【完結】灰薔薇伝 ― 祈りは光に還るー

とっくり

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灰薔薇伝 ― 転生篇

1 灰薔薇の風を聞いた日

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 丘を包む風は冷たく、けれどどこか懐かしい匂いがした。

 リゼ・ノヴァンは足元の草を踏みながら、灰色の石畳を上っていく。

 灰を含んだ金の髪が風にほどけ、陽を受けて淡く光る。瞳は琥珀色――蝋燭の灯のように温かく、それでいて、どこか深い悲しみを宿していた。

 人はその目を見て「祈る人の瞳だ」と言う。祈りとは、彼女にとって生き残った証そのものだった。

 十年前、この地方を焼いた戦が終わった。彼女が十六歳の時だった。

 灰薔薇修道院を含む多くの神殿が倒壊し、人々は神を口にすることをやめた。

 信仰は貧しさを慰める言葉になり、祈りは無力の代名詞になった。だがリゼは、そのどちらにも背を向けなかった。

 家族を失い、帰る場所を失った日、彼女を救ったのは祈りだった。

 誰も答えてくれなくても、胸の奥で「生きてよい」と言ってくれる声があった。
だから彼女はその後、書を扱う職を選んだ。

 学匠院がくしょういんの写本室で、古い祈祷詩を写し、戦で失われた祈りの言葉を綴り直す仕事。

 神を語る者がいなくなったこの時代に、彼女だけは静かに祈りを信じ続けていた。

 そんな彼女に、王国遺跡保全局からの依頼が届いたのは春の初めだった。

 ――灰薔薇修道院跡の調査。

 長く封鎖されていた北の丘が、ようやく人の足を許すようになったのだ。

 同行するのは、保全局調査官のリュカ・グレン。

 彼は元・北方警備隊員で、戦の生き残りでもあるという。

 リゼが丘の上に彼を見つけたとき、灰の外套を翻すその姿勢は、静かで無駄がなく、どこか戦場の風を知る人間のものだった。

 背が高く、短く刈られた黒髪、深く整った輪郭。そして何より印象的だったのは、その瞳。

 空の蒼――

 淡い灰を含みながらも、光を映すと澄みきった青に変わる。見つめた瞬間、リゼの胸が不思議に高鳴った。

 ――この色を知っている。
 
 そう思ってしまった。
 祈りの中で、何度も空を見上げたあの修道女の夢。あの“空の蒼”が、いま目の前にあった。

 風が強くなり、丘の上の鐘楼がかすかに揺れる。
 
 誰もいないはずの鐘が、一度だけ鳴った。低く、長く、霧の向こうから響いてくる。

「……今、聞こえましたか?」
 リゼが振り向くと、リュカも顔を上げていた。

「ええ。まるで、風が鳴らしたみたいですね」

「鐘はもう錆びついて動かないと聞いていました。……不思議だ」  

 彼は小さく息を吐き、鐘楼を見上げた。
 陽光が雲を割り、その瞳に淡い光が宿る。

 それは遠い空の蒼――どこまでも深く、どこまでも哀しい色だった。

 沈黙の中、彼が壁の模様を指でなぞる。
「この苔……花の形に広がっている。まるで彫られたみたいだ」

「灰薔薇と呼ばれる所以です。伝承では、祈りの十日目に咲いたと」
 リゼが静かに答える。

「咲くんですか? 本当に?」
「ええ。土も種もないのに、と記録にはあります」
「……もし本当に咲くなら、見てみたい」
 リュカが興味深く呟いたのを聞いて、リゼが微笑んだ、その瞬間だった。

 石壁の影で、小さな蕾がひとつ、風に揺れた。

 淡い灰の花弁が開き、陽を受けて静かに光を帯びる。リュカが膝をつき、そっと指先で触れた。

 ひやりとした感触――けれど胸の奥では何かが疼いた。

「……冷たくない。なのに、泣きたくなるような……」
 彼の声がわずかに震えた。
 その顔を見て、リゼの喉が詰まる。まるで、この花を“覚えている”人のようだった。

「その瞳……」
 思わず言葉がこぼれた。

「え?」
「いいえ……なんでもありません」
 だが遅かった。リュカは小さく微笑む。

「瞳、ですか?」
「……空の蒼みたいだと思って」

 風が吹き、二人の間に灰薔薇の花弁が舞う。

 リュカは一瞬、遠いものを見るように空を仰いだ。
「……誰かが、前にもそう言った気がする」

「誰か?」
「夢の中で。姿は見えないのに、声だけが聞こえる時があるんです。“空の蒼が、あなたの祈りの色ですね”と」

 リゼの心臓が跳ねた。
 ――それは、写本の末尾に記された修道女の言葉。

【あなたの瞳は空の蒼。祈りの果てにある光】

 胸の奥で、何かが崩れた。
 風が丘を渡り、灰薔薇の花がひとつ、音もなく開く。

 リュカは立ち上がり、空を仰いだ。
「風が動くたびに、この場所が呼吸しているようです」
「ええ。きっと、ここには“誰かの祈り”が残っているんです」
 リゼがリュカを真っ直ぐに見つめながら話す。

「……祈り」
「信じる人はもう少ないけれど、私は信じています。戦が終わっても、祈りは終わらないから」

 彼はゆっくりと笑った。
「不思議ですね。あなたの声を聞くと、心が静まる」

 リゼは答えず、灰薔薇にそっと手を伸ばした。

 花弁の上に、二人の影が重なった。
 風が吹き抜け、鐘楼の残骸が、かすかに鳴った。



 灰が散っても、祈りは光に還る。
 その祈りがいま、再び風を呼んだ。
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