【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 あの日から、ノエルの胸には重たい靄がかかったままだった。

 学園帰りの午後、いつものように友人たちと図書館に立ち寄った。
 それは、知識を深めるため……と、自分でも言い聞かせていたが――本当は、あの静かな少女の姿を探していた。

 図書館の窓辺――

 斜めに差す午後の陽光に照らされるその横顔は、いつもどこか淡く、儚げだった。

 彼女の名は――アリス。

 ある日、いつものように窓辺の席にいる彼女をそっと見ていたとき、図書館司書が声をかけた。

 「いらっしゃい、アリス嬢」

 その何気ない一言で、ノエルはようやく彼女の名前を知ったのだった。

 偶然耳にしただけの、たった一度の呼びかけ。それでもその名は、ノエルの胸に確かに、刻みつけられた。

 静かに本を読む彼女の姿は、華美な装飾も、高価な布地も身に着けていない。
 けれどその姿は、どの学園の令嬢よりも、ノエルの目には美しく映っていた。

 栗色の髪は、肩のあたりで柔らかく揺れ、リボンも留め具もなく自然のまま。
 それがむしろ、彼女の気取らない気質と相まって、どこか凛とした空気を纏っていた。

 肌は白く、よく見ると小さな傷や荒れもある。だが、それを隠そうともせずにいる素直さが、ノエルには眩しかった。

 そして何より、あの瞳――

 深い灰色。まるで静かな湖面のように、感情を秘めたまま、ただ本の行間を追い続ける。
 
 その横顔を、何度盗み見たかわからない。

 彼女は笑わない。でも、それを寂しいとは思わなかった。

 むしろ、そうして黙って本を読み続ける姿こそが、ノエルの胸を静かに、揺らしていくのだった。

(どうして……あんなにも静かなのに、目が離せないんだろう)

 質素なワンピースの裾を膝の上に整える仕草。本を閉じたあと、すこしだけ遠くを見るように目を伏せる、その表情。

 たった一言も交わしていないのに、彼女のすべてが、心に残っていた。

 華やかでも、賑やかでもない。
 それなのに、胸の奥に、静かな音を残すような――そんな美しさだった。


(アリス……)


 けれど――あの日、すべてが変わった。

 セリーヌが、わざとらしい笑みを浮かべながらアリスに話しかけたとき、ノエルは止めるべきだった。

 セリーヌの両親とノエルの両親は古くからの付き合いがあり、二人は幼馴染だった。同じ学園に通い、同じクラスで共通の友人が多かった。

 彼女の言葉が、刃のようにアリスを傷つけていくのが、手に取るようにわかった。

 けれど、動けなかった。

 仲間たちがこちらを振り返り、彼の表情を覗き込む。
 セリーヌの声が、意図的に高くなる。

「……ノエル、あなたはどう思う?」

 まるで見せしめのように。
 ああ――バレたのだと、わかってしまった。

(俺が、アリスを見ていたこと。好きだったこと)

 セリーヌはそれを知っていた。だからあえてアリスに絡み、ノエルがどう反応するかを試したのだ。

 ――どうして、そのとき、彼女の隣に立てなかったのだろう。

 アリスの頬が紅くなり、俯き、逃げるように本を抱えて図書館を後にする。
 その姿を見て、ようやく我に返った。けれど、もう遅かった。

 追いかけなければ、そう思った足は、床に縫い付けられたように動かなかった。

 その夜、ノエルは自分自身をひどく嫌った。

 臆病な心、世間体、友人との関係。そんなものより、目の前で傷ついた少女の手を取るべきだったのに。

 翌日から、ノエルは仲間たちと距離を置いた。
 セリーヌの嘲るような視線も無視して、毎日のように図書館に通った。

 アリスは、もう姿を見せなかった。

 何日も、何週間も――彼は待ち続けた。
 もし戻ってきたなら、今度こそ謝りたい。
 ずっと、君が気になっていた。君のまっすぐさを、静けさを、美しさを、知っていたと伝えたかった。

 けれど、扉が開いても、そこに彼女の姿が現れることはなかった。



 そして、ある日――
 何気なく耳にした会話が、ノエルの胸を深々と突き刺した。

 それは、図書館の片隅。
 司書たちが棚の整理をしながら交わしていた、静かな会話だった。

「そういえば最近、アリス嬢の姿を見ないわね」
「ええ……嫁がれたのよ」
「まあ、そうなの? 本当?」
「ええ。借りていた本を、アリス嬢のお姉様が返しにいらしたの。年の離れた男爵のもとに後妻として嫁いだって――寝たきりの方らしいわ」

 ぽろりと落とされた言葉たちが、ノエルの胸の奥で鈍く、そして確実に爆ぜた。

 まさか――
 あのアリスが。

 そんな、馬鹿な……。

 信じられなかった。
 いや、本当は、信じたくなかっただけだった。

 図書館で、遠くから姿を見るだけで幸せだった。本をめくる指先、ふと外の光に目を細める表情。

 名前を知ったときは、心が震えるほど嬉しかった。話しかけられたら、と願っていた。ほんの一言でいい、名前を呼んでみたかった。

 そのささやかな夢さえ、もう叶わない。

 彼女は、誰かの「妻」になった。
 しかも、倍以上の年齢の――寝たきりの男爵の。

 どうして、彼女が。

 なぜ、そんな形で人生を売られなければならなかったのか。

(誰も、彼女を守ってやれなかったのか)

 否――違う。
 守らなかったのは、自分だ。

(俺が……)

 あのとき、彼女の前に立つことも、手を取ることもできなかった。
 蔑みに晒される姿を、ただ見ていただけの臆病者。
 なにも言えなかったことを、「気づかなかった」とも「仕方なかった」とも、もう言い訳できない。

 彼女が泣きながら図書館を去った、あの後ろ姿を――

 何度夢に見たことか。

 止めたかった。呼び止めたかった。抱きしめたかった。
 でも、なにもできなかった。なにも、しなかった。

 彼女の涙に、何ひとつ応えることができなかった自分。その愚かさに、今さらながら打ちのめされる。

 胸を貫くのは、言葉にならないほど深く冷たい後悔。

 あのとき一歩でも前に出ていれば、彼女の運命は変わっていたのだろうか。

 せめて、名前を呼んでいれば――

 狂おしいほどの後悔が、ノエルの中で静かに膨れ上がっていった。

 けれど、時はもう戻らない。

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