【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 陽が高くなる頃、アリスは小さな教会の裏庭で、孤児たちと土をいじっていた。

 清潔な作業着に身を包み、泥に汚れるのも構わず、一人ひとりに声をかけながら、丁寧に苗を植えていく。

「この葉っぱの先にね、小さな白い花が咲くのよ」

 そう言うと、子どもたちは目を輝かせてアリスの手元を覗き込んだ。

 風に揺れる栗色の髪は、肩に柔らかくかかり、かつてよりもいっそう艶を増している。

 クロードが旅立ってから、四年の月日が流れーーアリスは二十五歳になっていた。

 年齢を重ねても、その面差しにはあどけなさが残り、同時に、穏やかで凛とした美しさをたたえていた。
 長い睫毛に縁取られた瞳には、やさしさと芯の強さが宿り、微笑むたびにその眼差しが陽だまりのように、あたたかな光を周囲に注いでいた。

 それは、かつてクロードが「君の笑顔を見るだけで救われる」と言った、優しい微笑だった。

 ふと、土にまみれた手を止めたアリスは、空を仰いだ。

 陽射しがまぶしい。けれど、その光のぬくもりがどこか懐かしく、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

(クロード様……)

 彼の名を心のなかで呼ぶたびに、深く刻まれた喪失の痛みと、今も胸に宿る温もりとが、ゆっくりと交わる。

 ――私が今日もこうして立っていられるのは、あなたが共にいてくれた日々があったから。

 その想いは、日を重ねるほどに深まり、静かに心を支え続けていた。

 ***

 慈善活動は着実に広がり、数年前に設立した奨学金財団は、今や王都でも広く知られる存在になっていた。
 アリス自身が資産運用や財団の運営にも深く携わりながら、現場へも足を運び、手を動かし、休む間もないほどの日々を過ごしている。

 けれど、アリスはそれを「忙しさ」とは思っていなかった。

 誰かの役に立てること。必要とされること――
 それが、何よりの喜びだった。

 クロード様が遺してくれたこの日々を、私は誇りに思いたい。

 その想いは、胸の奥で静かに、けれど確かに灯り続けていた。

 その日、教会での仕事を終え、馬車で屋敷に戻る道すがら――

 ふと、アリスの視界に、小さな木の看板が映り込んだ。

 ――王立図書館。

 その五文字が、胸の奥をやさしく、けれど鋭く突いた。

 まるで、忘れようとしていた記憶の扉が、音もなく軋みながら開きかけたようだった。

 かつて――まだ十代だった頃。

 そこでと出会った。

 名前も知らなかった男子学生。
 ふとした拍子にその名を知れた日が、今でも鮮明に思い出される。

 何も話さなくても、ただ姿を見かけるだけで嬉しかった。
 棚の影から横顔をそっと覗き見ては、その日一日が少しだけ明るく思えた。
 手に取る本の背表紙を見て、自分も同じ本を読んでみようと真似した。
 彼の笑顔も、遠くで聞こえる低い声も――宝石のように心に残った。

「ノエル様」

 その名を、心の中でそっと呟く。

 それだけで胸がじんわりと痛むのは、きっと傷がまだ癒えていない証。

 ――最後の日、彼の目は確かに自分を見ていた。
 けれど、彼は何も言わなかった。何もしてくれなかった。

 きっと、あれがすべてだったのだ。
 立場も、身分も、何もかもが違いすぎた。
 だからあれは、恋なんて呼んではいけない。

 それでも、あの記憶は、冬の朝に降りた霜のように、いまだ溶けずに残っていた。

 アリスは静かに目を閉じる。

 心のどこかで、まだあの日の自分が立ちすくんでいる。
 誰にも見つけられないまま、ひとり図書館の片隅にいる、あの頃の少女のままで――

 ……いいえ。

 今の私は、もう、あの頃の私ではない。

 守ってくれた人がいた。愛してくれた人がいた。
 そして今は、私にも誰かの支えになれる道がある。

 ――恩返しがしたい。

 あの場所が、かつての私にとって唯一の救いだったから。

 誰にも必要とされず、家では使用人のように扱われていた自分にとって、あの静かな図書館は、唯一の「居場所」だった。

 冷たい風が吹く朝、何時間もかけて歩いて通った日もある。
 凍える指でページをめくりながら、それでも本を読むことだけが、自分を保つ手段だった。

 本のなかには、希望があった。

 誰かが誰かを想い、信じ、変わっていく物語があった。

 現実では手に入らなかったやさしさや温もりを、文字のなかに見出し、図書館の静かな空気と、本の重みと、棚の合間から差し込むやわらかな陽光が――
 私を見つけて、黙って受け入れてくれた。

 図書館は、貧しい家の娘に、何も問わず知識の扉を開いてくれた。

 その時間がなければ、私は「学ぶこと」を好きになれなかっただろう。

 そして――
 あの頃から、図書館の書架や椅子、読みかけの本の破れたページ……
 設備の古さや運営の苦しさにも、子どもながらに気づいていた。

 それでも、限られたなかで誰かが守ってくれていた場所だった。

 だから今度は、私がその扉を守りたい。

 本を通して未来に触れられる子どもたちのために。

 誰もが自由に、たくさんの蔵書に触れられるように――
 あの古びた書架を新しくし、照明を整え、暖かな読書室を増やしたい。

 そのために、自分の名ではなく、クロード様の名を冠した寄附として、図書館に予算を贈ろうと考えている。

 アリスはそっと目を伏せる。

 ――本が救ってくれたのだから、今度は、本を通して、誰かを救いたい。

 それが、いつか夢見た「何者かになること」への、ひとつの答えのように思えた。


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