17 / 32
17
しおりを挟む
手紙を出してからしばらくの間、落ち着かない日々が続いた。
ポストに投函した瞬間、それまで胸にしまっていた思いが風に乗って舞い上がっていくようで、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。けれど、それは一瞬のことだった。
次の日から、私は毎朝、ポストを確認するようになった。
――返事は来ないって、自分で決めたじゃない。
そう言い聞かせながらも、朝になるたび心のどこかがざわついた。もしかしたら彼が、私を探してくれるんじゃないか……そんな淡い期待が、理屈を超えて胸に生まれていた。
でも、そんな奇跡は当然、起こらなかった。
やがて私は、自分に言い聞かせるようになった。
――あの手紙は、“区切り”のために必要だったのだと。
もう一度恋を夢見るためではなく、過去にとらわれず、前を向いて歩いていくための、ささやかな儀式。そんな位置づけだったのだと。
現実は、残酷なほど容赦なく進んでいく。
ノルデンでの治療は驚くほど効果を上げ、体調は安定を取り戻していた。だが、医学学校での学びは想像以上に過酷だった。
臨床実習の始まった頃、まだ完全に回復していなかった身体は最初の一週間で悲鳴を上げ、私は高熱を出して倒れた。
それでも遅れを取り戻そうと、私は日が暮れるまで教科書とノートにかじりつき、眠りに落ちるまで専門用語をぶつぶつと繰り返していた。
けれど、不思議なことに、私は孤独ではなかった。
病院で出会った子どもたちが、私を支えてくれた。
小児病棟にボランティアで通い始めると、すぐに何人かの子たちが懐いてくれた。ある日、病で髪を失った女の子が、ぬいぐるみを抱えて私に聞いた。
「ミリアおねえさんは、どうして笑ってるの?」
私は少しだけ考えてから、そっと答えた。
「だって、泣いてたら、夢に近づけないもの」
その言葉は、自分自身への言葉でもあった。女の子は少し首をかしげながら言った。
「じゃあ、泣いたら夢はどこかに行っちゃうの?」
私は膝をついて彼女と目線を合わせ、優しく、けれどしっかりと答えた。
「ううん、夢は逃げたりしないよ。ちゃんとそこにあるの。でもね、泣いてばかりいると、それを見つけられなくなることがあるの。だから私は、夢が見えるように笑ってるの」
女の子は、不思議そうな顔をしたあと、小さく笑ってくれた。
その笑顔に、私は救われた。
――月日は流れ、私は医師として働き始めた。
医師免許を取得して間もなく、王都新聞の記者が病院にやってきた。
『ミリア・グレイマン氏は、ヴァルデリア王国出身。十三歳でノルデンに移住後、長期にわたる治療と学業を両立。見事、王立医学学校を修了し、医師となった。彼女の努力と情熱は、今、多くの子どもたちに希望を与えている』
取材を受けながら、私は自然と彼のことを思い出していた。
もしかして、この新聞を読んで、私の名前を見つけてくれるんじゃないか。
そんな密やかな期待が、胸の奥で膨らんでいた。
けれど――現実は、そう甘くはなかった。
病院では明るく振る舞うようにしていた。患者にも、同僚にも、できるだけ笑顔を向けた。
「なんでそんなに元気なんですか?」
そう聞かれるたびに、私は決まってこう返した。
「生まれつき!」
だけど、本当は綱渡りのような日々だった。
再燃の可能性は消えたわけではなく、私は医師であると同時に、患者でもあった。そんな事実が、常に背中に張りついていた。
それでも、笑っていた。誰かの希望になりたかった。
時折、夜の当直室で一人になると、ふと思い出すことがあった。
あの人のこと。
白衣の裾を汚しながら、真剣な目で設計図を見つめる姿。
口数は少ないけれど、決して人を否定せず、誰よりも真摯に物事に向き合う姿勢。
建物の話になると、少しだけ早口になるのが妙に可愛らしかった。
――また会えるだろうか?
