52 / 55
52
しおりを挟む
この日は、アナベルとエリオット、ふたりとも仕事が休みだった。
久しぶりの休日デート。
アナベルは鏡の前で何度も姿を確かめた。淡いブルーのワンピースは、控えめながらも清楚で涼やかな印象を与える。胸元に小さなペンダントを添え、髪はゆるくまとめて――どこか少女のような初々しさを残したまま、公園へと向かった。
心臓は鼓動を早め、待ち合わせ場所へ近づくにつれ、頬の赤みが増していく。
「アナベル!」
背後から聞き慣れた声。振り返ると、エリオットが小走りに近づいてくるところだった。
いつもの舞台衣装でも稽古着でもなく、今日は休日らしい装いだ。
白いシャツの袖を軽くまくり、深いネイビーのベストを重ねている。無造作に流した前髪が風に揺れた。
脚にはすっきりとした黒のトラウザーズ、足元は磨き込まれた革靴。
さりげなく選ばれた服なのに、彼が纏うとどこか舞台の一幕のように見えてしまう。
その姿を目にしただけで、アナベルの胸は不意に高鳴っていた。
「エリオットさん。同じタイミングでしたね」
「本当だ。……気持ちが通じ合ってるのかな」
「ですね!」
二人は視線を合わせて、思わず笑い合った。
「じゃあ、まずはお茶でもどう?」
「いいですね。ちょうど喉が渇いていました」
自然に手が繋がれた。初めて触れたときには、鼓動が大きくて手汗を気にしてばかりいたけれど――もうその温もりは、心の一部のように感じられた。
*
喫茶店。柔らかな日差しの差し込む窓際の席で、向かい合って座る。
「最近、お互いに忙しかったね。疲れてないかい?」
エリオットの問いかけに、アナベルは小さく肩を落とした。
「……実は、ちょっと疲れてました。新作の喜劇の台本に苦戦していて。笑いって、世界共通の感情なのに……国ごとにニュアンスが違って。翻訳すると、なぜか面白さが消えてしまうんです」
「なるほど。文化の違いって大きいのかもしれないね。直訳じゃ伝わらないこともあるだろうし」
エリオットは真剣に頷き、彼女の話に耳を傾ける。
「私、自分の引き出しの少なさを痛感してしまって……語彙力も、表現力も、まだまだ足りないなって」
視線を落とすアナベルの手を、エリオットはそっと取った。
「アナベル、顔色が少し悪いな。無理してない?」
「……だ、大丈夫です」
笑顔を作るが、彼の鋭い眼差しはすぐに彼女の揺れを見抜いてしまう。
「君は真面目だから……全部一人で背負い込んでしまうのが心配だよ」
図星だった。胸の奥がじんわり熱くなり、言葉が出ない。うっすら滲んだ涙を、彼の優しい声がすくい取ってくれるようだった。
(……エリオットさんと離れてまで、留学する必要があるのかな……?)
心の一部はそう囁く。
けれど、そのさらに奥では、もっと広い世界を見たい、成長したいという小さな炎が消えずに灯っていた。
*
午後は、フェイナルトで評判の管弦楽団の演奏会へ足を運ぶ。
深い音色が会場を満たし、二人は隣に並んで音楽に耳を傾けた。
「とても素敵でしたね」
「本当に。……楽器が弾けたら良いなって思ったよ。アナベルは?」
「私はピアノくらいです」
「いいな!僕は全然弾けなくて。姉が習ってたピアノを、遊びででたらめに弾いたくらい」
「ふふふ、エリオットさんのでたらめ演奏……ちょっと聴いてみたいです」
「いやいや、僕の方だ。アナベルのピアノ、聴いてみたいな」
軽口を交わしながら歩く帰り道。
夕焼けに染まる街並みの中、繋いだ手の温もりは、どこまでも優しく心を包む。
立ち止まった瞬間、ふとエリオットがアナベルを見つめた。
彼女が首をかしげたその時――彼の手が頬に触れる。
「……キス、していい?」
囁きに、アナベルの心臓が飛び跳ねた。頬が一気に熱を帯び、ただ小さく頷く。
次の瞬間、夕暮れ色に包まれた唇がそっと重なった。甘く、柔らかく、世界が静かに溶け合っていくような一瞬。
「……」
「……ふふ、夕焼けのせいで、顔が真っ赤になってる」
「顔が熱いです…夕焼けのせいだけじゃ…ないかも…」
「アナベル、可愛い」
もう一度、今度はゆっくりと長い口づけを交わした。お互いの気持ちを確かめ合うように――。
*
――夜、下宿に戻りベッドに顔を埋めたアナベルは、まだ胸の高鳴りが収まらなかった。
(エリオットさんが好き……本当に、好き……)
けれど、机の上の台本とルクリト語の辞書に視線が移る。
(夢を追いたい……でも……)
奇跡のように想いが通じ合い、ようやく始まった二人の関係。
それなのに――遠く離れても、同じ気持ちでいられるのだろうか。
不安と、新しい未来を切に望む気持ちとが、胸の奥でぶつかり合う。
アナベルは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、必死に心を落ち着けようとした。
(どうしたらいいの……?)
