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カタリナが学園から帰宅すると、半年ぶりに両親が旅から戻り、応接室でくつろいでいた。
父・パウエルと母・エナリアは、まるで買い物帰りのような軽さで、久しぶりに会う娘に声を掛けた。
「まあ、カタリナ。元気?」
「まだ学園を卒業していないのか? 今は何年生だ?」
パウエルは首を傾げながら、学園帰りの娘を不思議そうに見つめた。
「あと二か月で卒業いたします」
カタリナはまっすぐに両親を見て答える。
「まあ、そうなのね。おめでとう」
「おお、そうか。それなら良かった」
母は新調の帽子の羽根を指で撫で、父は肩をほぐしながら続けた。
「なら、ちょうどいい。卒業と同時に、家督――当主の座をお前に譲ろう」
「……お父様?」
「今日帰ったのも、手続きの書類があったからだ」
厳格な祖父母に後継者として育てられてきたカタリナだったが、さすがに唐突な言葉に戸惑う。
「お父様たちは、どうなさるのですか?」
「私たちは領地で気ままに暮らすさ」
「近日中には戻りたいから、早めに書類へサインしてちょうだいな」
両親はにこやかに、勝手に会話を続けた。カタリナがどう思うかに、関心などないようだった。
言葉は確かに「譲る」だったが、響きは「押しつける」に近い。カタリナは小さくため息をつき、なおも尋ねる。
「お父様……シュタイン家のリュミエールとの婚姻の時期は、いかがいたしましょうか」
「婚姻の時期? 当人同士で決めなさい。若いんだから」
――まるで他人事。
心のどこかで、乾いた音がした。だが表情は動かさない。いつも通りに一礼し、必要な書類だけ受け取って辞した。
***
数日後、月に一度の定例のお茶会。
磨かれた白磁、薄荷色の砂糖菓子。アリサが音もなく退室すると、応接室には二人だけの静けさが落ちた。
「両親が戻りましたの」
カップを置いて、カタリナが切り出す。
「当主の座は正式に譲られました。……執務は『頑張って』とのことでしたわ」
「……そうか」
リュミエールは微笑の形を保ったまま、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。
「婚姻の時期は、当人同士で――と」
「……うん」
短い相槌ののち、彼はふっと息を吸い、置いたカップの持ち手を一度だけ撫でた。仮面の光沢が、ほんの少し曇る。
「カタリナ。僕は――卒業したら、ハバナールへ行く」
言葉は静かで、よく通った。
室内の空気が一枚、薄く重なる。カタリナはまぶたを一度だけ伏せ、すぐに開いた。
「留学、ですか?」
「うん。学士院で一年……の予定だ。状況によっては延びるかもしれない」
「いつ、発たれますの?」
「卒業式の翌日」
淡々と並ぶ事実。心は波立つのに、口からは静水のように言葉が出る。幼いころから叩き込まれた制御は、こういう時のためにあったのだと、皮肉に思う。
「手配は……向こうの縁で。宿舎もすべて整っている」
「そう……」
カタリナは、薄く笑んだ。
「おめでとうございます。ご活躍をお祈りしております」
礼のかたちを取った言葉が、喉の奥で少しだけ痛む。彼はかすかに肩を揺らした。
「怒らないのかい?」
「怒りは判断を曇らせますもの。……もう決められたのでしょう?」
「勝手を言って申し訳ない。君が送り出してくれることに感謝するよ」
リュミエールは言葉を探し、碧眼に確かな意志を宿す。
「必ず戻る。婚約は、僕にとって約束であり、帰る場所だ」
約束――という音が、白磁の内側で輪になって震えた。
「手紙を書くよ」
「ええ。待っていますわ」
返す声は静かだったが、胸の奥で小さな棘がひとつ、裏返る。――「ハバナール」に触れた瞬間の、あの翳り。やはりそこに、彼の核心がある。
「……君は強いね」
「強く見える訓練は、してまいりましたから」
わずかに冗談を混ぜると、彼はほっとしたように笑った。だが笑みの底には、痛みの色が滲む。
「婚姻の時期は、戻られてから改めて――で、よろしいですの?」
「そうしたい。君の執務に合わせて、僕も準備を進める」
「承知しました」
それ以上、余計な言葉は置かない。置いた瞬間、何かが崩れる気がした。
アリサが控えめに扉を叩く。そっと差し出されたポットから、紅茶が細い糸を描いて注がれ、白磁の底に薄い円を作る。やがて輪は静かに溶けていった。
戻らない時間は、まだ始まってもいないのに、指先だけが早くも冷える。
「見送りは――」
「来なくていいよ。境界は、短いほうがいい」
「ええ…わかりました」
立ち上がった二人は、並んで窓辺に立つ。庭の木々は冬芽を抱え、遠い空の色を映していた。
「では、次のお茶会で」
「うん。次で」
別れの挨拶に、いつも通りの距離を添える。扉が閉まるまでのわずかな時間、互いに視線を交わさない作法が、二人を守り、同時に刺した。
扉が静かに収まる音。残った香りが薄くなる。
カタリナは息を整え、机上の予定表に新しい線を一本引いた。
――執務、引継ぎ、卒業式、最終の茶会。
感情の位置は書き込む欄がない。だから今は、どこにも置かない。
ただ、彼が戻る場所を揺れないよう整えておく。それが、彼女にできるいちばん実務的で、いちばん私的な仕事だった。
