【完結】灰薔薇伝 ― 祈りは光に還るー

とっくり

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リゼル・ノウヴァ

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 灰薔薇の花弁の縁が、夜明けの空のような蒼を帯び、その光はほんの一瞬で、また灰に戻った。

 けれど確かに、そこには生きているような温度があった。

「……まるで、目を覚ましたみたいだ」
「ええ。祈りが届いたからかも」
リゼルは微笑んだ。
「灰の色は、終わりではなく、始まりの印として」
か…」


 “祈りの庭”では、再び、短い沈黙が流れた。
 リゼルは指先に残る微かな血の味を、唇の内に閉じ込めた。罪の味――けれど不思議と、胸の奥では祈りのように温かかった。

 アシュレイは、まだ言葉を見つけられずにいた。

 目の前の少女は、あまりにも静かで、あまりにも真っすぐだった。
 誰かのために祈るという行為が、これほど美しいものだとは知らなかった。

「……リゼル」
「はい」
「君は、いつもこんなふうに他人の痛みに触れてきたのか?」
「ええ。触れなければ、痛みがあることも分からないでしょう?」

 その答えに、アシュレイはかすかに息を呑んだ。

 長い沈黙ののち、低く笑った。
「そういうところが……危うい」
「危うい、ですか?」
「誰かを救おうとして、君自身が壊れてしまう」
「それでも、放っておけません」
「……俺のような人間でも?」
「あなたのような人だから、です」

 風がまた吹く。
 灰薔薇の花弁がふたりの間を舞い、リゼルのヴェールをかすめた。

 アシュレイの指が、思わずその端を掴んだ。柔らかい布の感触の向こうに、彼女の体温が伝わる。

「離さないの?」
「……もう少し、このままで」
 声は掠れていた。
 彼自身、なぜそんなことを口にしたのか分からない。

 ただ、その瞬間だけは、心の底に沈んだ何かが静かにほどけていった。

 リゼルもまた、動けなかった。
 恐れではなく、祈りのような安らぎが胸を満たしていた。

 まるで長い間、誰かを待っていた心が、ようやく帰る場所を見つけたかのように。

 風が止み、世界が一瞬、息を潜める。
 アシュレイはその静けさの中で、彼女の頬に手を伸ばした。

 白い肌の上に、かすかな震えを感じる。
 それが彼女の鼓動なのか、自分のものなのか、もう分からなかった。

「リゼル……」
 その名を呼ぶ声は、祈りに似ていた。
 彼女が顔を上げると、灰薔薇の影が二人の間に揺れている。唇が触れる距離――ほんの指先ほどだった。

 そして、彼はそっと触れる。短く、浅く、優しく唇が重なった。

 何かを奪うためではなく、確かにそこに“生きている”ことを確かめるための祈りにも似たような口付けだった。

 リゼルの瞳が震え、息がこぼれる。
 唇の熱が離れても、心臓の鼓動は止まらなかった。

 やがてアシュレイは、ゆっくりとヴェールを離した。光がふたりのあいだに落ちる。
「……ありがとう、リゼル」
「何の、ですか?」
「俺を……“人”に戻してくれた」

 リゼルは首を振った。
「違います。あなたは最初から人でした。ただ、誰もそれを信じてくれなかっただけです」

 アシュレイの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。それは絶望ではなく、赦しに似た痛みだった。

 遠くの鐘楼で、夕刻の鐘が鳴り始める。
 灰薔薇の花がひとつ、音もなく開いた。

 リゼルはその花を見つめて、囁いた。
「灰薔薇が咲くたびに、きっと誰かが赦されるんです」
「……俺も、赦されると思うか」
「ええ。あなたも赦されます。祈り、悼む人を神は見捨てません」

 アシュレイは空を仰いだ。
 灰と青のあいだに、ほんのわずかに光が射していた。

「もし、その日が来るなら――俺は、君の祈りの中で生きたい」

 リゼルは目を閉じ、胸の前で手を組んだ。そして静かに答えた。

「では、その祈りを私の手で織りましょう。
灰の糸と青の糸で――あなたのために」

 灰薔薇の花弁が風に散り、二人の間に舞う。

 それはまるで、この世でいちばん静かな誓いのようだった。
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