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許可は、驚くほど静かに下りた。
歴史学教授の同席という錘が効いたのだろう。
宮廷記録庫――「狩猟記録簿」の閲覧は、午前十時より一刻。写しは不可、抜き書きは監督下で、と注記が添えられている。
その朝、リュミエールは黒の簡素な上衣に、色味のない手袋を選んだ。
軽やかな笑みはいつも通り、しかし胸元の小袋――星涙石のひやりとした重みだけが現実を繋ぎ止めた。
記録庫は王城の北棟、厚い扉の先にあった。
磨き込まれた木の匂い、古革の甘さ、紙魚が刻んだ微かな波。天窓から落ちる光に、塵が雪のように舞っている。
「規定通り、一冊ずつ」
監督の書記官が淡々と告げ、鎖付きの目録を引いた。教授が頷くと、台車に乗せられた古い簿冊が二冊、卓上へ運ばれる。
背革に金で押された題字――『狩猟記録簿 春—夏・二十余年分綴』。
頁を開くと、鹿の頭数、猟場、同行者、天候。事務の言葉が淡々と並ぶ。
指先が一度止まる。
――《春巡 少随 北路越/青峠渡 花筵宿/鷹笛三声にて出立》
乾いた羊皮紙の文字が、母の押し花の余白に書かれた〈青峠/宿・花筵〉と、ぴたりと重なる。胸の奥で何かが噛み合う音がした。
彼は表情を動かさず、短く抜き書きをした。書記官が斜めから覗き、教授が変わらぬ調子で小さく咳をする。場の空気は、その仕草ひとつでまた均される。
頁を送る。次の束に、不自然な欠落――二枚分が丁寧に抜き取られている。破断は古い。争いの跡ではない、意図と配慮の跡。
(“殿下の時間”は、やはりここで隠される)
欠落の手前に、意味深な一行が置かれていた。
――《留置 礼一件(印:鷹三星)/受人 F・ソレル》
昨日、鷹舎の老人が口を濁した名。私印――鷹と三星。
呼吸が浅くなるのを、飄々とした笑みで覆う。
教授が一つ咳払いをし、低く言う。
「必要なのは“場所”と“時刻”だ。人の名は後から付いてくる」
「ええ。まさに」
リュミエールはペン先を置く。
青峠、花筵。鷹笛三声。春の巡見。礼一件。充分だった。
次の扉は、山の向こう――帳場の古い宿台帳だ。
閲覧の終わりを告げる砂時計の音が落ちる。簿冊が閉じられ、帯紐でくくられた。書記官が手早く片づける。
教授は立ち際、彼の肩を軽く叩いた。「東の窓の紫は、今日も残るだろう」
「ええ、きっと」
記録庫を出ると、石段に春の光が溜まっていた。彼は一段降りるごとに、胸の中の石も少しずつ温まっていくのを感じた。
*
城を離れる前に、寄る場所がひとつあった。
王都のはずれ、小さな書き物屋だ。旅券の申請を頼むついでに、紙を二束。
青峠へ――山越えの通行刻印は、学士院の紹介状で簡略化できる。
扉の鈴が鳴る。若い書記が顔を上げた。
「ご依頼の旅券、三日で」
「助かります。では、宛先をもうひとつ」
窓辺の台で、さらさらと短い便りを書く。
【青峠という名が、今日の紙に現れた。
君が東の窓で待つなら、僕は西の峠で春を拾う。――L】
長くは書かず、いつも通りの調子だった。けれど、言いたいことは全部入っている。
封をして、商人ギルドの北路便に預けた。「焼き栗代」と書いた小袋も一緒に――彼女が笑う顔が、なぜかこれで思い浮かぶ。
*
午後、学士院の中庭。石の縁に腰をかけ、彼は三つの証――星涙石、鷹の留め金、押し花の束――を一度だけ掌で重ねた。
