【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり

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 この日は、アナベルとエリオット、ふたりとも仕事が休みだった。

 久しぶりの休日デート。
 アナベルは鏡の前で何度も姿を確かめた。淡いブルーのワンピースは、控えめながらも清楚で涼やかな印象を与える。胸元に小さなペンダントを添え、髪はゆるくまとめて――どこか少女のような初々しさを残したまま、公園へと向かった。

 心臓は鼓動を早め、待ち合わせ場所へ近づくにつれ、頬の赤みが増していく。

「アナベル!」

 背後から聞き慣れた声。振り返ると、エリオットが小走りに近づいてくるところだった。

 いつもの舞台衣装でも稽古着でもなく、今日は休日らしい装いだ。

 白いシャツの袖を軽くまくり、深いネイビーのベストを重ねている。無造作に流した前髪が風に揺れた。
 脚にはすっきりとした黒のトラウザーズ、足元は磨き込まれた革靴。
 さりげなく選ばれた服なのに、彼が纏うとどこか舞台の一幕のように見えてしまう。

 その姿を目にしただけで、アナベルの胸は不意に高鳴っていた。

「エリオットさん。同じタイミングでしたね」

「本当だ。……気持ちが通じ合ってるのかな」

「ですね!」

 二人は視線を合わせて、思わず笑い合った。

「じゃあ、まずはお茶でもどう?」

「いいですね。ちょうど喉が渇いていました」

 自然に手が繋がれた。初めて触れたときには、鼓動が大きくて手汗を気にしてばかりいたけれど――もうその温もりは、心の一部のように感じられた。





 喫茶店。柔らかな日差しの差し込む窓際の席で、向かい合って座る。

「最近、お互いに忙しかったね。疲れてないかい?」
 エリオットの問いかけに、アナベルは小さく肩を落とした。

「……実は、ちょっと疲れてました。新作の喜劇の台本に苦戦していて。笑いって、世界共通の感情なのに……国ごとにニュアンスが違って。翻訳すると、なぜか面白さが消えてしまうんです」

「なるほど。文化の違いって大きいのかもしれないね。直訳じゃ伝わらないこともあるだろうし」
 エリオットは真剣に頷き、彼女の話に耳を傾ける。

「私、自分の引き出しの少なさを痛感してしまって……語彙力も、表現力も、まだまだ足りないなって」

 視線を落とすアナベルの手を、エリオットはそっと取った。
「アナベル、顔色が少し悪いな。無理してない?」

「……だ、大丈夫です」
 笑顔を作るが、彼の鋭い眼差しはすぐに彼女の揺れを見抜いてしまう。

「君は真面目だから……全部一人で背負い込んでしまうのが心配だよ」

 図星だった。胸の奥がじんわり熱くなり、言葉が出ない。うっすら滲んだ涙を、彼の優しい声がすくい取ってくれるようだった。

(……エリオットさんと離れてまで、留学する必要があるのかな……?)

 心の一部はそう囁く。
 けれど、そのさらに奥では、もっと広い世界を見たい、成長したいという小さな炎が消えずに灯っていた。




 午後は、フェイナルトで評判の管弦楽団の演奏会へ足を運ぶ。
 深い音色が会場を満たし、二人は隣に並んで音楽に耳を傾けた。

「とても素敵でしたね」

「本当に。……楽器が弾けたら良いなって思ったよ。アナベルは?」

「私はピアノくらいです」

「いいな!僕は全然弾けなくて。姉が習ってたピアノを、遊びででたらめに弾いたくらい」

「ふふふ、エリオットさんのでたらめ演奏……ちょっと聴いてみたいです」

「いやいや、僕の方だ。アナベルのピアノ、聴いてみたいな」

 軽口を交わしながら歩く帰り道。
 夕焼けに染まる街並みの中、繋いだ手の温もりは、どこまでも優しく心を包む。

 立ち止まった瞬間、ふとエリオットがアナベルを見つめた。
 彼女が首をかしげたその時――彼の手が頬に触れる。

「……キス、していい?」

 囁きに、アナベルの心臓が飛び跳ねた。頬が一気に熱を帯び、ただ小さく頷く。
 次の瞬間、夕暮れ色に包まれた唇がそっと重なった。甘く、柔らかく、世界が静かに溶け合っていくような一瞬。

「……」

「……ふふ、夕焼けのせいで、顔が真っ赤になってる」

「顔が熱いです…夕焼けのせいだけじゃ…ないかも…」

「アナベル、可愛い」

 もう一度、今度はゆっくりと長い口づけを交わした。お互いの気持ちを確かめ合うように――。
 



 ――夜、下宿に戻りベッドに顔を埋めたアナベルは、まだ胸の高鳴りが収まらなかった。

(エリオットさんが好き……本当に、好き……)

 けれど、机の上の台本とルクリト語の辞書に視線が移る。

(夢を追いたい……でも……)

 奇跡のように想いが通じ合い、ようやく始まった二人の関係。

 それなのに――遠く離れても、同じ気持ちでいられるのだろうか。

 不安と、新しい未来を切に望む気持ちとが、胸の奥でぶつかり合う。
 アナベルは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、必死に心を落ち着けようとした。

(どうしたらいいの……?)

 答えはまだ見えない。

 けれど、その夜、眠りにつこうとする彼女の胸の奥には――消えない灯のように、「留学したい」という願いが、確かに芽吹き続けていた。















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