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翌朝、山あいの村には、霧がふんわりと降りていた。
仮設宿舎の縁側に出たミリアは、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。隣には、すでに起きていたバルタザールが立っていた。無言のまま差し出されたカップに、あたたかな湯気の立つハーブティーが揺れていた。
「……ありがとう」
ミリアが微笑むと、バルタザールは小さく頷いたきり、再び村の方を見下ろした。
その日から、ふたりはまるで自然に息を合わせるように、仕事を進めていった。
バルタザールは建材の選定と地盤の調査に没頭し、ミリアは診療所での診療をこなしながら、村の人々と話し合いを重ねていく。新しい施設を作るには、何が必要か。誰のために、どんな機能が求められているのか。
診療の合間、ミリアが椅子に腰かけて、ちいさな女の子の髪を三つ編みにしていると、その子が突然、こんなことを言った。
「ねえ、ミリアせんせー。眼鏡の先生とけっこんするの?」
ミリアがぎょっとして目を瞬かせると、女の子はにやりと笑った。
「だって、きのう、キスしてたよ? 窓から見えたもん」
ミリアは思わず顔を真っ赤にしながら、咳払いをひとつ。
「……しーっ。まだ内緒。ね?」
女の子は笑いながら、頷いた。
ーーけれど、そのうわさは、瞬く間に村のスタッフの間でも広まった。
ユリウスがぼそりと、
「先生にとうとう春が来たか……」
と呟いたとき、ミリアは思わず、机の上の資料で彼の頭を軽く叩いた。
「はい、口チャック。仕事に集中!」
「痛っ……って、はいはい、了解です」
ユリウスは苦笑しながら頭をさすり、どこかうれしそうな顔をしていた。
高原の空はどこまでも澄みわたり、朝晩の空気は肌寒いが、昼になると太陽の光がやさしく降り注ぐ。
ミリアとバルタザールは、村の人々とともに、施設建設に向けての準備を着々と進めていた。
診療所の敷地予定地で、測量器具を担ぐユリウスがにやりと笑う。
「いやあ、先生。最近ずっと顔がやわらかいですよね。やっぱり春が訪れたせいですか?」
「春……?」
バルタザールは首をかしげた。
「つまり、恋ですよ、恋」
その言葉に、周囲のスタッフたちがどっと笑った。
「こないださ、先生が『彼女が夢見る場所だから、絶対に安全で温かい施設にしたい』って、真顔で言っててさ」
「え、聞いた聞いた! うちの看護師、全員感動して泣きそうになってたから」
「それは感動っていうか、もはや惚れるでしょ!」
バルタザールはやや無表情に近い顔で作業を続けながらも、どこか耳が赤くなっていた。
「おまえたち、仕事中だろう」と低く呟くが、誰も気にしない。ミリアだけが、その横顔を見つめて微笑んでいた。
それからの日々、ふたりの関係は、ことさら誰にも説明する必要もなく、自然な空気として村に馴染んでいった。
バルタザールは、子どもたちから「せんせーのだんなさんになるひと!」とからかわれながらも、相変わらず口数少なく、真面目に設計図と格闘していた。
その姿を、ミリアはときおり遠くから眺めて、静かに微笑んだ。
――この人と、こうしていられる今が、どれほどかけがえのないものか。
ミリアの病状は、まだ波がある。午前中に熱が上がり、午後にやっと動ける日もある。それでも彼女は諦めなかった。
夕方、診療所の裏の丘で、ふたり並んで腰を下ろす時間ができたとき。
「ねえ」とミリアが切り出す。
「この施設ができたら、今度は一緒に次の場所も見てほしい。もっとたくさんの村に、あたたかい場所を作っていきたいの」
バルタザールは隣で、少し驚いたように眉を動かした。
「もう次の話か。……君は本当に、止まらないな」
「うん。でも、誰かが止めたら、たぶん止まる。あなたが止めてくれなかったら、私はずっと走り続けちゃうから」
彼はふっと笑って、ミリアの手を取った。
「じゃあ、止める代わりに、隣でついていく。つまずいたら、支えるから」
ミリアはその手を握り返し、澄んだ空を見上げた。
――どんなに不安でも、この人がいてくれるなら、大丈夫。
その思いが、彼女の胸に静かに根を下ろしていくのだった。
