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あの日から、ノエルの胸には重たい靄がかかったままだった。
学園帰りの午後、いつものように友人たちと図書館に立ち寄った。
それは、知識を深めるため……と、自分でも言い聞かせていたが――本当は、あの静かな少女の姿を探していた。
図書館の窓辺――
斜めに差す午後の陽光に照らされるその横顔は、いつもどこか淡く、儚げだった。
彼女の名は――アリス。
ある日、いつものように窓辺の席にいる彼女をそっと見ていたとき、図書館司書が声をかけた。
「いらっしゃい、アリス嬢」
その何気ない一言で、ノエルはようやく彼女の名前を知ったのだった。
偶然耳にしただけの、たった一度の呼びかけ。それでもその名は、ノエルの胸に確かに、刻みつけられた。
静かに本を読む彼女の姿は、華美な装飾も、高価な布地も身に着けていない。
けれどその姿は、どの学園の令嬢よりも、ノエルの目には美しく映っていた。
栗色の髪は、肩のあたりで柔らかく揺れ、リボンも留め具もなく自然のまま。
それがむしろ、彼女の気取らない気質と相まって、どこか凛とした空気を纏っていた。
肌は白く、よく見ると小さな傷や荒れもある。だが、それを隠そうともせずにいる素直さが、ノエルには眩しかった。
そして何より、あの瞳――
深い灰色。まるで静かな湖面のように、感情を秘めたまま、ただ本の行間を追い続ける。
その横顔を、何度盗み見たかわからない。
彼女は笑わない。でも、それを寂しいとは思わなかった。
むしろ、そうして黙って本を読み続ける姿こそが、ノエルの胸を静かに、揺らしていくのだった。
(どうして……あんなにも静かなのに、目が離せないんだろう)
質素なワンピースの裾を膝の上に整える仕草。本を閉じたあと、すこしだけ遠くを見るように目を伏せる、その表情。
たった一言も交わしていないのに、彼女のすべてが、心に残っていた。
華やかでも、賑やかでもない。
それなのに、胸の奥に、静かな音を残すような――そんな美しさだった。
(アリス……)
けれど――あの日、すべてが変わった。
セリーヌが、わざとらしい笑みを浮かべながらアリスに話しかけたとき、ノエルは止めるべきだった。
セリーヌの両親とノエルの両親は古くからの付き合いがあり、二人は幼馴染だった。同じ学園に通い、同じクラスで共通の友人が多かった。
彼女の言葉が、刃のようにアリスを傷つけていくのが、手に取るようにわかった。
けれど、動けなかった。
仲間たちがこちらを振り返り、彼の表情を覗き込む。
セリーヌの声が、意図的に高くなる。
「……ノエル、あなたはどう思う?」
まるで見せしめのように。
ああ――バレたのだと、わかってしまった。
(俺が、アリスを見ていたこと。好きだったこと)
セリーヌはそれを知っていた。だからあえてアリスに絡み、ノエルがどう反応するかを試したのだ。
――どうして、そのとき、彼女の隣に立てなかったのだろう。
アリスの頬が紅くなり、俯き、逃げるように本を抱えて図書館を後にする。
その姿を見て、ようやく我に返った。けれど、もう遅かった。
追いかけなければ、そう思った足は、床に縫い付けられたように動かなかった。
その夜、ノエルは自分自身をひどく嫌った。
臆病な心、世間体、友人との関係。そんなものより、目の前で傷ついた少女の手を取るべきだったのに。
翌日から、ノエルは仲間たちと距離を置いた。
セリーヌの嘲るような視線も無視して、毎日のように図書館に通った。
アリスは、もう姿を見せなかった。
何日も、何週間も――彼は待ち続けた。
もし戻ってきたなら、今度こそ謝りたい。
ずっと、君が気になっていた。君のまっすぐさを、静けさを、美しさを、知っていたと伝えたかった。
けれど、扉が開いても、そこに彼女の姿が現れることはなかった。
そして、ある日――
何気なく耳にした会話が、ノエルの胸を深々と突き刺した。
それは、図書館の片隅。
司書たちが棚の整理をしながら交わしていた、静かな会話だった。
「そういえば最近、アリス嬢の姿を見ないわね」
「ええ……嫁がれたのよ」
「まあ、そうなの? 本当?」
「ええ。借りていた本を、アリス嬢のお姉様が返しにいらしたの。年の離れた男爵のもとに後妻として嫁いだって――寝たきりの方らしいわ」
ぽろりと落とされた言葉たちが、ノエルの胸の奥で鈍く、そして確実に爆ぜた。
まさか――
あのアリスが。
そんな、馬鹿な……。
信じられなかった。
いや、本当は、信じたくなかっただけだった。
図書館で、遠くから姿を見るだけで幸せだった。本をめくる指先、ふと外の光に目を細める表情。
名前を知ったときは、心が震えるほど嬉しかった。話しかけられたら、と願っていた。ほんの一言でいい、名前を呼んでみたかった。
そのささやかな夢さえ、もう叶わない。
彼女は、誰かの「妻」になった。
しかも、倍以上の年齢の――寝たきりの男爵の。
どうして、彼女が。
なぜ、そんな形で人生を売られなければならなかったのか。
(誰も、彼女を守ってやれなかったのか)
否――違う。
守らなかったのは、自分だ。
(俺が……)
あのとき、彼女の前に立つことも、手を取ることもできなかった。
蔑みに晒される姿を、ただ見ていただけの臆病者。
なにも言えなかったことを、「気づかなかった」とも「仕方なかった」とも、もう言い訳できない。
彼女が泣きながら図書館を去った、あの後ろ姿を――
何度夢に見たことか。
