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出発の朝は、どこかひんやりとした空気に包まれていた。
初夏の陽射しはまだ届かず、王都の石畳を抜ける馬車の車輪が、控えめに軋んでいた。
ミリアは旅装に身を包み、軽やかな足取りで研究棟の前に現れた。
淡いグレージュの外套に、赤髪を一つにまとめた姿は、医師としての確かな経験と覚悟を感じさせる。だがその横顔には、どこか少女のような希望の光も宿っていた。
ユリウスが手際よく荷物を確認しながら、にこやかに声をかける。
「バルタザール先生、ミリアさん、準備は万端ですか?」
「ええ。長旅だけど、平気よ。むしろ楽しみだわ。ユリウスこそ、途中で音を上げないでね」
ユリウスが笑って頷き、ミリアが冗談めかして拳を振る。
そんなやりとりを見ていたバルタザールは、無言で小さく頷いた。荷台に積み込まれた製図板と測量器具の入った木箱――そこに、彼の意志と、彼女への想いの一部が詰まっていた。
現地【サイデン】に向かう馬車の中、揺れに合わせて微かにきしむ音を聞きながら、ミリアは窓の外に目を向けてつぶやいた。
「……あの場所にはね、今、助産所みたいな建物が一つだけあるの。医師は老齢の方が一人、あとは看護師が一人いるだけ。薬も足りない。雨が降ればすぐに床が濡れて、子どもたちは咳をして、それでも毎日そこに集まってくるの。設備も揃わない中、少ない人数で頑張っているの」
その横顔は、懸命に感情を抑えていた。口調は淡々としていたが、両手は膝の上で静かに重ねられ、握りしめる指先に、彼女の想いがにじんでいた。
「だから……せめて、通いたくなる場所にしたいの。病気の子が、“ここに来れば治るかもしれない”って思えるような、そんな建物に」
バルタザールは黙ってその言葉に耳を傾けた。
ふと、彼女の目がこちらを向く。
「ねえ、バルタザール。建物って、“人を救う”ことができると思う?」
その問いは、建築学者としての彼の根幹を、静かに問うていた。
バルタザールは少し考え、眼鏡の奥の目をまっすぐにミリアに向けた。
「……建物そのものではなく、そこに“込められた思い”が人を救うのだと、俺は思う。君がそう願うなら、俺はそれを形にする」
ミリアの瞳が揺れた。
その瞬間だけ、少女のような表情になって、少し目を伏せる。
「……ありがとう。昔から、そういうとこ、変わらないのね。言葉少ないのに、ちゃんと伝えてくれる」
ユリウスが馬車の前方で居眠りを始めていた。車内にはふたりきりの空気が流れた。
バルタザールは、あらためてミリアの横顔を見つめた。医師として強くありたいと願う彼女。明るくふるまうけれど、深い優しさを持ち、誰かの痛みに本気で向き合っている。
――こんなに、まっすぐな人だったか?
かつて、庭の片隅で花やお茶の話をしていた少女は、今や命を支える場所を創ろうとしている。
その姿に、自然と敬意が湧いた。
そして、同時に胸の奥に、あたたかな感情が芽生える。
(ミリアと……もう一度、未来を作ることができたら)
彼は言葉にせず、ただ心の内でそう呟いた。
一方、ミリアもまた彼の眼差しに気づいていた。黙って耳を傾け、必要な時にだけしっかりと支える態度。彼の変わらない誠実さに、気づけば心が温かくなる。
――この人に、頼ってよかった。
自分の願いを笑わず、受け止め、形にしてくれる。その存在の確かさと誠実さが、何よりも嬉しかった。
馬車が小さな橋を越えるたび、窓の外の景色が少しずつ変わっていく。
ふたりの関係もまた、ゆっくりと、けれど確かに――あのとき止まったままだった時間を取り戻し始めていた。
初夏の陽射しはまだ届かず、王都の石畳を抜ける馬車の車輪が、控えめに軋んでいた。
ミリアは旅装に身を包み、軽やかな足取りで研究棟の前に現れた。
淡いグレージュの外套に、赤髪を一つにまとめた姿は、医師としての確かな経験と覚悟を感じさせる。だがその横顔には、どこか少女のような希望の光も宿っていた。
ユリウスが手際よく荷物を確認しながら、にこやかに声をかける。
「バルタザール先生、ミリアさん、準備は万端ですか?」
「ええ。長旅だけど、平気よ。むしろ楽しみだわ。ユリウスこそ、途中で音を上げないでね」
ユリウスが笑って頷き、ミリアが冗談めかして拳を振る。
そんなやりとりを見ていたバルタザールは、無言で小さく頷いた。荷台に積み込まれた製図板と測量器具の入った木箱――そこに、彼の意志と、彼女への想いの一部が詰まっていた。
現地【サイデン】に向かう馬車の中、揺れに合わせて微かにきしむ音を聞きながら、ミリアは窓の外に目を向けてつぶやいた。
「……あの場所にはね、今、助産所みたいな建物が一つだけあるの。医師は老齢の方が一人、あとは看護師が一人いるだけ。薬も足りない。雨が降ればすぐに床が濡れて、子どもたちは咳をして、それでも毎日そこに集まってくるの。設備も揃わない中、少ない人数で頑張っているの」
その横顔は、懸命に感情を抑えていた。口調は淡々としていたが、両手は膝の上で静かに重ねられ、握りしめる指先に、彼女の想いがにじんでいた。
「だから……せめて、通いたくなる場所にしたいの。病気の子が、“ここに来れば治るかもしれない”って思えるような、そんな建物に」
バルタザールは黙ってその言葉に耳を傾けた。
ふと、彼女の目がこちらを向く。
「ねえ、バルタザール。建物って、“人を救う”ことができると思う?」
その問いは、建築学者としての彼の根幹を、静かに問うていた。
バルタザールは少し考え、眼鏡の奥の目をまっすぐにミリアに向けた。
「……建物そのものではなく、そこに“込められた思い”が人を救うのだと、俺は思う。君がそう願うなら、俺はそれを形にする」
ミリアの瞳が揺れた。
その瞬間だけ、少女のような表情になって、少し目を伏せる。
「……ありがとう。昔から、そういうとこ、変わらないのね。言葉少ないのに、ちゃんと伝えてくれる」
ユリウスが馬車の前方で居眠りを始めていた。車内にはふたりきりの空気が流れた。
バルタザールは、あらためてミリアの横顔を見つめた。医師として強くありたいと願う彼女。明るくふるまうけれど、深い優しさを持ち、誰かの痛みに本気で向き合っている。
――こんなに、まっすぐな人だったか?
かつて、庭の片隅で花やお茶の話をしていた少女は、今や命を支える場所を創ろうとしている。
その姿に、自然と敬意が湧いた。
そして、同時に胸の奥に、あたたかな感情が芽生える。
(ミリアと……もう一度、未来を作ることができたら)
彼は言葉にせず、ただ心の内でそう呟いた。
一方、ミリアもまた彼の眼差しに気づいていた。黙って耳を傾け、必要な時にだけしっかりと支える態度。彼の変わらない誠実さに、気づけば心が温かくなる。
――この人に、頼ってよかった。
自分の願いを笑わず、受け止め、形にしてくれる。その存在の確かさと誠実さが、何よりも嬉しかった。
馬車が小さな橋を越えるたび、窓の外の景色が少しずつ変わっていく。
ふたりの関係もまた、ゆっくりと、けれど確かに――あのとき止まったままだった時間を取り戻し始めていた。
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