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冷たい冬の風に包まれながら、アリスは屋敷の重たい扉を押し開けた。
どうやって帰ってきたのか、記憶が曖昧だった。
寒さも、時間も、誰の目も、何もかもが遠く感じた。
足元は自然と、使用人しか立ち入らない納屋へ向かっていた。
夕飯の支度がある。火を起こし、鍋をかけ、皿を並べなければならない。
けれど、今はほんの少しだけ――息をつく場所が欲しかった。
木の扉を閉めた途端、張り詰めていたものが音を立てて崩れた。
堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出し、アリスの頬を涙が伝った。
ノエルの視線が、悲しかった。
庇ってほしかったわけではない。ただ、恥ずかしくて、情けなくて、あの場にいる自分がみじめでたまらなかった。
ノエルに見られたことが、何より苦しかった。
遠くから見ているだけでよかったのに。憧れのままで、知られずにいたかったのに。
ただ、あの場から、彼の前から、消えたかった。
***
翌朝の食卓。
冷めきったスープと、硬くなったパンが皿に並べられていた。
母の手には、一通の手紙が握られていた。高級な封蝋、香り立つ紙――まるで贈り物のようなその手紙が、場違いな光を放っている。
「アリス、少し話があるの」
母の声は、氷のように冷たく、鋭かった。
食堂の薄明かりの中で、母と父が揃って椅子に座っている。
父はどこか安堵したような顔で、母は緊張を含んだ瞳で娘を見つめていた。
普段は不機嫌な姉が、珍しく楽しげに微笑んだ。
「アリス、おめでとう。ついに縁談よ。これで少しはこの家に役立てるわね」
淡々と、父が告げる。
「相手は男爵様だ。齢三十八。名門の家柄で、立派な屋敷にお住まいだ。ただ、数年前に病を患われて今は床に伏しておられる。……だが、後妻としては申し分ない相手だ」
アリスの指先が、かすかに震えた。
――妻ではなく、介護人として。
若さと健康を買われた、ただそれだけ。
亡き前妻の代わりに、家事と介護に従事する人間。それが、男爵の求める「後妻」だった。
けれど、両親の声には、誇らしげな響きがあった。
「さすが、私たちの娘ね。こんな良縁、二度とないわ。相手は、私たちの借金も肩代わりしてくださるって。これ以上、親孝行な話はないわね」
その言葉が、アリスの胸の奥を深く、深く刺した。
(……私は、お金で売られるんだ)
口を開きかけたが、喉の奥が詰まり、声にならなかった。
代わりに、唇をぎゅっと噛みしめ、溢れそうになる涙を必死でこらえた。
「……わたしは……」
かすれた声が、小さく零れる。
けれど、その呟きに耳を傾ける者は、誰一人としていなかった。
冷めたスープが、喉を通らない。
パンを噛む気力さえ、残っていなかった。
ふと、昨日の光景が頭をよぎった。
図書館の窓辺、光の中で笑っていた、あの人の横顔。
遠くにいても、ただ見ているだけで嬉しかった――あの頃の自分が、まるで別人のように思えた。
彼の瞳に、わずかでも私が映っていた瞬間はあったのだろうか。
……いいえ、――そんな奇跡は、なかった。そして、これからも、きっと。
家族の前では、泣けない。
負けたくない。惨めだと思われたくない。
それでも、心の奥では――ぽろぽろと音を立てて、何かが静かに崩れていった。
そうして、アリスはただひとり、誰にも気づかれぬまま、静かに目を伏せた。
心の中には、怒りも悲しみも浮かばなかった。
それが当然のこととして、ただ、そこに在るだけ。
――そう、決まったのなら、従うだけ。
それ以上のことを、考える気力も、もう残っていなかった。
***
出発の日ーー
石畳の道を、馬車が静かに揺れて進んでいく。
厚手の窓掛けから差す光は薄く、車内には誰の声もなかった。外の風景が淡く流れていくたびに、時間だけが確かに過ぎていくのがわかる。
アリスは、膝の上に両手を置いたまま、身じろぎもせずに座っていた。
何も考えていないわけではない。けれど、何かを考えようとすれば、頭の奥がじんと痛んだ。
だから、考えることをやめた。
荷物は最小限。贅沢な服も、飾り立てる宝石もない。
けれど、箱の中には“娘”としての最後の役割が詰め込まれていた。
窓の外、町の景色が次第に遠のいていく。アリスの知っていた道、通い慣れた店、ただ黙って見ていた図書館の塔――すべてが遠ざかっていくのに、胸は何ひとつ動かなかった。
痛みさえ、もうどこかに置き忘れてしまったようだった。
泣きたいとも思わなかった。悲しみよりも先に、疲れがあった。
心の奥に、冷たい水が張りつめているような感覚だけが残っている。