何度も自分に問いかけて、何度も「それは夢だ」と言い聞かせた。
そうして、五年が過ぎた。
私はようやく一人前の医師として現場に立ち、時には隣国の僻地に赴き、子どもたちの命を救う活動にも携わるようになっていた。
体調も奇跡的に安定していて、「もしかして、このまま治るのかも」と思える日すらあった。
だが、慢心はしなかった。
この身体は、いつまた静かに悲鳴をあげるか分からない。だからこそ、今を精一杯生きたかった。
そして、ある時ふと、私は思った。
――もう一度、あの人に会いたい。
あの時、何も伝えられなかった後悔。
ただ去っただけだった自分の弱さ。
でも、今なら言えるかもしれない。
「私は、あの日を後悔してる」
そうして私は、ある出来事をきっかけに、ヴァルデリア王国へ戻る決意をした。
思い立ったら即行動。昔から変わらない、私の悪い癖。
二十年ぶりに王都に降り立ち、かつての知人を頼って、バルタザール・ヘルマンの研究室を探し当てた。
その建物は、想像していたよりもずっと立派だった。
古びた外観の中に、凛とした骨格が息づいていて、実用と美を兼ね備えた構造は、まさに彼の建築そのものだった。
私は、深呼吸をひとつして、扉を叩いた。
ドアの向こうから、懐かしい声が聞こえた。
そして、現れた彼の姿。
髪は伸び、無精髭もあったけれど――目は、あの頃と変わらなかった。
真剣で、誠実で、少しだけ困ったような、優しい目。
私はまだ、「大事な話」をしていない。
けれど、きっと、その日は来る。
あの日のことも、病のことも、あの手紙のことも。
そして願わくば、その時、彼がこう言ってくれたらいい。
――「よく来たな」
私はまた、未来に向かって歩き出す。
今度は、一方通行ではない、ふたりの明日へ。
ポストに投函した瞬間、それまで胸にしまっていた思いが風に乗って舞い上がっていくようで、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。けれど、それは一瞬のことだった。
次の日から、私は毎朝、ポストを確認するようになった。
――返事は来ないって、自分で決めたじゃない。
そう言い聞かせながらも、朝になるたび心のどこかがざわついた。もしかしたら彼が、私を探してくれるんじゃないか……そんな淡い期待が、理屈を超えて胸に生まれていた。
でも、そんな奇跡は当然、起こらなかった。
やがて私は、自分に言い聞かせるようになった。
――あの手紙は、“区切り”のために必要だったのだと。
もう一度恋を夢見るためではなく、過去にとらわれず、前を向いて歩いていくための、ささやかな儀式。そんな位置づけだったのだと。
現実は、残酷なほど容赦なく進んでいく。
ノルデンでの治療は驚くほど効果を上げ、体調は安定を取り戻していた。だが、医学学校での学びは想像以上に過酷だった。
臨床実習の始まった頃、まだ完全に回復していなかった身体は最初の一週間で悲鳴を上げ、私は高熱を出して倒れた。
それでも遅れを取り戻そうと、私は日が暮れるまで教科書とノートにかじりつき、眠りに落ちるまで専門用語をぶつぶつと繰り返していた。
けれど、不思議なことに、私は孤独ではなかった。
病院で出会った子どもたちが、私を支えてくれた。
小児病棟にボランティアで通い始めると、すぐに何人かの子たちが懐いてくれた。ある日、病で髪を失った女の子が、ぬいぐるみを抱えて私に聞いた。
「ミリアおねえさんは、どうして笑ってるの?」
私は少しだけ考えてから、そっと答えた。
「だって、泣いてたら、夢に近づけないもの」
その言葉は、自分自身への言葉でもあった。女の子は少し首をかしげながら言った。
「じゃあ、泣いたら夢はどこかに行っちゃうの?」
私は膝をついて彼女と目線を合わせ、優しく、けれどしっかりと答えた。
「ううん、夢は逃げたりしないよ。ちゃんとそこにあるの。でもね、泣いてばかりいると、それを見つけられなくなることがあるの。だから私は、夢が見えるように笑ってるの」
女の子は、不思議そうな顔をしたあと、小さく笑ってくれた。
