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陽が高くなる頃、アリスは小さな教会の裏庭で、孤児たちと土をいじっていた。
清潔な作業着に身を包み、泥に汚れるのも構わず、一人ひとりに声をかけながら、丁寧に苗を植えていく。
「この葉っぱの先にね、小さな白い花が咲くのよ」
そう言うと、子どもたちは目を輝かせてアリスの手元を覗き込んだ。
風に揺れる栗色の髪は、肩に柔らかくかかり、かつてよりもいっそう艶を増している。
クロードが旅立ってから、四年の月日が流れーーアリスは二十五歳になっていた。
年齢を重ねても、その面差しにはあどけなさが残り、同時に、穏やかで凛とした美しさをたたえていた。
長い睫毛に縁取られた瞳には、やさしさと芯の強さが宿り、微笑むたびにその眼差しが陽だまりのように、あたたかな光を周囲に注いでいた。
それは、かつてクロードが「君の笑顔を見るだけで救われる」と言った、優しい微笑だった。
ふと、土にまみれた手を止めたアリスは、空を仰いだ。
陽射しがまぶしい。けれど、その光のぬくもりがどこか懐かしく、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(クロード様……)
彼の名を心のなかで呼ぶたびに、深く刻まれた喪失の痛みと、今も胸に宿る温もりとが、ゆっくりと交わる。
――私が今日もこうして立っていられるのは、あなたが共にいてくれた日々があったから。
その想いは、日を重ねるほどに深まり、静かに心を支え続けていた。
***
慈善活動は着実に広がり、数年前に設立した奨学金財団は、今や王都でも広く知られる存在になっていた。
アリス自身が資産運用や財団の運営にも深く携わりながら、現場へも足を運び、手を動かし、休む間もないほどの日々を過ごしている。
けれど、アリスはそれを「忙しさ」とは思っていなかった。
誰かの役に立てること。必要とされること――
それが、何よりの喜びだった。
クロード様が遺してくれたこの日々を、私は誇りに思いたい。
その想いは、胸の奥で静かに、けれど確かに灯り続けていた。
その日、教会での仕事を終え、馬車で屋敷に戻る道すがら――
ふと、アリスの視界に、小さな木の看板が映り込んだ。
――王立図書館。
その五文字が、胸の奥をやさしく、けれど鋭く突いた。
まるで、忘れようとしていた記憶の扉が、音もなく軋みながら開きかけたようだった。
かつて――まだ十代だった頃。
そこで彼と出会った。
名前も知らなかった男子学生。
ふとした拍子にその名を知れた日が、今でも鮮明に思い出される。
何も話さなくても、ただ姿を見かけるだけで嬉しかった。
棚の影から横顔をそっと覗き見ては、その日一日が少しだけ明るく思えた。
手に取る本の背表紙を見て、自分も同じ本を読んでみようと真似した。
彼の笑顔も、遠くで聞こえる低い声も――宝石のように心に残った。
「ノエル様」
その名を、心の中でそっと呟く。
それだけで胸がじんわりと痛むのは、きっと傷がまだ癒えていない証。
――最後の日、彼の目は確かに自分を見ていた。
けれど、彼は何も言わなかった。何もしてくれなかった。
きっと、あれがすべてだったのだ。
立場も、身分も、何もかもが違いすぎた。
だからあれは、恋なんて呼んではいけない。
それでも、あの記憶は、冬の朝に降りた霜のように、いまだ溶けずに残っていた。
アリスは静かに目を閉じる。
心のどこかで、まだあの日の自分が立ちすくんでいる。
誰にも見つけられないまま、ひとり図書館の片隅にいる、あの頃の少女のままで――
……いいえ。
今の私は、もう、あの頃の私ではない。
守ってくれた人がいた。愛してくれた人がいた。
そして今は、私にも誰かの支えになれる道がある。
――恩返しがしたい。
あの場所が、かつての私にとって唯一の救いだったから。
誰にも必要とされず、家では使用人のように扱われていた自分にとって、あの静かな図書館は、唯一の「居場所」だった。
冷たい風が吹く朝、何時間もかけて歩いて通った日もある。
凍える指でページをめくりながら、それでも本を読むことだけが、自分を保つ手段だった。
本のなかには、希望があった。
誰かが誰かを想い、信じ、変わっていく物語があった。
現実では手に入らなかったやさしさや温もりを、文字のなかに見出し、図書館の静かな空気と、本の重みと、棚の合間から差し込むやわらかな陽光が――
私を見つけて、黙って受け入れてくれた。
図書館は、貧しい家の娘に、何も問わず知識の扉を開いてくれた。
その時間がなければ、私は「学ぶこと」を好きになれなかっただろう。
そして――
あの頃から、図書館の書架や椅子、読みかけの本の破れたページ……
設備の古さや運営の苦しさにも、子どもながらに気づいていた。
それでも、限られたなかで誰かが守ってくれていた場所だった。
だから今度は、私がその扉を守りたい。
本を通して未来に触れられる子どもたちのために。
誰もが自由に、たくさんの蔵書に触れられるように――
あの古びた書架を新しくし、照明を整え、暖かな読書室を増やしたい。
そのために、自分の名ではなく、クロード様の名を冠した寄附として、図書館に予算を贈ろうと考えている。
アリスはそっと目を伏せる。
