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クロードがこの世を去ってから数日――
アリスはまだ、朝が来るたびに現実を思い知らされていた。
目覚めてすぐ、隣に誰もいない静けさに気づき、胸の奥がひりつく。
名前を呼べば、優しく返ってきた声も、ぬくもりも、もう手の届かない場所へ行ってしまった。
男爵家の屋敷には、重く深い喪の空気が満ちていた。
使用人たちは沈痛な面持ちで、主を失った邸に静かに仕えている。
アリスは、ふとした瞬間に涙があふれる自分に戸惑いながらも、丁寧に、クロードが愛した場所を整え、静かに日々を送っていた。
枕元に飾った白百合の花。彼の机の上に置かれた眼鏡と日記。彼がよく腰掛けた窓辺の椅子。すべてが今も、彼の気配を残していた。
葬儀は、小さな教会で、質素ながらも深い祈りとともに営まれた。
多くを語らなかった男爵だったが、その晩年の穏やかな変化に気づいていた人々は、アリスの姿を見て、静かに頷き合った。
「きっと、良い人生だったのでしょうね」
「……あの人に、救いが訪れたのなら」
そんな言葉が、花のように、アリスの周囲にそっと降り積もっていった。
葬儀の後、男爵家の弁護士がアリスにひとつの書類を差し出した。
それは、クロードが生前に整えていた遺言書だった。
遺書にはこう明記されていた――
============
男爵家のすべての財産・土地・事業権利、その他一切を、正式に妻アリスへ相続させる。
また、アリス・エルウッドとその実家・フォワード子爵家との一切の法的関係を断絶し、今後いかなる理由があっても、同家の者がアリスに対して干渉・接触を試みた場合は、法に則り、正当な刑罰および損害賠償をもってこれを厳正に罰するものとする。
=============
男爵家は、かつてクロードの曾祖父が興した貿易・金融・鉱山の三大事業によって巨万の富を築き上げた家系である。
その莫大な財と権利が、今やすべて――アリスの手に委ねられたのだ。
そして、もう一通。クロードがアリス個人に宛ててしたためた手紙が、封筒に納められていた。
アリスは、ひとり静かな書斎にこもり、その手紙をそっと開いた。
なめらかな筆跡で、真っすぐに綴られた文字が、彼の声そのままに語りかけてくる。
=========
アリスへ
君が私の妻となってくれた日から、私はこの人生に初めて「救い」と呼べるものを知った。
冷たく、沈んでいくような時間の中で、君はあたたかな光をくれた。
私のそばにいてくれたこと、私を見てくれたこと、それだけで、私は生き直すことができた。
だが私は、長く生きられない。
そして私がいなくなったあと、君が再び実家の理不尽な手に引かれることだけは――絶対に、あってはならない。
だから私は、あらゆる法の手続きを尽くし、君が自由を奪われぬように備えた。
君は、自分の意志で、生きてほしい。
誰にも縛られず、誰にも搾取されず――
自分の望むままに、笑っていてほしい。
君はまだ若い。どうか、君が君らしくある世界のなかで、愛する人を見つけて幸せに生きてほしい。
それが、私からの、最後の願いだ。
クロード・エルウッド
======
涙が、あとからあとから、手紙に落ちた。
文字がにじんで見えなくなっても、アリスは手を止めず、何度も何度も、心の中でその言葉を読み返した。
(……クロード様……)
彼の背中を支えた日々。
はにかんだ笑顔。
指先のあたたかさ。
静かに語られた旅の思い出――
それらすべてが、アリスの中で永遠の記憶となって、やさしく、深く、息づいていた。
彼の遺志を胸に、アリスは立ち上がる。
涙の奥に、ゆっくりと、未来への小さな一歩を描きながら――
***
クロードが旅立ってから――
静かに時は流れた。
季節は春を越え、初夏の風が石畳の街に優しく吹き込む頃。
アリスは、かつてクロードが執務をしていた書斎にいた。大きな机に並ぶ帳簿、重厚な書類棚、整えられた万年筆の一群。
「……本当に、こんなことが私にできるでしょうか」
アリスは小さく呟きながらも、すでにその指は躊躇いなく帳簿を捲っていた。