そっと、留め金の裏を爪で探る。
これまで気づかなかった微かな浅彫りがある。斜光にかざすと、線の重なりが“三星”の形に結ばれた。
「……やっぱり、同じ印だ」
囁くと、風が髪を撫で、どこからか笛の短い音が聞こえた気がした。
立ち上がり、軽い足取りで教員棟へ向かう途中、背後から声が飛ぶ。
「シュタイン、君は相変わらず“何かの途中”の顔だな」
経済学の若い講師だっま。からかい半分、興味半分の顔をしている。
「途中が好きなんです。終わりは勝手についてくるから」
肩をすくめると、講師は笑い、
「うらやましい怖さだ」と言った。
*
夕暮れの港道を、宿へ戻る。石畳に潮の光がこぼれ、舟の影が揺れている。
差し箱に一通。薄い海の色。封蝋は簡素な商人印。
【北路、届いたわ。“東の窓”は、今朝も紫。――K 】
彼女もまた短い文章だった。
けれど、そこにいる。彼はふっと笑って、便箋を畳む。心配をかけない言葉を選ぶ、あの人らしい筆致だ。
(もう少しだ。カタリナ)
夜空に浮かぶ月を見つめた。
机に地図を広げ、青峠までの道を指でなぞる。
王都から北東へ三日、峠下の宿場一泊。翌朝に花筵へ――宿簿に二十一年前の頁が残っていれば、最後の穴が埋まる。
星涙石を掌に置き、鷹の留め金をその上に重ねる。光は冷たく、しかし確かだ。
「さて」
きちんとした身支度は、旅の前夜から始まった。靴底を点検し、鞍布を畳み、簡易の封緘糊を小瓶に移す。
軽やかに鼻歌まじりに支度を進め、最後に窓を開いた。東の方角に、小さな祈りをただ一度だけ。
――躊躇わない。
忘れ物は、拾いに行くものだ。
星の見え始めた空に、鷹笛のような短い風が走った。彼は笑って、窓を閉めた。
歴史学教授の同席という錘が効いたのだろう。
宮廷記録庫――「狩猟記録簿」の閲覧は、午前十時より一刻。写しは不可、抜き書きは監督下で、と注記が添えられている。
その朝、リュミエールは黒の簡素な上衣に、色味のない手袋を選んだ。
軽やかな笑みはいつも通り、しかし胸元の小袋――星涙石のひやりとした重みだけが現実を繋ぎ止めた。
記録庫は王城の北棟、厚い扉の先にあった。
磨き込まれた木の匂い、古革の甘さ、紙魚が刻んだ微かな波。天窓から落ちる光に、塵が雪のように舞っている。
「規定通り、一冊ずつ」
監督の書記官が淡々と告げ、鎖付きの目録を引いた。教授が頷くと、台車に乗せられた古い簿冊が二冊、卓上へ運ばれる。
背革に金で押された題字――『狩猟記録簿 春—夏・二十余年分綴』。
頁を開くと、鹿の頭数、猟場、同行者、天候。事務の言葉が淡々と並ぶ。
指先が一度止まる。
――《春巡 少随 北路越/青峠渡 花筵宿/鷹笛三声にて出立》
乾いた羊皮紙の文字が、母の押し花の余白に書かれた〈青峠/宿・花筵〉と、ぴたりと重なる。胸の奥で何かが噛み合う音がした。
彼は表情を動かさず、短く抜き書きをした。書記官が斜めから覗き、教授が変わらぬ調子で小さく咳をする。場の空気は、その仕草ひとつでまた均される。
頁を送る。次の束に、不自然な欠落――二枚分が丁寧に抜き取られている。破断は古い。争いの跡ではない、意図と配慮の跡。
(“殿下の時間”は、やはりここで隠される)
欠落の手前に、意味深な一行が置かれていた。
――《留置 礼一件(印:鷹三星)/受人 F・ソレル》
昨日、鷹舎の老人が口を濁した名。私印――鷹と三星。
