【完結】そして、ふたりで築く場所へ

とっくり

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 その日も私は、笑っていた。
 庭の噴水の前、春の陽射しの中。バルタザールは相変わらず分厚い本を開いて、眉間にしわを寄せていた。

 私はと言えば、そんな彼の隣で、今日の学院での出来事――クラスメイトが授業中に寝ていて先生にチョークを投げられた話とか、新しく開店したカフェで売っていた紅茶の名前がやたら長くて覚えられなかったこととか――とにかく、他愛のない話をひたすらしゃべっていた。

 彼は基本、うんともすんとも言わない。
 でも、私は知っていた。彼はちゃんと聞いてくれている。
 次のお茶会で、ふと私の言葉を拾ってくれる。それが、たまらなく嬉しかった。

 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。

 私はそう思っていた。
 でも、身体はそれを許してくれなかった。

 十三歳の春、病は再び私の体を蝕み始めた。
 最初は微熱、次は倦怠感。やがて階段を上るのもしんどくなって、布団から出られない日が続いた。

 母は泣いていた。父は無言で、医師たちと何度も会っていた。
 私は見ないふりをして、晴れた日にはベッドの上で、バルタザールの設計図を真似た落書きをしていた。

 やっぱり、こわかった。
 またあの、長い治療が始まるんだと思うと。
 前よりも、もっと重いものになるかもしれないと、そう聞かされていた。

「ノルデンに行きましょう」

 母が言った。
 母の故郷で、最先端の治療を行っている病院があるのだという。
 幸いにも親戚のつてがあり、すぐに移住できるとのことだった。

 私はうなずいた。行かなきゃ、きっと、もう学院にも行けなくなる。
 でも、それは同時に――バルタザールと会えなくなるということだった。

「言うべきかな」

 ベッドの上で呟いた。
 でも、どうしても言えなかった。

 彼の前では、私はいつも明るい私でいたかった。
 同情されるのも、気を遣われるのも、なにより“可哀想だ”と思われるのが嫌だった。

 私を選んでくれたわけじゃない、私が一方的に選んだこの婚約。
 でも、私はあの人と並んで歩くのが嬉しかった。
 だからこそ、病気のことは、告げられずにいた。

 病気になっても、私は私だと言い聞かせていても、彼に言う勇気だけが持てなかった。

 それでも、どんなに先が見えなくても、明るく、前を向いて。私らしく、生きてみせる。

 そう思いながら、私は旅立ちの朝、泣かないように空を見上げていた。

 空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。まるで、これから私が進む道を励ましてくれているかのように。

 停車場には、大きな旅行鞄と、父と母、そして私の三人。ノルデン行きの馬車がすぐそこまで来ている。

「ミリア、本当に……バルタザール君に、何も伝えなくていいの?」

 母が何度目かの問いを投げてきた。私はそのたびに首を横に振っていたけれど、今度だけは、少しだけ迷った。

 バルタザールのことを思い浮かべる。
 あの人はきっと、研究机にかじりついたまま、誰かが近くにいても気にしない。感情の揺れを表に出さない。
 ……でも、そんな彼が、お茶会のとき私の話をちゃんと聞いてくれているのを、私は知っている。

 最後くらい、顔を見てさよならを言うべきじゃないか――そんな思いが、何度も頭をかすめた。

 でも、私は、あの人の前で泣きたくなかった。さよならを言ったら、泣いてしまいそうだった。

 それが嫌だった。私らしくないから。

 だから、私は、いつも通りの口調で答えた。

「ううん、言わなくていい。バルタザールって忙しいし、見送りなんて困るだけだよ」

 母は苦笑しながらも、それ以上は何も言わなかった。

 父は黙って手袋をはめ直している。

「でも、大丈夫。また元気になって戻ってくるし。そしたらちゃんと顔を見せに行くから」

 あくまで明るく、冗談混じりに。
 いつも通りのミリアでいることが、私にとっての“強さ”だった。

 馬車が到着する音がして、荷物が積み込まれる。
 見慣れた王都の通り、通い慣れた学園、あの家の広い中庭。すべてがもう、今日でお別れかもしれないと思うと、少しだけ胸が痛んだ。

 それでも、私は笑った。

「ねえお母さま。馬車の中で食べるお菓子、用意してある?」
「……ふふ、もちろんよ。あなたの好きなジャムパイも入れてあるわ」
「ありがとう!たくさん食べたいな」

 笑って、いつも通りに手を振って。
 バルタザールの顔を浮かべながら、「またね」と心の中で呟いた。

 ――きっと、あの人は驚くんだろうな。
 何も言わずに私がいなくなったことを。

 でも、いいの。どうせすぐ元気になって帰ってくるから。
 そのときは、また紅茶を飲みながら、たくさん話そう。

 だって私、約束してないけど、あの人と未来の話をするのが好きだったんだ。

 だから、その未来を、自分で勝ち取りにいく。
 
この体と、まだ続く夢と、ちょっぴりの勇気を連れて。
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