男爵家が代々手がけてきた事業――貿易、鉱山、金融――そのどれもが、クロードの慎重で誠実な手腕により、堅実な富を築いてきた。だが、アリスはそれだけに目を向けることはしなかった。
「私には……やりたいことがあります」
そう、静かに口にした日のことを、執事も弁護士も忘れられないと言う。
彼女は、幼い頃からの記憶を振り返った。
使用人のように扱われ、まともな教育も受けられなかったあの日々。
それでも、本の虫のように図書館に通い、独りで夢を見ていた。
「――だから、同じような子どもたちに、ほんの少しでも希望を与えたいのです」
アリスの願いは、強く、そしてまっすぐだった。
彼女は、クロードの残した資産の一部を用いて、教育支援財団の設立に着手した。
名称は――「クロード・エルウッド記念奨学財団」。
「奨学金は、貧しい家の子でも自由に学べるように。審査はありますが、身分や姓には縛られないようにしてください」
弁護士や会計士と連日膝を突き合わせながら、彼女は財団の骨組みを形づくっていく。
教育省や地域の学校とも連携を取りながら、財団の設立は少しずつ現実味を帯びていった。
最初に支援を始めたのは、かつてアリスが通えなかったあの町の公立学校だった。
学用品も揃えられない子どもたちに、ノートと筆記具を。
冬にはあたたかなコートを。
そして何より、夢を語る自由を。
アリスは時折、自らその子たちと対話の時間を持った。
「私の生まれた家は、肩書きだけの貴族でね。お金もなくて、学校に行くこともできなかった。お友達もいなかったから……毎日、ひとりで過ごしていたの」
彼女の話に、最初は遠慮がちだった子供たちも、少しずつ顔を上げて、笑顔を見せるようになっていった。
その日の夜。
クロードが眠っている丘の上の墓前に立つと、アリスはそっと囁く。
「あなたの名前が、たくさんの子たちの希望になるわ。ねえ、クロード様……やっと、私、あなたに何か返せた気がするの」
石の名を撫でる指が、ふるえを帯びる。
「あなたと過ごした時間が、私の礎です。だからこれからも、生きていくわ。あなたが託してくれた、すべての想いとともに」
月が、雲の切れ間からこぼれていた。
その光は――静かに、アリスのこれからを照らしてい
アリスはまだ、朝が来るたびに現実を思い知らされていた。
目覚めてすぐ、隣に誰もいない静けさに気づき、胸の奥がひりつく。
名前を呼べば、優しく返ってきた声も、ぬくもりも、もう手の届かない場所へ行ってしまった。
男爵家の屋敷には、重く深い喪の空気が満ちていた。
使用人たちは沈痛な面持ちで、主を失った邸に静かに仕えている。
アリスは、ふとした瞬間に涙があふれる自分に戸惑いながらも、丁寧に、クロードが愛した場所を整え、静かに日々を送っていた。
枕元に飾った白百合の花。彼の机の上に置かれた眼鏡と日記。彼がよく腰掛けた窓辺の椅子。すべてが今も、彼の気配を残していた。
葬儀は、小さな教会で、質素ながらも深い祈りとともに営まれた。
多くを語らなかった男爵だったが、その晩年の穏やかな変化に気づいていた人々は、アリスの姿を見て、静かに頷き合った。
「きっと、良い人生だったのでしょうね」
「……あの人に、救いが訪れたのなら」
そんな言葉が、花のように、アリスの周囲にそっと降り積もっていった。
葬儀の後、男爵家の弁護士がアリスにひとつの書類を差し出した。
それは、クロードが生前に整えていた遺言書だった。
遺書にはこう明記されていた――
============
男爵家のすべての財産・土地・事業権利、その他一切を、正式に妻アリスへ相続させる。
また、アリス・エルウッドとその実家・フォワード子爵家との一切の法的関係を断絶し、今後いかなる理由があっても、同家の者がアリスに対して干渉・接触を試みた場合は、法に則り、正当な刑罰および損害賠償をもってこれを厳正に罰するものとする。
=============
男爵家は、かつてクロードの曾祖父が興した貿易・金融・鉱山の三大事業によって巨万の富を築き上げた家系である。
その莫大な財と権利が、今やすべて――アリスの手に委ねられたのだ。
そして、もう一通。クロードがアリス個人に宛ててしたためた手紙が、封筒に納められていた。
アリスは、ひとり静かな書斎にこもり、その手紙をそっと開いた。
なめらかな筆跡で、真っすぐに綴られた文字が、彼の声そのままに語りかけてくる。
=========
アリスへ
君が私の妻となってくれた日から、私はこの人生に初めて「救い」と呼べるものを知った。
冷たく、沈んでいくような時間の中で、君はあたたかな光をくれた。
私のそばにいてくれたこと、私を見てくれたこと、それだけで、私は生き直すことができた。
だが私は、長く生きられない。
そして私がいなくなったあと、君が再び実家の理不尽な手に引かれることだけは――絶対に、あってはならない。
だから私は、あらゆる法の手続きを尽くし、君が自由を奪われぬように備えた。
君は、自分の意志で、生きてほしい。
誰にも縛られず、誰にも搾取されず――
自分の望むままに、笑っていてほしい。
君はまだ若い。どうか、君が君らしくある世界のなかで、愛する人を見つけて幸せに生きてほしい。
それが、私からの、最後の願いだ。
クロード・エルウッド
======
涙が、あとからあとから、手紙に落ちた。
文字がにじんで見えなくなっても、アリスは手を止めず、何度も何度も、心の中でその言葉を読み返した。
(……クロード様……)
彼の背中を支えた日々。
はにかんだ笑顔。
指先のあたたかさ。
静かに語られた旅の思い出――
それらすべてが、アリスの中で永遠の記憶となって、やさしく、深く、息づいていた。
彼の遺志を胸に、アリスは立ち上がる。
涙の奥に、ゆっくりと、未来への小さな一歩を描きながら――
***
クロードが旅立ってから――
静かに時は流れた。
季節は春を越え、初夏の風が石畳の街に優しく吹き込む頃。
アリスは、かつてクロードが執務をしていた書斎にいた。大きな机に並ぶ帳簿、重厚な書類棚、整えられた万年筆の一群。
「……本当に、こんなことが私にできるでしょうか」
アリスは小さく呟きながらも、すでにその指は躊躇いなく帳簿を捲っていた。
男爵家が代々手がけてきた事業――貿易、鉱山、金融――そのどれもが、クロードの慎重で誠実な手腕により、堅実な富を築いてきた。だが、アリスはそれだけに目を向けることはしなかった。
「私には……やりたいことがあります」
そう、静かに口にした日のことを、執事も弁護士も忘れられないと言う。
彼女は、幼い頃からの記憶を振り返った。
使用人のように扱われ、まともな教育も受けられなかったあの日々。
それでも、本の虫のように図書館に通い、独りで夢を見ていた。
「――だから、同じような子どもたちに、ほんの少しでも希望を与えたいのです」
アリスの願いは、強く、そしてまっすぐだった。
彼女は、クロードの残した資産の一部を用いて、教育支援財団の設立に着手した。
名称は――「クロード・エルウッド記念奨学財団」。
「奨学金は、貧しい家の子でも自由に学べるように。審査はありますが、身分や姓には縛られないようにしてください」
弁護士や会計士と連日膝を突き合わせながら、彼女は財団の骨組みを形づくっていく。
教育省や地域の学校とも連携を取りながら、財団の設立は少しずつ現実味を帯びていった。
最初に支援を始めたのは、かつてアリスが通えなかったあの町の公立学校だった。
学用品も揃えられない子どもたちに、ノートと筆記具を。
冬にはあたたかなコートを。
そして何より、夢を語る自由を。
アリスは時折、自らその子たちと対話の時間を持った。
「私の生まれた家は、肩書きだけの貴族でね。お金もなくて、学校に行くこともできなかった。お友達もいなかったから……毎日、ひとりで過ごしていたの」
彼女の話に、最初は遠慮がちだった子供たちも、少しずつ顔を上げて、笑顔を見せるようになっていった。
その日の夜。
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石の名を撫でる指が、ふるえを帯びる。
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