――本が救ってくれたのだから、今度は、本を通して、誰かを救いたい。
それが、いつか夢見た「何者かになること」への、ひとつの答えのように思えた。
清潔な作業着に身を包み、泥に汚れるのも構わず、一人ひとりに声をかけながら、丁寧に苗を植えていく。
「この葉っぱの先にね、小さな白い花が咲くのよ」
そう言うと、子どもたちは目を輝かせてアリスの手元を覗き込んだ。
風に揺れる栗色の髪は、肩に柔らかくかかり、かつてよりもいっそう艶を増している。
クロードが旅立ってから、四年の月日が流れーーアリスは二十五歳になっていた。
年齢を重ねても、その面差しにはあどけなさが残り、同時に、穏やかで凛とした美しさをたたえていた。
長い睫毛に縁取られた瞳には、やさしさと芯の強さが宿り、微笑むたびにその眼差しが陽だまりのように、あたたかな光を周囲に注いでいた。
それは、かつてクロードが「君の笑顔を見るだけで救われる」と言った、優しい微笑だった。
ふと、土にまみれた手を止めたアリスは、空を仰いだ。
陽射しがまぶしい。けれど、その光のぬくもりがどこか懐かしく、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(クロード様……)
彼の名を心のなかで呼ぶたびに、深く刻まれた喪失の痛みと、今も胸に宿る温もりとが、ゆっくりと交わる。
――私が今日もこうして立っていられるのは、あなたが共にいてくれた日々があったから。
その想いは、日を重ねるほどに深まり、静かに心を支え続けていた。
***
慈善活動は着実に広がり、数年前に設立した奨学金財団は、今や王都でも広く知られる存在になっていた。
アリス自身が資産運用や財団の運営にも深く携わりながら、現場へも足を運び、手を動かし、休む間もないほどの日々を過ごしている。
けれど、アリスはそれを「忙しさ」とは思っていなかった。
誰かの役に立てること。必要とされること――
それが、何よりの喜びだった。
クロード様が遺してくれたこの日々を、私は誇りに思いたい。
その想いは、胸の奥で静かに、けれど確かに灯り続けていた。
その日、教会での仕事を終え、馬車で屋敷に戻る道すがら――
ふと、アリスの視界に、小さな木の看板が映り込んだ。
――王立図書館。
その五文字が、胸の奥をやさしく、けれど鋭く突いた。
まるで、忘れようとしていた記憶の扉が、音もなく軋みながら開きかけたようだった。
かつて――まだ十代だった頃。
そこで彼と出会った。
名前も知らなかった男子学生。
ふとした拍子にその名を知れた日が、今でも鮮明に思い出される。
何も話さなくても、ただ姿を見かけるだけで嬉しかった。
棚の影から横顔をそっと覗き見ては、その日一日が少しだけ明るく思えた。
手に取る本の背表紙を見て、自分も同じ本を読んでみようと真似した。
彼の笑顔も、遠くで聞こえる低い声も――宝石のように心に残った。
「ノエル様」
その名を、心の中でそっと呟く。
それだけで胸がじんわりと痛むのは、きっと傷がまだ癒えていない証。
――最後の日、彼の目は確かに自分を見ていた。
けれど、彼は何も言わなかった。何もしてくれなかった。
きっと、あれがすべてだったのだ。
立場も、身分も、何もかもが違いすぎた。
だからあれは、恋なんて呼んではいけない。
それでも、あの記憶は、冬の朝に降りた霜のように、いまだ溶けずに残っていた。
アリスは静かに目を閉じる。
心のどこかで、まだあの日の自分が立ちすくんでいる。
誰にも見つけられないまま、ひとり図書館の片隅にいる、あの頃の少女のままで――
……いいえ。
今の私は、もう、あの頃の私ではない。
守ってくれた人がいた。愛してくれた人がいた。
そして今は、私にも誰かの支えになれる道がある。
――恩返しがしたい。
あの場所が、かつての私にとって唯一の救いだったから。
誰にも必要とされず、家では使用人のように扱われていた自分にとって、あの静かな図書館は、唯一の「居場所」だった。
冷たい風が吹く朝、何時間もかけて歩いて通った日もある。
凍える指でページをめくりながら、それでも本を読むことだけが、自分を保つ手段だった。
本のなかには、希望があった。
誰かが誰かを想い、信じ、変わっていく物語があった。
現実では手に入らなかったやさしさや温もりを、文字のなかに見出し、図書館の静かな空気と、本の重みと、棚の合間から差し込むやわらかな陽光が――
私を見つけて、黙って受け入れてくれた。
図書館は、貧しい家の娘に、何も問わず知識の扉を開いてくれた。
その時間がなければ、私は「学ぶこと」を好きになれなかっただろう。
そして――
あの頃から、図書館の書架や椅子、読みかけの本の破れたページ……
設備の古さや運営の苦しさにも、子どもながらに気づいていた。
それでも、限られたなかで誰かが守ってくれていた場所だった。
だから今度は、私がその扉を守りたい。
本を通して未来に触れられる子どもたちのために。
誰もが自由に、たくさんの蔵書に触れられるように――
あの古びた書架を新しくし、照明を整え、暖かな読書室を増やしたい。
そのために、自分の名ではなく、クロード様の名を冠した寄附として、図書館に予算を贈ろうと考えている。
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