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夜会の明かりが消え、王都は薄い雲に朝を隠した。
カタリナは鏡台の前で髪飾りを外しながら、昨夜の残響を一つずつ指先からほどいていった――真紅の裳裾、きらめくシャンデリア、翡翠の瞳の挑発、そして、間に入ったアイザックの手。
侍女アリサが盆を置く。
「温かいお茶を、少し濃いめにいたしました」
「ありがとう。……招待状と書簡は?」
「いくつかございます。こちらに置かせていただきます」
アリサが紅茶の隣に書簡類を置く。
束の一番上には、スティール公爵家からの礼状。形式的な文面。次に、舞踏会の主催者側の一覧に載るような社交報。さらりと目を通して、脇へとやった。
二通目の封蝋は、シトラール伯爵家の紋章――アイザックからだった。
封を切ると、短い礼と、薄い紙片が滑り出た。紙片には、昨夜のワルツで使われた曲名と、簡素な一筆。
【演奏が止まるまで、君は一度も足を乱さなかった。礼を言う。――I 】
読み終えて、カタリナは紙片を閉じ、永遠花の瓶の下へ差し込んだ。淡い光に紙が透ける。
三通目は、商人ギルド便――海の浅瀬のような薄い封筒。封蝋は商人印があった。
心臓の鼓動が、紙の厚みを測るように静かに整っていく。
【市場の北の路地で、星涙石の欠片を磨く職人を見つけた。
彼は言う。「夜明け前の石は紫が差す」。君の言葉と同じだ。
すこし遠回りをするが、その方が景色がいい。ーーL 】
深刻さを軽やかに包む、掴みどころのない文面――けれど、確かにリュミエールだ。
「……滞らずに届くようになったわ」
小さく呟くと、アリサが微笑んだ。
「よろしゅうございましたね」
「ええ。――返信は、同じ経路で」
「畏まりました」
アリサが下がると、カタリナは昨夜の舞踏会を思い出す。
エメラルダの翡翠の眼差しは、明らかな“試し”だった。
『ところで……リュミエール様からの便り、まだ届いていないのですって?
二年も沈黙を保つなんて、普通では考えられませんわ。
婚約者を思うなら、一言でも手紙を書くのが筋でしょうに』
カタリナはペンを取り、便箋の端に一文をしたためた。
【夜明け前の石の紫を、こちらの東の窓でも見た。景色がいい道を。どうか、転ばないように。――K】
封をして、鈴を鳴らす。
扉の外の気配が動き、足音が遠のく。書簡は、海風の路を選ぶだろう。
窓の外、王都の空はまだ薄い。
永遠花が、わずかに明滅した――揺れてはいない。芯だけが、確かだった。
***
昼過ぎ、執務の合間に、執事が控えめに告げる。「シトラール伯爵令息がお見えです」
応接に出ると、アイザックは昨夜と同じ落ち着きで立ち上がった。
「突然すまない。短く済ませる。――君が投じた“北路便”、中継での受領がさらに一つ確認できた。王都本局経由の方は、記録がまたぼかされている」
「ありがとうございます。助かります」
礼を述べると、彼はわずかに目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「昨夜の……私の元婚約者の件なのだが、煩わせたなら謝る。……あれは、私の過去の整理の話だ。君を巻き込みたくはない」
「煩わされてはいません。――踊りのお相手、助かりました」
短い沈黙。
アイザックは、言葉を選ぶように一拍置いてから、穏やかに笑った。
「なら、よかった。……いつか、また」
足音が遠ざかる。
ドアが閉まる前、ふと振り返った彼の横顔は、陽に溶けて柔らかかった。
*
その日の夕刻。
商人ギルドの飛脚が、息を弾ませて小包を届けた。封筒ではない、薄い箱。
「軽い……?」
開けると、黒い紙に薄金の粉をはたいた拓(たく)が一枚。
小さな“鷹の留め金”の模様が、指先に飛び立つ寸前のように刻まれている。紙の端に、さらりとした筆跡。
【市場裏の古道具屋に、こんな拓本があった。いつの時代のものかは、まだ分からない。ただ、君が好きそうだと思って。L】
説明しすぎない、軽やかな贈り物。
拓本を光に透かすと、金粉が細かくきらめいた。
(……遠回りでいいのね)
呟いて、カタリナは拓本を永遠花のそばに立てかけた。
揺れない光と、飛び立つ鷹の影――両方とも、今の自分に必要な形に見えた。
夜、書見机に向かい、予定表に静かに線を引く。最後に、余白に小さく書いた。
“遠回りの道は、景色がいい”
ペン先を置くと、胸の奥のざわめきが、ほんの少しだけほどけた。
――そして、ハバナールの夜もまた、同じ星をひとつ灯すのだった。
***
夜明け前、リュミエールはすでに起きて、自室の窓辺に立ち、外の景色を見ていた。
薄青い空のふちが、紫を一滴だけ落としたように色づいていく。
リュミエールは机の上を片づけ、小袋から石を出した。掌の上で星涙石がわずかに光り、紫を帯びる。――まるで手紙の文面をなぞるように。
扉が二度、控えめに叩かれた。商人ギルドの飛脚が肩に革嚢を掛けて立っている。
「北路便、リュミエール殿あて」
「ありがとう。いつもの……」
「焼き栗二つ、ですね」
二人で笑い、栗と引き換えに海色の封筒が手に渡る。封蝋は商人印。指先が、知っている重みを確かめるように止まった。
封を切る。紙が朝の空気を吸って柔らかくなる。
【夜明け前の石の紫を、こちらの東の窓でも見た。景色がいい道を。どうか、転ばないように。――K 】
読み終える前に、口元が勝手にほどけた。彼は手紙を光へかざし、もう一度、今度はゆっくりたどる。
「……見ていたんだね、同じ色を」
窓枠に手紙を立て掛け、石をそっと横に置く。紫は、確かに彼女の文に呼応するかのように濃くなった。
(転ばないように、か)
視線が紙の縁をなぞる。忠告めいた優しさ。彼女らしい簡潔さ。そこに、言外の心配が薄く透けているのを、彼はちゃんと読める。
彼は椅子の背に体を預け、軽く息を吐いた。胸の奥に張っていた細い糸が、ゆるりと音もなくほどける。
「景色のいい道は、道草が得意な人間に向いてる。任せて」
誰にともなく、冗談めかして軽く呟く。その軽さの核は、確かな安堵だった。
机の引き出しから、小さな麻紐と薄い板紙を取り出した。
手紙を折らずに収める簡易の差し箱を作り、星涙石と一緒に帆布の鞄へ入れる。肌身離さず、というほど大げさではない。
けれど、今日出かける先々で何度も取り出しては、言葉の端を指でなぞるだろう。自分でもそうなると分かっていた。
カタリナは鏡台の前で髪飾りを外しながら、昨夜の残響を一つずつ指先からほどいていった――真紅の裳裾、きらめくシャンデリア、翡翠の瞳の挑発、そして、間に入ったアイザックの手。
侍女アリサが盆を置く。
「温かいお茶を、少し濃いめにいたしました」
「ありがとう。……招待状と書簡は?」
「いくつかございます。こちらに置かせていただきます」
アリサが紅茶の隣に書簡類を置く。
束の一番上には、スティール公爵家からの礼状。形式的な文面。次に、舞踏会の主催者側の一覧に載るような社交報。さらりと目を通して、脇へとやった。
二通目の封蝋は、シトラール伯爵家の紋章――アイザックからだった。
封を切ると、短い礼と、薄い紙片が滑り出た。紙片には、昨夜のワルツで使われた曲名と、簡素な一筆。
【演奏が止まるまで、君は一度も足を乱さなかった。礼を言う。――I 】
読み終えて、カタリナは紙片を閉じ、永遠花の瓶の下へ差し込んだ。淡い光に紙が透ける。
三通目は、商人ギルド便――海の浅瀬のような薄い封筒。封蝋は商人印があった。
心臓の鼓動が、紙の厚みを測るように静かに整っていく。
【市場の北の路地で、星涙石の欠片を磨く職人を見つけた。
彼は言う。「夜明け前の石は紫が差す」。君の言葉と同じだ。
すこし遠回りをするが、その方が景色がいい。ーーL 】
深刻さを軽やかに包む、掴みどころのない文面――けれど、確かにリュミエールだ。
「……滞らずに届くようになったわ」
小さく呟くと、アリサが微笑んだ。
「よろしゅうございましたね」
「ええ。――返信は、同じ経路で」
「畏まりました」
アリサが下がると、カタリナは昨夜の舞踏会を思い出す。
エメラルダの翡翠の眼差しは、明らかな“試し”だった。
『ところで……リュミエール様からの便り、まだ届いていないのですって?