答えはまだ見えない。
けれど、その夜、眠りにつこうとする彼女の胸の奥には――消えない灯のように、「留学したい」という願いが、確かに芽吹き続けていた。
久しぶりの休日デート。
アナベルは鏡の前で何度も姿を確かめた。淡いブルーのワンピースは、控えめながらも清楚で涼やかな印象を与える。胸元に小さなペンダントを添え、髪はゆるくまとめて――どこか少女のような初々しさを残したまま、公園へと向かった。
心臓は鼓動を早め、待ち合わせ場所へ近づくにつれ、頬の赤みが増していく。
「アナベル!」
背後から聞き慣れた声。振り返ると、エリオットが小走りに近づいてくるところだった。
いつもの舞台衣装でも稽古着でもなく、今日は休日らしい装いだ。
白いシャツの袖を軽くまくり、深いネイビーのベストを重ねている。無造作に流した前髪が風に揺れた。
脚にはすっきりとした黒のトラウザーズ、足元は磨き込まれた革靴。
さりげなく選ばれた服なのに、彼が纏うとどこか舞台の一幕のように見えてしまう。
その姿を目にしただけで、アナベルの胸は不意に高鳴っていた。
「エリオットさん。同じタイミングでしたね」
「本当だ。……気持ちが通じ合ってるのかな」
「ですね!」
二人は視線を合わせて、思わず笑い合った。
「じゃあ、まずはお茶でもどう?」
「いいですね。ちょうど喉が渇いていました」
自然に手が繋がれた。初めて触れたときには、鼓動が大きくて手汗を気にしてばかりいたけれど――もうその温もりは、心の一部のように感じられた。
*
喫茶店。柔らかな日差しの差し込む窓際の席で、向かい合って座る。
「最近、お互いに忙しかったね。疲れてないかい?」
エリオットの問いかけに、アナベルは小さく肩を落とした。
「……実は、ちょっと疲れてました。新作の喜劇の台本に苦戦していて。笑いって、世界共通の感情なのに……国ごとにニュアンスが違って。翻訳すると、なぜか面白さが消えてしまうんです」
「なるほど。文化の違いって大きいのかもしれないね。直訳じゃ伝わらないこともあるだろうし」
エリオットは真剣に頷き、彼女の話に耳を傾ける。
「私、自分の引き出しの少なさを痛感してしまって……語彙力も、表現力も、まだまだ足りないなって」
視線を落とすアナベルの手を、エリオットはそっと取った。
「アナベル、顔色が少し悪いな。無理してない?」
「……だ、大丈夫です」
笑顔を作るが、彼の鋭い眼差しはすぐに彼女の揺れを見抜いてしまう。
「君は真面目だから……全部一人で背負い込んでしまうのが心配だよ」
図星だった。胸の奥がじんわり熱くなり、言葉が出ない。うっすら滲んだ涙を、彼の優しい声がすくい取ってくれるようだった。
(……エリオットさんと離れてまで、留学する必要があるのかな……?)
心の一部はそう囁く。
けれど、そのさらに奥では、もっと広い世界を見たい、成長したいという小さな炎が消えずに灯っていた。
*
午後は、フェイナルトで評判の管弦楽団の演奏会へ足を運ぶ。
深い音色が会場を満たし、二人は隣に並んで音楽に耳を傾けた。
「とても素敵でしたね」
「本当に。……楽器が弾けたら良いなって思ったよ。アナベルは?」
「私はピアノくらいです」
「いいな!僕は全然弾けなくて。姉が習ってたピアノを、遊びででたらめに弾いたくらい」
「ふふふ、エリオットさんのでたらめ演奏……ちょっと聴いてみたいです」
「いやいや、僕の方だ。アナベルのピアノ、聴いてみたいな」
軽口を交わしながら歩く帰り道。
夕焼けに染まる街並みの中、繋いだ手の温もりは、どこまでも優しく心を包む。
立ち止まった瞬間、ふとエリオットがアナベルを見つめた。
彼女が首をかしげたその時――彼の手が頬に触れる。
「……キス、していい?」
囁きに、アナベルの心臓が飛び跳ねた。頬が一気に熱を帯び、ただ小さく頷く。
次の瞬間、夕暮れ色に包まれた唇がそっと重なった。甘く、柔らかく、世界が静かに溶け合っていくような一瞬。
「……」
「……ふふ、夕焼けのせいで、顔が真っ赤になってる」
「顔が熱いです…夕焼けのせいだけじゃ…ないかも…」
「アナベル、可愛い」
もう一度、今度はゆっくりと長い口づけを交わした。お互いの気持ちを確かめ合うように――。
*
――夜、下宿に戻りベッドに顔を埋めたアナベルは、まだ胸の高鳴りが収まらなかった。
(エリオットさんが好き……本当に、好き……)
けれど、机の上の台本とルクリト語の辞書に視線が移る。
(夢を追いたい……でも……)
奇跡のように想いが通じ合い、ようやく始まった二人の関係。
それなのに――遠く離れても、同じ気持ちでいられるのだろうか。
不安と、新しい未来を切に望む気持ちとが、胸の奥でぶつかり合う。
アナベルは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、必死に心を落ち着けようとした。
(どうしたらいいの……?)
答えはまだ見えない。
けれど、その夜、眠りにつこうとする彼女の胸の奥には――消えない灯のように、「留学したい」という願いが、確かに芽吹き続けていた。
21
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
いきなり結婚しろと言われても、相手は7才の王子だなんて冗談はよしてください
シンさん
恋愛
金貸しから追われる、靴職人のドロシー。
ある日突然、7才のアイザック王子にプロポーズされたんだけど、本当は20才の王太子様…。
こんな事になったのは、王家に伝わる魔術の7つ道具の1つ『子供に戻る靴』を履いてしまったから。
…何でそんな靴を履いたのか、本人でさえわからない。けど王太子が靴を履いた事には理由があった。
子供になってしまった20才の王太子と、靴職人ドロシーの恋愛ストーリー
ストーリーは完結していますので、毎日更新です。
表紙はぷりりん様に描いていただきました(゜▽゜*)
【完結】あなたの瞳に映るのは
今川みらい
恋愛
命を救える筈の友を、俺は無慈悲に見捨てた。
全てはあなたを手に入れるために。
長年の片想いが、ティアラの婚約破棄をきっかけに動き出す。
★完結保証★
全19話執筆済み。4万字程度です。
前半がティアラside、後半がアイラスsideになります。
表紙画像は作中で登場するサンブリテニアです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~
marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」
「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」
私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。
暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。
彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。
それなのに……。
やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。
※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。
※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
ローザリンデの第二の人生
梨丸
恋愛
伯爵令嬢、ローザリンデの夫はいつも彼女より仕事を優先させ、彼女を無碍にしている。
彼には今はもういない想い人がいた。
私と結婚したことにいい思いをしていないことは知っていた。
けれど、私の命が懸かっていた時でさえも、彼の精神は変わらなかった。
あなたが愛してくれないのなら、私は勝手に幸せになります。
吹っ切れたローザリンデは自分自身の幸せのために動くことにした。
※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。)
1/10 HOTランキング1位、小説、恋愛3位ありがとうございます。
【完結】大好きなあなたのために…?
月樹《つき》
恋愛
私には子供の頃から仲の良い大好きな幼馴染がいた。
2人でよく読んだ冒険のお話の中では、最後に魔物を倒し立派な騎士となった男の子と、それを支えてきた聖女の女の子が結ばれる。
『俺もこの物語の主人公みたいに立派な騎士になるから』と言って、真っ赤な顔で花畑で摘んだ花束をくれた彼。あの時から彼を信じて支えてきたのに…
いつの間にか彼の隣には、お姫様のように可憐な女の子がいた…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる