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針先が布をすくうたび、小さな金糸のきらめきが陽に揺れた。
セレナは静かに手元を見つめていたが、すぐに視線が泳ぎ、細い指先が止まる。胸の奥にこみ上げるため息を抑えきれず、そっと吐き出した。
──ユーグがこの家を訪れたのは、もう二週間も前のこと。
思い返せば、会えばいつも、彼の望むままに抱かれてしまっていた。ただ流され、身も心も委ねるばかりの自分に、セレナは呆れ、そして苦しんだ。
──でも、私だって……。
胸の奥で、もう一人の自分が冷ややかに囁く。
彼に抱かれることを、望んでいるくせに。
その時だけは、何も考えずにいられて楽だったくせに。
その言葉は否応なく図星で、セレナは針を持つ手をきつく握りしめた。
彼が去った後の虚しさが、日ごとに濃くなっていくことからは、もう目を逸らせなかった。
窓の外では、アニーが庭にしゃがみ込み、花壇の草を抜いている。ぼんやりとその光景を眺めながら、ふと気づく。
──最後に街に出たのは、いつだっただろう。
数えてみれば、もう四か月は過ぎていた。
(まるで籠の鳥だわ……)
自嘲の笑みが唇をかすめる。
嫌な思考が胸を覆いはじめ、セレナは小さく首を振った。
今は考えてはいけない。
今日、この刺繍は仕上げなければならない。夕刻には、ライナスの商会の従業員が取りに来るのだ。
机の端に置かれたライナスからのメモに、視線が吸い寄せられる。
隣国で、セレナの刺繍が人気を博し、とても売れている──そう綴られていた。
そして最後に、ひとつの提案。
「いくつか新作を仕上げ、個展を開いてはどうだろう」
──個展。
その響きだけで、胸の奥がふわりと熱を帯びる。けれど、ユーグに話せばきっと反対されるだろう。この屋敷に籠っている方が、彼にとっては都合がいいのだから。
セレナは小さな紙片をそっと畳み、机の引き出しの奥へ押し込んだ。アニーの目に触れぬよう、念には念を入れて。
──私の刺繍を好きだと言ってくれる人がいる。
それだけで、胸の奥を締めつけていた苦しさが、ほんの少しほどけていく。
個展を目標にしたい。
作品をいくつも仕上げたい。
もっと、モチーフになるものに触れたい。そう思えば、外に出たいという気持ちが自然と芽生えていた。
ちょうどその時だった。
窓の外、屋敷の前に一台の豪奢な馬車が停まる。黒光りする車体の側面には、見慣れた紋章──ユーグの家の家紋が掲げられている。
「……ユーグ様?」
思わず、セレナは立ち上がる。
豪奢な馬車が屋敷の前で静かに止まった。
扉が開き、濃紺のドレスを纏った女性が、優雅に、しかし一切の隙なく降り立つ。
真雪のような肌は、その深い紺をさらに引き立て、肩まで流れる漆黒の髪は、風に触れても一筋たりとも乱れない。
整った顔立ちは、気品と冷ややかな威厳を湛え──そして、息を呑むほどに美しかった。後ろには、落ち着いた身なりの侍女が控えていた。
庭先で作業していたアニーが鍬を置き、怪訝そうに顔を上げる。
「……どちら様でしょうか」
女性はその視線を正面から受け止め、微かに口角を上げた。背後から侍女が涼やかに名を告げた。
「このお方は、ヴァルメーレ伯爵夫人です」
アニーの手がわずかに止まり、目がかすかに見開かれる。だが、使用人らしくすぐに姿勢を正し、玄関へ向かって声をかける。
「奥様、お客様です」
ほどなくして、玄関の扉が開いた。
その瞬間、エリザベスの表情がかすかに揺らぐ。
──あれは……。
陽光の中に立つ若い女性。透き通るような肌、柔らかく波打つ金髪、そして、まっすぐにこちらを見る瞳。
その顔立ちは、王太子の側妃であり、ユーグが長年、想い続けていた──マリアンヌにあまりにもよく似ていた。
エリザベスは、一瞬、言葉を失い、わずかに息を呑む。しかし、すぐに表情を整え、何事もなかったかのように口を開いた。
「……あなたが、この家の者かしら?」
低く、よく通る声が玄関先の空気を張り詰めさせる。
「……はい、セレナと申します」
か細い声で、セレナは返答をした。
セレナは無意識に布を握りしめ、喉が乾くのを感じた。すぐそばにアニーが立っているはずなのに、不思議とその存在さえ遠くに感じられる。
世界に残っているのは、目の前の女性と、自分を射抜くようなその視線だけだった。
張り詰めた空気の中、エリザベスは微笑みもせず、凛とした声で名を告げた。
「私は──ユーグの妻、エリザベス・ヴァルメーレ」
その言葉は、鋭い刃のようにセレナの胸を貫いた。
「……っ!?」
驚きのあまり、声にならない。喉が凍りつき、空気が急に重くなる。
エリザベスは、わざとゆっくりと首を傾げる。
「あら……あなた、ユーグが結婚していること、知らなかったの?」
セレナは何も返せなかった。顔面から血の気が引き、手足の感覚さえ遠のいていく。
「……」
(……ユーグ様が、結婚?)