(このまま、どこまでも運ばれていけばいい)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
けれど、それもすぐに霧のように消えた。希望でも、絶望でもない。ただ、空っぽの感情。
この道の先には、見知らぬ屋敷と、病床に伏す夫となる人が待っている。
名前も、顔も、声も知らない。
けれど、それがこれからの“日常”になるのだ。
馬車が小さな石橋を越えたとき、わずかに身体が揺れた。
その微かな衝撃に、アリスはようやくまばたきを一度だけした。
そしてまた、何も言わず、何も感じず、前を向いて座り続けた。
まるで、どこか遠い場所に閉じこもるように――。
どうやって帰ってきたのか、記憶が曖昧だった。
寒さも、時間も、誰の目も、何もかもが遠く感じた。
足元は自然と、使用人しか立ち入らない納屋へ向かっていた。
夕飯の支度がある。火を起こし、鍋をかけ、皿を並べなければならない。
けれど、今はほんの少しだけ――息をつく場所が欲しかった。
木の扉を閉めた途端、張り詰めていたものが音を立てて崩れた。
堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出し、アリスの頬を涙が伝った。
ノエルの視線が、悲しかった。
庇ってほしかったわけではない。ただ、恥ずかしくて、情けなくて、あの場にいる自分がみじめでたまらなかった。
ノエルに見られたことが、何より苦しかった。
遠くから見ているだけでよかったのに。憧れのままで、知られずにいたかったのに。
ただ、あの場から、彼の前から、消えたかった。
***
翌朝の食卓。
冷めきったスープと、硬くなったパンが皿に並べられていた。
母の手には、一通の手紙が握られていた。高級な封蝋、香り立つ紙――まるで贈り物のようなその手紙が、場違いな光を放っている。
「アリス、少し話があるの」
母の声は、氷のように冷たく、鋭かった。
食堂の薄明かりの中で、母と父が揃って椅子に座っている。
父はどこか安堵したような顔で、母は緊張を含んだ瞳で娘を見つめていた。
普段は不機嫌な姉が、珍しく楽しげに微笑んだ。
「アリス、おめでとう。ついに縁談よ。これで少しはこの家に役立てるわね」
淡々と、父が告げる。
「相手は男爵様だ。齢三十八。名門の家柄で、立派な屋敷にお住まいだ。ただ、数年前に病を患われて今は床に伏しておられる。……だが、後妻としては申し分ない相手だ」
アリスの指先が、かすかに震えた。
――妻ではなく、介護人として。
若さと健康を買われた、ただそれだけ。
亡き前妻の代わりに、家事と介護に従事する人間。それが、男爵の求める「後妻」だった。
けれど、両親の声には、誇らしげな響きがあった。
「さすが、私たちの娘ね。こんな良縁、二度とないわ。相手は、私たちの借金も肩代わりしてくださるって。これ以上、親孝行な話はないわね」
その言葉が、アリスの胸の奥を深く、深く刺した。
(……私は、お金で売られるんだ)
口を開きかけたが、喉の奥が詰まり、声にならなかった。
代わりに、唇をぎゅっと噛みしめ、溢れそうになる涙を必死でこらえた。
「……わたしは……」
かすれた声が、小さく零れる。
けれど、その呟きに耳を傾ける者は、誰一人としていなかった。
冷めたスープが、喉を通らない。
パンを噛む気力さえ、残っていなかった。
ふと、昨日の光景が頭をよぎった。
図書館の窓辺、光の中で笑っていた、あの人の横顔。
遠くにいても、ただ見ているだけで嬉しかった――あの頃の自分が、まるで別人のように思えた。
彼の瞳に、わずかでも私が映っていた瞬間はあったのだろうか。
……いいえ、――そんな奇跡は、なかった。そして、これからも、きっと。
家族の前では、泣けない。
負けたくない。惨めだと思われたくない。
それでも、心の奥では――ぽろぽろと音を立てて、何かが静かに崩れていった。
そうして、アリスはただひとり、誰にも気づかれぬまま、静かに目を伏せた。
心の中には、怒りも悲しみも浮かばなかった。
それが当然のこととして、ただ、そこに在るだけ。
――そう、決まったのなら、従うだけ。
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だから、考えることをやめた。
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けれど、箱の中には“娘”としての最後の役割が詰め込まれていた。
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