その笑顔に、私は救われた。
――月日は流れ、私は医師として働き始めた。
医師免許を取得して間もなく、王都新聞の記者が病院にやってきた。
『ミリア・グレイマン氏は、ヴァルデリア王国出身。十三歳でノルデンに移住後、長期にわたる治療と学業を両立。見事、王立医学学校を修了し、医師となった。彼女の努力と情熱は、今、多くの子どもたちに希望を与えている』
取材を受けながら、私は自然と彼のことを思い出していた。
もしかして、この新聞を読んで、私の名前を見つけてくれるんじゃないか。
そんな密やかな期待が、胸の奥で膨らんでいた。
けれど――現実は、そう甘くはなかった。
病院では明るく振る舞うようにしていた。患者にも、同僚にも、できるだけ笑顔を向けた。
「なんでそんなに元気なんですか?」
そう聞かれるたびに、私は決まってこう返した。
「生まれつき!」
だけど、本当は綱渡りのような日々だった。
再燃の可能性は消えたわけではなく、私は医師であると同時に、患者でもあった。そんな事実が、常に背中に張りついていた。
それでも、笑っていた。誰かの希望になりたかった。
時折、夜の当直室で一人になると、ふと思い出すことがあった。
あの人のこと。
白衣の裾を汚しながら、真剣な目で設計図を見つめる姿。
口数は少ないけれど、決して人を否定せず、誰よりも真摯に物事に向き合う姿勢。
建物の話になると、少しだけ早口になるのが妙に可愛らしかった。
――また会えるだろうか?
何度も自分に問いかけて、何度も「それは夢だ」と言い聞かせた。
そうして、五年が過ぎた。
私はようやく一人前の医師として現場に立ち、時には隣国の僻地に赴き、子どもたちの命を救う活動にも携わるようになっていた。
体調も奇跡的に安定していて、「もしかして、このまま治るのかも」と思える日すらあった。
だが、慢心はしなかった。
この身体は、いつまた静かに悲鳴をあげるか分からない。だからこそ、今を精一杯生きたかった。
そして、ある時ふと、私は思った。
――もう一度、あの人に会いたい。
あの時、何も伝えられなかった後悔。
ただ去っただけだった自分の弱さ。
でも、今なら言えるかもしれない。
「私は、あの日を後悔してる」
そうして私は、ある出来事をきっかけに、ヴァルデリア王国へ戻る決意をした。
思い立ったら即行動。昔から変わらない、私の悪い癖。
二十年ぶりに王都に降り立ち、かつての知人を頼って、バルタザール・ヘルマンの研究室を探し当てた。
その建物は、想像していたよりもずっと立派だった。
古びた外観の中に、凛とした骨格が息づいていて、実用と美を兼ね備えた構造は、まさに彼の建築そのものだった。
私は、深呼吸をひとつして、扉を叩いた。
ドアの向こうから、懐かしい声が聞こえた。
そして、現れた彼の姿。
髪は伸び、無精髭もあったけれど――目は、あの頃と変わらなかった。
真剣で、誠実で、少しだけ困ったような、優しい目。
私はまだ、「大事な話」をしていない。
けれど、きっと、その日は来る。
あの日のことも、病のことも、あの手紙のことも。
そして願わくば、その時、彼がこう言ってくれたらいい。
――「よく来たな」
私はまた、未来に向かって歩き出す。
今度は、一方通行ではない、ふたりの明日へ。
52
あなたにおすすめの小説
歴史から消された皇女〜2人の皇女の願いが叶うまで終われない〜
珠宮さくら
恋愛
ファバン大国の皇女として生まれた娘がいた。
1人は生まれる前から期待され、生まれた後も皇女として周りの思惑の中で過ごすことになり、もう1人は皇女として認められることなく、街で暮らしていた。
彼女たちの運命は、生まれる前から人々の祈りと感謝と願いによって縛られていたが、彼らの願いよりも、もっと強い願いをかけていたのは、その2人の皇女たちだった。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
時間を止めて ~忘れられない元カレは完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な人でした 【完結】