いつかは、ユーグが貴族の令嬢と婚姻するだろうと漠然と思ってはいた。
それでも、すでに結婚しているという事実を知った瞬間、セレナの頭は真っ白になり、驚きのあまり、思考が完全に停止してしまった。
セレナは静かに手元を見つめていたが、すぐに視線が泳ぎ、細い指先が止まる。胸の奥にこみ上げるため息を抑えきれず、そっと吐き出した。
──ユーグがこの家を訪れたのは、もう二週間も前のこと。
思い返せば、会えばいつも、彼の望むままに抱かれてしまっていた。ただ流され、身も心も委ねるばかりの自分に、セレナは呆れ、そして苦しんだ。
──でも、私だって……。
胸の奥で、もう一人の自分が冷ややかに囁く。
彼に抱かれることを、望んでいるくせに。
その時だけは、何も考えずにいられて楽だったくせに。
その言葉は否応なく図星で、セレナは針を持つ手をきつく握りしめた。
彼が去った後の虚しさが、日ごとに濃くなっていくことからは、もう目を逸らせなかった。
窓の外では、アニーが庭にしゃがみ込み、花壇の草を抜いている。ぼんやりとその光景を眺めながら、ふと気づく。
──最後に街に出たのは、いつだっただろう。
数えてみれば、もう四か月は過ぎていた。
(まるで籠の鳥だわ……)
自嘲の笑みが唇をかすめる。
嫌な思考が胸を覆いはじめ、セレナは小さく首を振った。
今は考えてはいけない。
今日、この刺繍は仕上げなければならない。夕刻には、ライナスの商会の従業員が取りに来るのだ。
机の端に置かれたライナスからのメモに、視線が吸い寄せられる。
隣国で、セレナの刺繍が人気を博し、とても売れている──そう綴られていた。
そして最後に、ひとつの提案。
「いくつか新作を仕上げ、個展を開いてはどうだろう」
──個展。
その響きだけで、胸の奥がふわりと熱を帯びる。けれど、ユーグに話せばきっと反対されるだろう。この屋敷に籠っている方が、彼にとっては都合がいいのだから。
セレナは小さな紙片をそっと畳み、机の引き出しの奥へ押し込んだ。アニーの目に触れぬよう、念には念を入れて。
──私の刺繍を好きだと言ってくれる人がいる。
それだけで、胸の奥を締めつけていた苦しさが、ほんの少しほどけていく。
個展を目標にしたい。
作品をいくつも仕上げたい。
もっと、モチーフになるものに触れたい。そう思えば、外に出たいという気持ちが自然と芽生えていた。
ちょうどその時だった。
窓の外、屋敷の前に一台の豪奢な馬車が停まる。黒光りする車体の側面には、見慣れた紋章──ユーグの家の家紋が掲げられている。
「……ユーグ様?」
思わず、セレナは立ち上がる。
豪奢な馬車が屋敷の前で静かに止まった。
扉が開き、濃紺のドレスを纏った女性が、優雅に、しかし一切の隙なく降り立つ。
真雪のような肌は、その深い紺をさらに引き立て、肩まで流れる漆黒の髪は、風に触れても一筋たりとも乱れない。
整った顔立ちは、気品と冷ややかな威厳を湛え──そして、息を呑むほどに美しかった。後ろには、落ち着いた身なりの侍女が控えていた。
庭先で作業していたアニーが鍬を置き、怪訝そうに顔を上げる。
「……どちら様でしょうか」
女性はその視線を正面から受け止め、微かに口角を上げた。背後から侍女が涼やかに名を告げた。
「このお方は、ヴァルメーレ伯爵夫人です」
アニーの手がわずかに止まり、目がかすかに見開かれる。だが、使用人らしくすぐに姿勢を正し、玄関へ向かって声をかける。
「奥様、お客様です」
ほどなくして、玄関の扉が開いた。
その瞬間、エリザベスの表情がかすかに揺らぐ。
──あれは……。
陽光の中に立つ若い女性。透き通るような肌、柔らかく波打つ金髪、そして、まっすぐにこちらを見る瞳。
その顔立ちは、王太子の側妃であり、ユーグが長年、想い続けていた──マリアンヌにあまりにもよく似ていた。
エリザベスは、一瞬、言葉を失い、わずかに息を呑む。しかし、すぐに表情を整え、何事もなかったかのように口を開いた。
「……あなたが、この家の者かしら?」
低く、よく通る声が玄関先の空気を張り詰めさせる。
「……はい、セレナと申します」
か細い声で、セレナは返答をした。
セレナは無意識に布を握りしめ、喉が乾くのを感じた。すぐそばにアニーが立っているはずなのに、不思議とその存在さえ遠くに感じられる。
世界に残っているのは、目の前の女性と、自分を射抜くようなその視線だけだった。
張り詰めた空気の中、エリザベスは微笑みもせず、凛とした声で名を告げた。
「私は──ユーグの妻、エリザベス・ヴァルメーレ」
その言葉は、鋭い刃のようにセレナの胸を貫いた。
「……っ!?」
驚きのあまり、声にならない。喉が凍りつき、空気が急に重くなる。
エリザベスは、わざとゆっくりと首を傾げる。
「あら……あなた、ユーグが結婚していること、知らなかったの?」
セレナは何も返せなかった。顔面から血の気が引き、手足の感覚さえ遠のいていく。
「……」
(……ユーグ様が、結婚?)
いつかは、ユーグが貴族の令嬢と婚姻するだろうと漠然と思ってはいた。
それでも、すでに結婚しているという事実を知った瞬間、セレナの頭は真っ白になり、驚きのあまり、思考が完全に停止してしまった。
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