父・パウエルと母・エナリアは、まるで買い物帰りのような軽さで、久しぶりに会う娘に声を掛けた。
「まあ、カタリナ。元気?」
「まだ学園を卒業していないのか? 今は何年生だ?」
パウエルは首を傾げながら、学園帰りの娘を不思議そうに見つめた。
「あと二か月で卒業いたします」
カタリナはまっすぐに両親を見て答える。
「まあ、そうなのね。おめでとう」
「おお、そうか。それなら良かった」
母は新調の帽子の羽根を指で撫で、父は肩をほぐしながら続けた。
「なら、ちょうどいい。卒業と同時に、家督――当主の座をお前に譲ろう」
「……お父様?」
「今日帰ったのも、手続きの書類があったからだ」
厳格な祖父母に後継者として育てられてきたカタリナだったが、さすがに唐突な言葉に戸惑う。
「お父様たちは、どうなさるのですか?」
「私たちは領地で気ままに暮らすさ」
「近日中には戻りたいから、早めに書類へサインしてちょうだいな」
両親はにこやかに、勝手に会話を続けた。カタリナがどう思うかに、関心などないようだった。
言葉は確かに「譲る」だったが、響きは「押しつける」に近い。カタリナは小さくため息をつき、なおも尋ねる。
「お父様……シュタイン家のリュミエールとの婚姻の時期は、いかがいたしましょうか」
「婚姻の時期? 当人同士で決めなさい。若いんだから」
――まるで他人事。
心のどこかで、乾いた音がした。だが表情は動かさない。いつも通りに一礼し、必要な書類だけ受け取って辞した。
***
数日後、月に一度の定例のお茶会。
磨かれた白磁、薄荷色の砂糖菓子。アリサが音もなく退室すると、応接室には二人だけの静けさが落ちた。
「両親が戻りましたの」
カップを置いて、カタリナが切り出す。
「当主の座は正式に譲られました。……執務は『頑張って』とのことでしたわ」
「……そうか」
リュミエールは微笑の形を保ったまま、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。
「婚姻の時期は、当人同士で――と」
「……うん」
短い相槌ののち、彼はふっと息を吸い、置いたカップの持ち手を一度だけ撫でた。仮面の光沢が、ほんの少し曇る。
「カタリナ。僕は――卒業したら、ハバナールへ行く」
言葉は静かで、よく通った。
室内の空気が一枚、薄く重なる。カタリナはまぶたを一度だけ伏せ、すぐに開いた。
「留学、ですか?」
「うん。学士院で一年……の予定だ。状況によっては延びるかもしれない」
「いつ、発たれますの?」
「卒業式の翌日」
淡々と並ぶ事実。心は波立つのに、口からは静水のように言葉が出る。幼いころから叩き込まれた制御は、こういう時のためにあったのだと、皮肉に思う。
「手配は……向こうの縁で。宿舎もすべて整っている」
「そう……」
カタリナは、薄く笑んだ。
「おめでとうございます。ご活躍をお祈りしております」
礼のかたちを取った言葉が、喉の奥で少しだけ痛む。彼はかすかに肩を揺らした。
「怒らないのかい?」
「怒りは判断を曇らせますもの。……もう決められたのでしょう?」
「勝手を言って申し訳ない。君が送り出してくれることに感謝するよ」
リュミエールは言葉を探し、碧眼に確かな意志を宿す。
「必ず戻る。婚約は、僕にとって約束であり、帰る場所だ」
約束――という音が、白磁の内側で輪になって震えた。
「手紙を書くよ」
「ええ。待っていますわ」
返す声は静かだったが、胸の奥で小さな棘がひとつ、裏返る。――「ハバナール」に触れた瞬間の、あの翳り。やはりそこに、彼の核心がある。
「……君は強いね」
「強く見える訓練は、してまいりましたから」
わずかに冗談を混ぜると、彼はほっとしたように笑った。だが笑みの底には、痛みの色が滲む。
「婚姻の時期は、戻られてから改めて――で、よろしいですの?」
「そうしたい。君の執務に合わせて、僕も準備を進める」
「承知しました」
それ以上、余計な言葉は置かない。置いた瞬間、何かが崩れる気がした。
アリサが控えめに扉を叩く。そっと差し出されたポットから、紅茶が細い糸を描いて注がれ、白磁の底に薄い円を作る。やがて輪は静かに溶けていった。
戻らない時間は、まだ始まってもいないのに、指先だけが早くも冷える。
「見送りは――」
「来なくていいよ。境界は、短いほうがいい」
「ええ…わかりました」
立ち上がった二人は、並んで窓辺に立つ。庭の木々は冬芽を抱え、遠い空の色を映していた。
「では、次のお茶会で」
「うん。次で」
別れの挨拶に、いつも通りの距離を添える。扉が閉まるまでのわずかな時間、互いに視線を交わさない作法が、二人を守り、同時に刺した。
扉が静かに収まる音。残った香りが薄くなる。
カタリナは息を整え、机上の予定表に新しい線を一本引いた。
――執務、引継ぎ、卒業式、最終の茶会。
感情の位置は書き込む欄がない。だから今は、どこにも置かない。
ただ、彼が戻る場所を揺れないよう整えておく。それが、彼女にできるいちばん実務的で、いちばん私的な仕事だった。
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