呼吸が浅くなるのを、飄々とした笑みで覆う。
教授が一つ咳払いをし、低く言う。
「必要なのは“場所”と“時刻”だ。人の名は後から付いてくる」
「ええ。まさに」
リュミエールはペン先を置く。
青峠、花筵。鷹笛三声。春の巡見。礼一件。充分だった。
次の扉は、山の向こう――帳場の古い宿台帳だ。
閲覧の終わりを告げる砂時計の音が落ちる。簿冊が閉じられ、帯紐でくくられた。書記官が手早く片づける。
教授は立ち際、彼の肩を軽く叩いた。「東の窓の紫は、今日も残るだろう」
「ええ、きっと」
記録庫を出ると、石段に春の光が溜まっていた。彼は一段降りるごとに、胸の中の石も少しずつ温まっていくのを感じた。
*
城を離れる前に、寄る場所がひとつあった。
王都のはずれ、小さな書き物屋だ。旅券の申請を頼むついでに、紙を二束。
青峠へ――山越えの通行刻印は、学士院の紹介状で簡略化できる。
扉の鈴が鳴る。若い書記が顔を上げた。
「ご依頼の旅券、三日で」
「助かります。では、宛先をもうひとつ」
窓辺の台で、さらさらと短い便りを書く。
【青峠という名が、今日の紙に現れた。
君が東の窓で待つなら、僕は西の峠で春を拾う。――L】
長くは書かず、いつも通りの調子だった。けれど、言いたいことは全部入っている。
封をして、商人ギルドの北路便に預けた。「焼き栗代」と書いた小袋も一緒に――彼女が笑う顔が、なぜかこれで思い浮かぶ。
*
午後、学士院の中庭。石の縁に腰をかけ、彼は三つの証――星涙石、鷹の留め金、押し花の束――を一度だけ掌で重ねた。
そっと、留め金の裏を爪で探る。
これまで気づかなかった微かな浅彫りがある。斜光にかざすと、線の重なりが“三星”の形に結ばれた。
「……やっぱり、同じ印だ」
囁くと、風が髪を撫で、どこからか笛の短い音が聞こえた気がした。
立ち上がり、軽い足取りで教員棟へ向かう途中、背後から声が飛ぶ。
「シュタイン、君は相変わらず“何かの途中”の顔だな」
経済学の若い講師だっま。からかい半分、興味半分の顔をしている。
「途中が好きなんです。終わりは勝手についてくるから」
肩をすくめると、講師は笑い、
「うらやましい怖さだ」と言った。
*
夕暮れの港道を、宿へ戻る。石畳に潮の光がこぼれ、舟の影が揺れている。
差し箱に一通。薄い海の色。封蝋は簡素な商人印。
【北路、届いたわ。“東の窓”は、今朝も紫。――K 】
彼女もまた短い文章だった。
けれど、そこにいる。彼はふっと笑って、便箋を畳む。心配をかけない言葉を選ぶ、あの人らしい筆致だ。
(もう少しだ。カタリナ)
夜空に浮かぶ月を見つめた。
机に地図を広げ、青峠までの道を指でなぞる。
王都から北東へ三日、峠下の宿場一泊。翌朝に花筵へ――宿簿に二十一年前の頁が残っていれば、最後の穴が埋まる。
星涙石を掌に置き、鷹の留め金をその上に重ねる。光は冷たく、しかし確かだ。
「さて」
きちんとした身支度は、旅の前夜から始まった。靴底を点検し、鞍布を畳み、簡易の封緘糊を小瓶に移す。
軽やかに鼻歌まじりに支度を進め、最後に窓を開いた。東の方角に、小さな祈りをただ一度だけ。
――躊躇わない。
忘れ物は、拾いに行くものだ。
星の見え始めた空に、鷹笛のような短い風が走った。彼は笑って、窓を閉めた。
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