仮設宿舎の縁側に出たミリアは、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。隣には、すでに起きていたバルタザールが立っていた。無言のまま差し出されたカップに、あたたかな湯気の立つハーブティーが揺れていた。
「……ありがとう」
ミリアが微笑むと、バルタザールは小さく頷いたきり、再び村の方を見下ろした。
その日から、ふたりはまるで自然に息を合わせるように、仕事を進めていった。
バルタザールは建材の選定と地盤の調査に没頭し、ミリアは診療所での診療をこなしながら、村の人々と話し合いを重ねていく。新しい施設を作るには、何が必要か。誰のために、どんな機能が求められているのか。
診療の合間、ミリアが椅子に腰かけて、ちいさな女の子の髪を三つ編みにしていると、その子が突然、こんなことを言った。
「ねえ、ミリアせんせー。眼鏡の先生とけっこんするの?」
ミリアがぎょっとして目を瞬かせると、女の子はにやりと笑った。
「だって、きのう、キスしてたよ? 窓から見えたもん」
ミリアは思わず顔を真っ赤にしながら、咳払いをひとつ。
「……しーっ。まだ内緒。ね?」
女の子は笑いながら、頷いた。
ーーけれど、そのうわさは、瞬く間に村のスタッフの間でも広まった。
ユリウスがぼそりと、
「先生にとうとう春が来たか……」
と呟いたとき、ミリアは思わず、机の上の資料で彼の頭を軽く叩いた。
「はい、口チャック。仕事に集中!」
「痛っ……って、はいはい、了解です」
ユリウスは苦笑しながら頭をさすり、どこかうれしそうな顔をしていた。
高原の空はどこまでも澄みわたり、朝晩の空気は肌寒いが、昼になると太陽の光がやさしく降り注ぐ。
ミリアとバルタザールは、村の人々とともに、施設建設に向けての準備を着々と進めていた。
診療所の敷地予定地で、測量器具を担ぐユリウスがにやりと笑う。
「いやあ、先生。最近ずっと顔がやわらかいですよね。やっぱり春が訪れたせいですか?」
「春……?」
バルタザールは首をかしげた。
「つまり、恋ですよ、恋」
その言葉に、周囲のスタッフたちがどっと笑った。
「こないださ、先生が『彼女が夢見る場所だから、絶対に安全で温かい施設にしたい』って、真顔で言っててさ」
「え、聞いた聞いた! うちの看護師、全員感動して泣きそうになってたから」
「それは感動っていうか、もはや惚れるでしょ!」
バルタザールはやや無表情に近い顔で作業を続けながらも、どこか耳が赤くなっていた。
「おまえたち、仕事中だろう」と低く呟くが、誰も気にしない。ミリアだけが、その横顔を見つめて微笑んでいた。
それからの日々、ふたりの関係は、ことさら誰にも説明する必要もなく、自然な空気として村に馴染んでいった。
バルタザールは、子どもたちから「せんせーのだんなさんになるひと!」とからかわれながらも、相変わらず口数少なく、真面目に設計図と格闘していた。
その姿を、ミリアはときおり遠くから眺めて、静かに微笑んだ。
――この人と、こうしていられる今が、どれほどかけがえのないものか。
ミリアの病状は、まだ波がある。午前中に熱が上がり、午後にやっと動ける日もある。それでも彼女は諦めなかった。
夕方、診療所の裏の丘で、ふたり並んで腰を下ろす時間ができたとき。
「ねえ」とミリアが切り出す。
「この施設ができたら、今度は一緒に次の場所も見てほしい。もっとたくさんの村に、あたたかい場所を作っていきたいの」
バルタザールは隣で、少し驚いたように眉を動かした。
「もう次の話か。……君は本当に、止まらないな」
「うん。でも、誰かが止めたら、たぶん止まる。あなたが止めてくれなかったら、私はずっと走り続けちゃうから」
彼はふっと笑って、ミリアの手を取った。
「じゃあ、止める代わりに、隣でついていく。つまずいたら、支えるから」
ミリアはその手を握り返し、澄んだ空を見上げた。
――どんなに不安でも、この人がいてくれるなら、大丈夫。
その思いが、彼女の胸に静かに根を下ろしていくのだった。
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