
「そういえば」
エリオットがふと思い出したように口を開く。
「君、カロリーヌのところで下宿してるんだって?」
「はい。実は、リバー所長に紹介していただいたんです。斡旋所に通っていた頃、私の担当をしてくださっていて……」
「リバー伯父さんと知り合いだったのか!」
エリオットの目が、わずかに驚きで見開かれる。アナベルは少し戸惑いながらも、言葉を続けた。
「両親を亡くして、学園も中退することになって……。生活のために職を探す必要があって、斡旋所に通っていたんです」
「それは……大変だったね」
「リバー所長とハンナさんが、とても良くしてくださったのですが、当初は失敗ばかりで……」
「例えば?」
「まずは、図書館での絵本の読み聞かせのアルバイトから始めました」
「子ども向けの?」
「そうです。小さな子どもたちが対象でした。私は、子どもたちを甘く見ていました。彼らの有り余るエネルギーにまったく太刀打ちできず……初日で玉砕です」
アナベルは眉間にしわを寄せ、伏し目がちに語る。
「次は、倉庫番でした。男性ばかりの職場でしたので、ハンナさんがいろいろ心配してくださって……リバー所長のプロデュースで“アルくん”が誕生しました」
「アルくん……?」
「はい。男装です。最初はうまくいっていたのですが、昼休みにうっかり帽子を外してしまって。女子だとばれてしまい、皆さんに珍しがられて、囲まれてしまったんです。それで……作業効率に支障が出るとのことで、採用されませんでした」
悔しそうに、アナベルはさらに続ける。
「その次は、パン屋でした。火傷はするし、調合を間違えてパンが膨らまなかったり……ときには、歪な形の、まるで地球外生命体のようなパンを焼いてしまって……」
「……地球外生命体?」
「はい。もはや形容しがたい有様でした」
思い出して、アナベルは苦笑する。
エリオットの口元は、ぴくぴくと引きつっていた。
「そして、最後は農場です。ヤギのポチに執拗に追いかけられて、毎日逃げ回っていました。農場の夫人には『ポチに好かれてるのよ』と言われましたが、私は到底そうは思えませんでした」
「ふふっ、ポチ……っ、あははは!」
神妙に耳を傾けていたエリオットだったが、堪えきれず、ついに大きな笑い声をあげた。
「そんな過去があったとは……ごめん、でも本当に面白い。君って、完璧主義の才女かと思ってたから、ギャップがすごくて」
「そ、そんな……完璧なんてとんでもないです!!」
恥ずかしさに耳まで赤くなるアナベル。でも、エリオットが楽しそうに笑ってくれるのが嬉しくて、自分も思わず笑みがこぼれる。
「久しぶりだな……こんなに大声で笑ったの、ほんとに」
そう言って、エリオットは少し照れくさそうに目を細めた。
「でも、意外だったよ。そんなに苦労してたなんて。全然そんなふうに見えなかった」
「いえ……そんな、大したことではありません。ただ、家族を失ってから、ずっと心が冷えていた気がして。でも、リバー所長やハンナさん、カロリーヌさん、下宿の皆さんのおかげで、ようやく“あたたかい”って思えるようになったんです」
ふたりの足元に、長く影が伸びる。
アナベルはふと、空を見上げた。茜色の雲が、ゆるやかに流れていく。
「それは、君が感謝を忘れない人だからじゃないかな」
「……え?」
エリオットは、まっすぐにアナベルの横顔を見つめていた。
「君は、前を向こうとしてる。どんなことにも真剣だし、頑張り屋だ。だから、きっと誰もが応援したくなるんだと思う」
そのまっすぐな言葉に、アナベルの顔が一瞬で熱を帯びた。
「……エリオットさん…」
思わず視線を逸らす。けれど、胸の内では、花がふわりとほころぶような感覚が広がっていた。
高鳴る鼓動が、自分のものとは思えない。
(エリオットさんに、そんなふうに言ってもらえるなんて……)
憧れの人に、努力を認めてもらえた。それも、こんなにも真摯なまなざしで。
気づけば、なんでもないはずの帰り道が、胸に刻まれていた。
彼の隣にいるだけで、世界が少しだけ違って見える。
──この気持ちに名前をつけるのは、まだ早い。
けれど、あたたかい光が、心にそっと差し込んだのは確かだった。
夏の終わりを告げる風が、首元の髪をさらりと撫でていく。控えめな星明かりの下、昼間の熱気が嘘のように引き、静けさが辺りを包んでいた。
「……アナベル嬢?」
聞き慣れた低い声に、思わず振り返る。
「エリオットさん?」
彼はすでに舞台衣装から私服に着替え、肩に軽く上着を掛けていた。シャツの袖をまくった腕には、稽古の熱気がまだほんのりと残っているようだった。
「馬車乗り場まで行く? 僕もそっち方面なんだけど……一緒にいいかな?」
「はっ……はい! 喜んで!」
驚いて声を張り上げてしまった自分に気づき、アナベルは慌てて口元を押さえる。そして小さくうなずいて、エリオットと歩調を合わせた。
並んで歩く帰り道。ふたりの距離は一定に保たれていたが、不思議な静けさと心地よさが、ゆるやかに流れていた。
「そういえば」
エリオットがふと思い出したように口を開く。
「君、カロリーヌのところで下宿してるんだって?」
「はい。実は、リバー所長に紹介していただいたんです。斡旋所に通っていた頃、私の担当をしてくださっていて……」
「リバー伯父さんと知り合いだったのか!」
エリオットの目が、わずかに驚きで見開かれる。アナベルは少し戸惑いながらも、言葉を続けた。
「両親を亡くして、学園も中退することになって……。生活のために職を探す必要があって、斡旋所に通っていたんです」
「それは……大変だったね」
「リバー所長とハンナさんが、とても良くしてくださったのですが、当初は失敗ばかりで……」
「例えば?」
「まずは、図書館での絵本の読み聞かせのアルバイトから始めました」
「子ども向けの?」
「そうです。小さな子どもたちが対象でした。私は、子どもたちを甘く見ていました。彼らの有り余るエネルギーにまったく太刀打ちできず……初日で玉砕です」
アナベルは眉間にしわを寄せ、伏し目がちに語る。
「次は、倉庫番でした。男性ばかりの職場でしたので、ハンナさんがいろいろ心配してくださって……リバー所長のプロデュースで“アルくん”が誕生しました」
「アルくん……?」
「はい。男装です。最初はうまくいっていたのですが、昼休みにうっかり帽子を外してしまって。女子だとばれてしまい、皆さんに珍しがられて、囲まれてしまったんです。それで……作業効率に支障が出るとのことで、採用されませんでした」
悔しそうに、アナベルはさらに続ける。
「その次は、パン屋でした。火傷はするし、調合を間違えてパンが膨らまなかったり……ときには、歪な形の、まるで地球外生命体のようなパンを焼いてしまって……」
「……地球外生命体?」
「はい。もはや形容しがたい有様でした」
思い出して、アナベルは苦笑する。
エリオットの口元は、ぴくぴくと引きつっていた。
「そして、最後は農場です。ヤギのポチに執拗に追いかけられて、毎日逃げ回っていました。農場の夫人には『ポチに好かれてるのよ』と言われましたが、私は到底そうは思えませんでした」
「ふふっ、ポチ……っ、あははは!」
神妙に耳を傾けていたエリオットだったが、堪えきれず、ついに大きな笑い声をあげた。
「そんな過去があったとは……ごめん、でも本当に面白い。君って、完璧主義の才女かと思ってたから、ギャップがすごくて」
「そ、そんな……完璧なんてとんでもないです!!」
恥ずかしさに耳まで赤くなるアナベル。でも、エリオットが楽しそうに笑ってくれるのが嬉しくて、自分も思わず笑みがこぼれる。
「久しぶりだな……こんなに大声で笑ったの、ほんとに」
そう言って、エリオットは少し照れくさそうに目を細めた。
「でも、意外だったよ。そんなに苦労してたなんて。全然そんなふうに見えなかった」
「いえ……そんな、大したことではありません。ただ、家族を失ってから、ずっと心が冷えていた気がして。でも、リバー所長やハンナさん、カロリーヌさん、下宿の皆さんのおかげで、ようやく“あたたかい”って思えるようになったんです」
ふたりの足元に、長く影が伸びる。
アナベルはふと、空を見上げた。茜色の雲が、ゆるやかに流れていく。
「それは、君が感謝を忘れない人だからじゃないかな」
「……え?」
エリオットは、まっすぐにアナベルの横顔を見つめていた。
「君は、前を向こうとしてる。どんなことにも真剣だし、頑張り屋だ。だから、きっと誰もが応援したくなるんだと思う」
そのまっすぐな言葉に、アナベルの顔が一瞬で熱を帯びた。
「……エリオットさん…」
思わず視線を逸らす。けれど、胸の内では、花がふわりとほころぶような感覚が広がっていた。
高鳴る鼓動が、自分のものとは思えない。
(エリオットさんに、そんなふうに言ってもらえるなんて……)
憧れの人に、努力を認めてもらえた。それも、こんなにも真摯なまなざしで。
気づけば、なんでもないはずの帰り道が、胸に刻まれていた。
彼の隣にいるだけで、世界が少しだけ違って見える。
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けれど、あたたかい光が、心にそっと差し込んだのは確かだった。
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