止めたかった。呼び止めたかった。抱きしめたかった。
でも、なにもできなかった。なにも、しなかった。
彼女の涙に、何ひとつ応えることができなかった自分。その愚かさに、今さらながら打ちのめされる。
胸を貫くのは、言葉にならないほど深く冷たい後悔。
あのとき一歩でも前に出ていれば、彼女の運命は変わっていたのだろうか。
せめて、名前を呼んでいれば――
狂おしいほどの後悔が、ノエルの中で静かに膨れ上がっていった。
けれど、時はもう戻らない。
学園帰りの午後、いつものように友人たちと図書館に立ち寄った。
それは、知識を深めるため……と、自分でも言い聞かせていたが――本当は、あの静かな少女の姿を探していた。
図書館の窓辺――
斜めに差す午後の陽光に照らされるその横顔は、いつもどこか淡く、儚げだった。
彼女の名は――アリス。
ある日、いつものように窓辺の席にいる彼女をそっと見ていたとき、図書館司書が声をかけた。
「いらっしゃい、アリス嬢」
その何気ない一言で、ノエルはようやく彼女の名前を知ったのだった。
偶然耳にしただけの、たった一度の呼びかけ。それでもその名は、ノエルの胸に確かに、刻みつけられた。
静かに本を読む彼女の姿は、華美な装飾も、高価な布地も身に着けていない。
けれどその姿は、どの学園の令嬢よりも、ノエルの目には美しく映っていた。
栗色の髪は、肩のあたりで柔らかく揺れ、リボンも留め具もなく自然のまま。
それがむしろ、彼女の気取らない気質と相まって、どこか凛とした空気を纏っていた。
肌は白く、よく見ると小さな傷や荒れもある。だが、それを隠そうともせずにいる素直さが、ノエルには眩しかった。
そして何より、あの瞳――
深い灰色。まるで静かな湖面のように、感情を秘めたまま、ただ本の行間を追い続ける。
その横顔を、何度盗み見たかわからない。
彼女は笑わない。でも、それを寂しいとは思わなかった。
むしろ、そうして黙って本を読み続ける姿こそが、ノエルの胸を静かに、揺らしていくのだった。
(どうして……あんなにも静かなのに、目が離せないんだろう)
質素なワンピースの裾を膝の上に整える仕草。本を閉じたあと、すこしだけ遠くを見るように目を伏せる、その表情。
たった一言も交わしていないのに、彼女のすべてが、心に残っていた。
華やかでも、賑やかでもない。
それなのに、胸の奥に、静かな音を残すような――そんな美しさだった。
(アリス……)
けれど――あの日、すべてが変わった。
セリーヌが、わざとらしい笑みを浮かべながらアリスに話しかけたとき、ノエルは止めるべきだった。
セリーヌの両親とノエルの両親は古くからの付き合いがあり、二人は幼馴染だった。同じ学園に通い、同じクラスで共通の友人が多かった。
彼女の言葉が、刃のようにアリスを傷つけていくのが、手に取るようにわかった。
けれど、動けなかった。
仲間たちがこちらを振り返り、彼の表情を覗き込む。
セリーヌの声が、意図的に高くなる。
「……ノエル、あなたはどう思う?」
まるで見せしめのように。
ああ――バレたのだと、わかってしまった。
(俺が、アリスを見ていたこと。好きだったこと)
セリーヌはそれを知っていた。だからあえてアリスに絡み、ノエルがどう反応するかを試したのだ。
――どうして、そのとき、彼女の隣に立てなかったのだろう。
アリスの頬が紅くなり、俯き、逃げるように本を抱えて図書館を後にする。
その姿を見て、ようやく我に返った。けれど、もう遅かった。
追いかけなければ、そう思った足は、床に縫い付けられたように動かなかった。
その夜、ノエルは自分自身をひどく嫌った。
臆病な心、世間体、友人との関係。そんなものより、目の前で傷ついた少女の手を取るべきだったのに。
翌日から、ノエルは仲間たちと距離を置いた。
セリーヌの嘲るような視線も無視して、毎日のように図書館に通った。
アリスは、もう姿を見せなかった。
何日も、何週間も――彼は待ち続けた。
もし戻ってきたなら、今度こそ謝りたい。
ずっと、君が気になっていた。君のまっすぐさを、静けさを、美しさを、知っていたと伝えたかった。
けれど、扉が開いても、そこに彼女の姿が現れることはなかった。
そして、ある日――
何気なく耳にした会話が、ノエルの胸を深々と突き刺した。
それは、図書館の片隅。
司書たちが棚の整理をしながら交わしていた、静かな会話だった。
「そういえば最近、アリス嬢の姿を見ないわね」
「ええ……嫁がれたのよ」
「まあ、そうなの? 本当?」
「ええ。借りていた本を、アリス嬢のお姉様が返しにいらしたの。年の離れた男爵のもとに後妻として嫁いだって――寝たきりの方らしいわ」
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まさか――
あのアリスが。
そんな、馬鹿な……。
信じられなかった。
いや、本当は、信じたくなかっただけだった。
図書館で、遠くから姿を見るだけで幸せだった。本をめくる指先、ふと外の光に目を細める表情。
名前を知ったときは、心が震えるほど嬉しかった。話しかけられたら、と願っていた。ほんの一言でいい、名前を呼んでみたかった。
そのささやかな夢さえ、もう叶わない。
彼女は、誰かの「妻」になった。
しかも、倍以上の年齢の――寝たきりの男爵の。
どうして、彼女が。
なぜ、そんな形で人生を売られなければならなかったのか。
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