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「バルタザール先生、ご結婚されるんですか?」
王立学園附属・高等研究課程の建築設計専門の研究室。指導教官の名は――バルタザール・ヘルマン。
2年間、研究課程で建築を学んだユリウス・エルデンは、卒業後もそのまま研究室に残り、バルタザール教授の助手として働いていた。
そんな彼が、ここ数日研究室内で話題になっている“ある噂”の真相を、ついに本人に問いただしたのだ。
「ユリウス、何の冗談だ?」
バルタザールは読んでいた建築書からゆっくりと顔を上げ、助手を見やる。
長身にぼさぼさの髪、無精髭に眼鏡。眼鏡越しの鋭い視線は一見近寄りがたいが、話し出せば理路整然とした知性をにじませる。
35歳で教授職に就いた若き建築学者でありながら、世俗的な関心からは距離を置き、ひたすら研究に没頭する姿勢は「変人」と称されることも少なくない。
名門ヘルマン伯爵家の三男という肩書きも、本人にとっては重荷にすぎなかった。
「えっ!? 研究室内は今、その話題でもちきりですよ? 先生の“婚約者”が突然挨拶に来られたって」
「……なんだ、その“婚約者”ってやつは」
「それがですね……」
ユリウスは一週間前の出来事を思い出す。
あれはちょうど、バルタザールが地方出張で研究室を留守にしていた日のことだった――
~~~~~~~~~~~
「こんにちは!」
明るく張りのある声が研究室に響いた。
年の頃は三十前後だろうか。元気な雰囲気をまとった一人の女性が、バルタザールの研究室に飛び込んできた。
扉を勢いよく開け、満面の笑みで挨拶する彼女は、赤毛を一つの三つ編みに束ね、緑の瞳を輝かせていた。
そばかすの浮いた頬に、どこか無邪気な雰囲気が漂っている。着ているのは、ごく普通のシンプルなワンピース。華やかさや貴族然とした気配は、まるで感じられなかった。
「当研究室に何かご用でしょうか?」
ユリウスが彼女の前に立ち、丁寧に声をかける。
切れ長の黒い瞳に、整った顔立ち。黒髪をきちんと整えたその姿は、助手というより秘書のようにも見えた。
周囲の研究生たちはそれぞれの作業に手を動かしつつも、珍しい来客に明らかに気を取られている。横目でチラチラとこちらをうかがう様子は隠しきれていなかった。
「バルタザールはいますか?」
「教授のお知り合い……でいらっしゃいますか?」
「お知り合いも何も、婚約者です」
「!?」
「私はミリア。ミリア・グレイマンと申します」
そう名乗った彼女は、あまりにも屈託なく笑った。
裏表のないその表情に、研究室内の空気が一瞬凍る。
「バルタザールってば、私のこと忘れちゃったのかしら? 二十年前に婚約したというのに」
「に、二十年前ですか!?」
ユリウスは思わず声を裏返らせた。
「ええ。私が十三歳、バルタザールが十五歳のときに婚約したの」
「は、はぁ……それは、またずいぶんと長い婚約期間ですね……」
「恋人同士には紆余曲折がつきものなのよ。長いこと離れ離れだったからね」
ミリアは腕を組んで頷いた。まるで「今になってようやく迎えに来てもらえる」とでも言いたげな調子だった。
「それで、今日は何のご用件を?」
ユリウスが恐る恐る尋ねると、ミリアはにっこり笑って言った。
「んーとね、とりあえず“婚約者に会いに来た”ってところかしら。あと、少し話があるの。大事な話」
「大事な……ですか」
「ええ。とっても大事なこと」
その言葉の奥に、ただの冗談ではない気配をユリウスは感じ取った。
だがそれ以上突っ込む前に、ミリアはコートの裾を軽く払って、研究室の椅子に当然のように腰を下ろした。
「生憎、教授は出張中でお戻りは来週になります」
「じゃあ、彼が帰ってきたら、また寄らせてもらうわ。あ、もちろん、皆さんの研究の邪魔はしないわよ。建築学って難しそうだけど面白そうねえ」
そう言って机の上にあった構造模型に手を伸ばそうとする。
「あ、それは触らないでいただけると助かります……っ!」
慌てて止めに入るユリウス。周囲の学生たちも、騒がしくも楽しげな様子を隠せずにいた。
~~~~~~~~~~
「――というわけなんです。先生、冗談に聞こえるかもしれませんが、あの女性、本気ですよ。どうやら先生との“昔の約束”を覚えてるらしくて……」
「……くだらん」
バルタザールは建築書を閉じ、深いため息を吐いた。
「覚えているんですか、ミリアさんのこと」
「……ああ。忘れられるわけがない」
低く静かな声で、バルタザールは言った。
その眼差しには、ユリウスが今まで見たことのない色が宿っていた――
王立学園附属・高等研究課程の建築設計専門の研究室。指導教官の名は――バルタザール・ヘルマン。
2年間、研究課程で建築を学んだユリウス・エルデンは、卒業後もそのまま研究室に残り、バルタザール教授の助手として働いていた。
そんな彼が、ここ数日研究室内で話題になっている“ある噂”の真相を、ついに本人に問いただしたのだ。
「ユリウス、何の冗談だ?」
バルタザールは読んでいた建築書からゆっくりと顔を上げ、助手を見やる。
長身にぼさぼさの髪、無精髭に眼鏡。眼鏡越しの鋭い視線は一見近寄りがたいが、話し出せば理路整然とした知性をにじませる。
35歳で教授職に就いた若き建築学者でありながら、世俗的な関心からは距離を置き、ひたすら研究に没頭する姿勢は「変人」と称されることも少なくない。
名門ヘルマン伯爵家の三男という肩書きも、本人にとっては重荷にすぎなかった。
「えっ!? 研究室内は今、その話題でもちきりですよ? 先生の“婚約者”が突然挨拶に来られたって」
「……なんだ、その“婚約者”ってやつは」
「それがですね……」
ユリウスは一週間前の出来事を思い出す。
あれはちょうど、バルタザールが地方出張で研究室を留守にしていた日のことだった――
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「こんにちは!」
明るく張りのある声が研究室に響いた。
年の頃は三十前後だろうか。元気な雰囲気をまとった一人の女性が、バルタザールの研究室に飛び込んできた。
扉を勢いよく開け、満面の笑みで挨拶する彼女は、赤毛を一つの三つ編みに束ね、緑の瞳を輝かせていた。
そばかすの浮いた頬に、どこか無邪気な雰囲気が漂っている。着ているのは、ごく普通のシンプルなワンピース。華やかさや貴族然とした気配は、まるで感じられなかった。
「当研究室に何かご用でしょうか?」
ユリウスが彼女の前に立ち、丁寧に声をかける。
切れ長の黒い瞳に、整った顔立ち。黒髪をきちんと整えたその姿は、助手というより秘書のようにも見えた。
周囲の研究生たちはそれぞれの作業に手を動かしつつも、珍しい来客に明らかに気を取られている。横目でチラチラとこちらをうかがう様子は隠しきれていなかった。
「バルタザールはいますか?」
「教授のお知り合い……でいらっしゃいますか?」
「お知り合いも何も、婚約者です」
「!?」
「私はミリア。ミリア・グレイマンと申します」
そう名乗った彼女は、あまりにも屈託なく笑った。
裏表のないその表情に、研究室内の空気が一瞬凍る。
「バルタザールってば、私のこと忘れちゃったのかしら? 二十年前に婚約したというのに」
「に、二十年前ですか!?」
ユリウスは思わず声を裏返らせた。
「ええ。私が十三歳、バルタザールが十五歳のときに婚約したの」
「は、はぁ……それは、またずいぶんと長い婚約期間ですね……」
「恋人同士には紆余曲折がつきものなのよ。長いこと離れ離れだったからね」
ミリアは腕を組んで頷いた。まるで「今になってようやく迎えに来てもらえる」とでも言いたげな調子だった。
「それで、今日は何のご用件を?」
ユリウスが恐る恐る尋ねると、ミリアはにっこり笑って言った。
「んーとね、とりあえず“婚約者に会いに来た”ってところかしら。あと、少し話があるの。大事な話」
「大事な……ですか」
「ええ。とっても大事なこと」
その言葉の奥に、ただの冗談ではない気配をユリウスは感じ取った。
だがそれ以上突っ込む前に、ミリアはコートの裾を軽く払って、研究室の椅子に当然のように腰を下ろした。
「生憎、教授は出張中でお戻りは来週になります」
「じゃあ、彼が帰ってきたら、また寄らせてもらうわ。あ、もちろん、皆さんの研究の邪魔はしないわよ。建築学って難しそうだけど面白そうねえ」
そう言って机の上にあった構造模型に手を伸ばそうとする。
「あ、それは触らないでいただけると助かります……っ!」
慌てて止めに入るユリウス。周囲の学生たちも、騒がしくも楽しげな様子を隠せずにいた。
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「――というわけなんです。先生、冗談に聞こえるかもしれませんが、あの女性、本気ですよ。どうやら先生との“昔の約束”を覚えてるらしくて……」
「……くだらん」
バルタザールは建築書を閉じ、深いため息を吐いた。
「覚えているんですか、ミリアさんのこと」
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低く静かな声で、バルタザールは言った。
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