二年も沈黙を保つなんて、普通では考えられませんわ。
婚約者を思うなら、一言でも手紙を書くのが筋でしょうに』
カタリナはペンを取り、便箋の端に一文をしたためた。
【夜明け前の石の紫を、こちらの東の窓でも見た。景色がいい道を。どうか、転ばないように。――K】
封をして、鈴を鳴らす。
扉の外の気配が動き、足音が遠のく。書簡は、海風の路を選ぶだろう。
窓の外、王都の空はまだ薄い。
永遠花が、わずかに明滅した――揺れてはいない。芯だけが、確かだった。
***
昼過ぎ、執務の合間に、執事が控えめに告げる。「シトラール伯爵令息がお見えです」
応接に出ると、アイザックは昨夜と同じ落ち着きで立ち上がった。
「突然すまない。短く済ませる。――君が投じた“北路便”、中継での受領がさらに一つ確認できた。王都本局経由の方は、記録がまたぼかされている」
「ありがとうございます。助かります」
礼を述べると、彼はわずかに目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「昨夜の……私の元婚約者の件なのだが、煩わせたなら謝る。……あれは、私の過去の整理の話だ。君を巻き込みたくはない」
「煩わされてはいません。――踊りのお相手、助かりました」
短い沈黙。
アイザックは、言葉を選ぶように一拍置いてから、穏やかに笑った。
「なら、よかった。……いつか、また」
足音が遠ざかる。
ドアが閉まる前、ふと振り返った彼の横顔は、陽に溶けて柔らかかった。
*
その日の夕刻。
商人ギルドの飛脚が、息を弾ませて小包を届けた。封筒ではない、薄い箱。
「軽い……?」
開けると、黒い紙に薄金の粉をはたいた拓(たく)が一枚。
小さな“鷹の留め金”の模様が、指先に飛び立つ寸前のように刻まれている。紙の端に、さらりとした筆跡。
【市場裏の古道具屋に、こんな拓本があった。いつの時代のものかは、まだ分からない。ただ、君が好きそうだと思って。L】
説明しすぎない、軽やかな贈り物。
拓本を光に透かすと、金粉が細かくきらめいた。
(……遠回りでいいのね)
呟いて、カタリナは拓本を永遠花のそばに立てかけた。
揺れない光と、飛び立つ鷹の影――両方とも、今の自分に必要な形に見えた。
夜、書見机に向かい、予定表に静かに線を引く。最後に、余白に小さく書いた。
“遠回りの道は、景色がいい”
ペン先を置くと、胸の奥のざわめきが、ほんの少しだけほどけた。
――そして、ハバナールの夜もまた、同じ星をひとつ灯すのだった。
***
夜明け前、リュミエールはすでに起きて、自室の窓辺に立ち、外の景色を見ていた。
薄青い空のふちが、紫を一滴だけ落としたように色づいていく。
リュミエールは机の上を片づけ、小袋から石を出した。掌の上で星涙石がわずかに光り、紫を帯びる。――まるで手紙の文面をなぞるように。
扉が二度、控えめに叩かれた。商人ギルドの飛脚が肩に革嚢を掛けて立っている。
「北路便、リュミエール殿あて」
「ありがとう。いつもの……」
「焼き栗二つ、ですね」
二人で笑い、栗と引き換えに海色の封筒が手に渡る。封蝋は商人印。指先が、知っている重みを確かめるように止まった。
封を切る。紙が朝の空気を吸って柔らかくなる。
【夜明け前の石の紫を、こちらの東の窓でも見た。景色がいい道を。どうか、転ばないように。――K 】
読み終える前に、口元が勝手にほどけた。彼は手紙を光へかざし、もう一度、今度はゆっくりたどる。
「……見ていたんだね、同じ色を」
窓枠に手紙を立て掛け、石をそっと横に置く。紫は、確かに彼女の文に呼応するかのように濃くなった。
(転ばないように、か)
視線が紙の縁をなぞる。忠告めいた優しさ。彼女らしい簡潔さ。そこに、言外の心配が薄く透けているのを、彼はちゃんと読める。
彼は椅子の背に体を預け、軽く息を吐いた。胸の奥に張っていた細い糸が、ゆるりと音もなくほどける。
「景色のいい道は、道草が得意な人間に向いてる。任せて」
誰にともなく、冗談めかして軽く呟く。その軽さの核は、確かな安堵だった。
机の引き出しから、小さな麻紐と薄い板紙を取り出した。
手紙を折らずに収める簡易の差し箱を作り、星涙石と一緒に帆布の鞄へ入れる。肌身離さず、というほど大げさではない。
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