remo
恋愛
どんなに好きになっても、彼は絶対に私を愛さない。
佐倉ここ。
玩具メーカーで働く24歳のOL。
鬼上司・高野雅(がく)に叱責されながら仕事に奔走する中、忘れられない元カレ・常盤千晃(ちあき)に再会。
完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な彼には、悲しい秘密があった。
【完結】ありがとうございました‼
妻が通う邸の中に
月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。
国王陛下はいつも眠たい
通木遼平
恋愛
八つの国が一つになって建国されたフォルトマジア王国では、「主家」と呼ばれる八つのかつての王家が順番に王位を継ぐことが決まっていた。その一つであり先々代の王家でもあったエリーディアに生まれたフィーナディアは、ある日突然、現国王であるトゥーランのラグルに嫁ぐよう父から告げられる。彼女の父親と姉は自分たちこそ王位にふさわしいと言ってはばからず、どんな手を使ってでもラグルを陥れるよう命じたのだった。
しかしそんな父たちの考えに賛同できないフィーナディアは、父の企みをラグルに伝え、婚約もなかったことにし、後は自由にさせてもらおうと考える。しかしふとしたきっかけでラグルとの距離が縮まっていき……。
『白い結婚のはずでしたが、夫の“愛”が黒い。 限界突破はお手柔らかに!』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
白い結婚のはずだった。
姉の遺した娘――カレンの親権を守るため、
私と侯爵タイロンは“同じ屋根の下で暮らすだけ”の契約を交わした。
夜を共にしない、干渉しない、互いに自由。
それが白い結婚の条件。
……だったはずなのに。
最近、夫の目が黒い。
「お前、俺を誘惑してるつもりか?」
「は? してませんけど? 白い結婚でしょうが」
「……俺は、白い結婚でよかったがな。
お前が俺を限界まで追い詰めるなら……話は別だ」
黒い。
完全に黒い。
理性じゃなくて、野生の方が勝ってる。
ちょっと待って、何その目!?
やめて、白い結婚の契約書どこ行ったの!?
破らないで!
――白い結婚? 知らん。
もう限界。覚悟しろ。
タイロンの目がそう語っていた。
私、白い結婚で穏やかに暮らす予定だったんだけど!?
簒奪女王と隔絶の果て
紺乃 安
恋愛
穏やかな美青年王子が、即位した途端に冷酷な王に変貌した。そしてそれが、不羈の令嬢ベアトリスの政略結婚相手。
ポストファンタジー宮廷ロマンス小説。
※拙作「山賊王女と楽園の涯」の完結編という位置づけでもありますが、知らなくとも問題ないよう書いてあります。興味があればそちらもお読みください(ただしずいぶんジャンルが違い、とても長いです)。
猫になった悪女 ~元夫が溺愛してくるなんて想定外~
黒猫子猫
恋愛
ディアナは欲深く、夫にも結婚を強いた悪女として知られた女王だ。当然のように人々から嫌われ、夫婦仲は悪く、病に倒れた時も誰も哀しまなかった。ディアナは、それで良かった。余命宣告を受け、自分の幸せを追い求める事などとうに止めた。祖国のためにできる事は全てやった。思うままに生きたから、人生をやり直せると言われても、人間などまっぴらごめんだ。
そして、《猫》になった。日向でのんびりと寝ている姿が羨ましかったからだ。いざ、自堕落な生活をしようと思ったら、元夫に拾われてしまった。しかも、自分が死んで、解放されたはずの彼の様子が妙だ。
あなた、隙あらば撫でようとするの、止めてくれる? 私達は白い結婚だったでしょう。
あなた、再婚する気がないの? 「お前を愛したりしない」って嬉しい事を言ってくれたのは誰よ!
猫になった孤高の女王×妻を失って初めて色々気づいてしまった王配の恋のお話。
※全30話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる