【完結】そして、ふたりで築く場所へ

とっくり

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 その日も、バルタザールはいつものように、厚みのある建築書や数学・物理の専門書を机に広げ、無言でペンを走らせていた。
 まるで一人の世界に没入しているかのように見えるその姿は、初めて見る者にはとっつきづらく思えるかもしれない。

 しかし、ミリアはまったく気にする様子もなく、ティーカップ片手に楽しげに話を続けていた。内容は、学園での出来事や友人の話、時には昨晩見た夢や、気になった香水の話など、とりとめがない。

 けれど不思議なことに、バルタザールはその“とりとめのない話”を、決して聞き流してはいなかった。

 彼はミリアの言葉を、静かに、確実に心に留めていた。

 たとえば次に会ったとき、彼はふいにこう言うのだ。

 「……その友人、まだ怒っているのか?」
 「……それ、昨日夢に出てきた花だろう」

 彼女が口にした話題に、ふと触れてくれる。まるでどんな小さなことも、彼なりに大切に受け止めていたかのように。

 そのたびに、ミリアの胸はじんわりとあたたかくなった。

 ――あ、この人、ちゃんと私を見てるんだ。

 それだけで、嬉しかった。

 

「バルタザールは、ずっと建築の勉強を続けていくつもりなの?」

 ミリアはスコーンを一口かじりながら尋ねた。

「……ああ。そのつもりだ。建築だけじゃなく、インフラ整備にも関心がある」
「フォルクス領のこと、だよね?」
「……そうだ。乳母の故郷なんだ。あそこは未だに井戸も少ないし、道も舗装されていない。いつか行って、もっと暮らしやすく整備したいと思ってる」

「ふふ。バルタザールらしいなあ」

 ミリアは目を細めて微笑む。彼の未来を思うような視線には、どこか誇らしげな色が混ざっていた。

「私はね、医学を学びたいと思ってるの」
「医学? どうしてだ」
「この国って、女性の医師がまだ一人もいないでしょう?私が第一号になってみせるわ」

 胸を張って笑うミリアに、バルタザールはわずかに目を見開いた。

「進学先は決めているのか?この国では、女性が医学を学べる場所は限られているだろう」
「うん、それが悩みなのよね……。もしかしたら、隣国に留学することになるかも。でも、どうしても諦めたくないの」

 まっすぐな瞳で語るミリアの横顔を、バルタザールはしばし黙って見つめていた。

 彼にとって、彼女はいつも陽の光のような存在だった。

 だからこそ――その光が、少しずつ翳りを帯びていくことに、気づけなかったのかもしれない。


~~~~~~~~~~~


 それは、彼女の言葉どおり「夏バテ」などという一時的なものではなかった。

 婚約が決まって半年ほど経ったある日。
ミリアの都合で、何回かお茶会はキャンセルされていた。
 今回は、久しぶりのお茶会だったが、ミリアはどこか様子が違っていた。

 バルタザールがいつものようにテーブルに図面を広げるのを眺めながら、ミリアはカップを手にしていたが、手の動きはどこか緩慢だった。

「お茶会、何度もキャンセルしてごめんなさい」
「いや、それは構わない。だが……」

 バルタザールはふと目を細め、真正面から彼女を見つめた。

 ――違和感。

 以前のミリアなら、もっと頬がふっくらしていたはずだ。声にも力があった。だが今、目の前の彼女は頬がこけ、肌の色も青白く、カップを持つ指先まで少し震えていた。

「身体の具合は……本当に大丈夫なのか?」

 静かな口調だったが、その言葉には、どこかに小さな焦りが滲んでいた。

「……なんのこと?」

 ミリアは、あえて明るく笑おうとした。

「少し痩せたようだが」
「うん……ちょっとね。夏バテしたみたい。でも、もうすっかり元気よ」

 そう言って、いつものように笑顔を作るミリア。

 けれどバルタザールは、その笑みにふと覚えのない違和感を抱いた。

 無理に明るく振る舞おうとするような、そんな――仮面のような笑み。

 その日、彼は何も言わず、ただ静かに紅茶を注ぎ続けていた。
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