2 / 171
2
沈黙が、ゆっくりと室内に沈み込んでいった。埃に混じる冷気が、寝台の上のアデルの頬に触れる。
アデルは浅い息を整え、背筋をゆっくりと伸ばした。
腕の力はまだ心もとない。それでも、言葉を紡ぐ意思だけは揺るがない。
「……ここは?伯爵邸ではないですよね?」
声はかすれているのに、冷静だった。
怒りも嘆きも込めない、ただ事実を問う声音をしていた。
エドモンは視線を落とし、うめくように答えた。
「……ラナ村だ。領地の外れにある、空き家を借りている」
「ラナ村……」
アデルは呟き、わずかに眉を寄せた。
伯爵邸のある中心部より北に位置し、風が強く、土は痩せ、冬は厳しい村だ。
そこに、伯爵一家が住むなど――本来、あり得ない。アデルは表情を動かさず、もう一度問いを重ねる。
「お父様は…伯爵では…なくなったのですか?」
「……モーリス……私の弟が、モントレー伯爵家を継いだ」
エドモンはどこか申し訳なさそうに小さく縮こまった。
「…モーリス叔父さまが…?では、お父様は?」
「私は…モーリスが受け継いでいたドルン男爵になった。
……その、名ばかりの男爵だ。領地も屋敷も、もうない」
名だけの爵位。
名誉すら、残り香のように奪われている。
そこに、ソフィアが、なぜか明るくうなずく。
「ねぇアデル、『ドルン男爵』って響き、
ちょっと可愛いと思わない?」
「お母様。響きの話ではありません。
それにドルンの響きは全く可愛くありません」
アデルは、容赦なく母の発言を切り捨てた。
ソフィアはしゅんとし、隣でリセラが小声でつぶやいた。
「響きじゃ腹は膨れねぇっぺ……」
その辛辣さが、重たい空気をかすかに突き刺した。
アデルは視線を戻し、淡々と次の問いを投げた。
「……もう一度聞きますが…ルイは?
私の夫、ルイはどこに?」
エドモンとソフィアがびくりと肩を揺らす。
視線がそろって逸らされる。まるで見てはいけないものを避けるようだった。
その沈黙を破ったのは、リセラの鼻声混じりの訛りだった。
「ルイ様は……モントレー家に残ってんだっぺ」
「え?モントレー家に?」
アデルの視線が細くなる。
ドルン男爵家となったのは自分たちで、モントレー伯爵家は叔父のものになったはずだ。
「……なぜ、ルイが?」
ほんの一瞬。
アデルの瞳が揺れた。声には出さず、ただ揺れだけが真実を語った。
「だって……ルイ様は、もう、お嬢様の夫じゃねえから……!」
堪えきれず、リセラが声を張り上げた。
「ルイ様は、お嬢様の従妹……
リゼット様の旦那さんになっちまったんだあ!」
室内の空気が凍った。
アデルのまつ毛が、かすかに震える。
それでも彼女は取り乱さない。ただ、静かに息を吸う。
「……え?……」
リゼットーー。
あの俯いてばかりで、自信がなく、いつも遠慮ばかりしていた従妹が――ルイの妻になった?
ショックと驚きで喉が震えたが、ソフィアが慌ててアデルの両手を握りしめた。
「でもねアデル、事故のときルイってば、それは、それは、もうすごい大泣きだったのよ!
ぐしゅぐしゅよ!涙も鼻水も――」
「お母様、ひどいフォローです」
静かな声で即座に切られ、ソフィアはまた泣きそうになった。
アデルは淡々と続ける。
「……なぜ伯爵位も、夫も……すべて叔父夫妻に渡ったのですか?」
今度は誰も軽口を挟めなかった。
エドモンが苦い息を吐き、ゆっくりと語り始める。
「……三年前のことだ。お前が階段から落ち、眠り続けていた、あの年……」
その言葉に、空気が少し冷たく変化する。
「モントレー領は、大変な水害に遭った。
作物は腐り、備蓄も底をつき……
領民を飢えさせるしかないところまで、追い詰められていた」
水害――不作――飢え。
アデルの脳裏に、土壌を語り合った日々がかすめる。
「どうにかしなければ、と……そこへ、
外国の商人が現れた。“莫大な資金援助”を約束してな」
アデルの瞳が僅かに動く。
期待ではなく、疑念の色をしていた。
「その言葉を、信じたのですね…?」
「……信じたいほど、困窮していた」
その一言で、すべての苦さが足してしまうほどだった。
「だが、結果は欺かれた。援助は一部だけ……
残りは“追加資金”として、さらに借金となった。莫大な負債だ。返済できるはずもなかった」
エドモンは俯き、唇を噛みながら続けた。
「そこで、モーリスが現れたんだ。
領地経営も負債も肩代わりする、と。
その代わりに、モントレー伯爵の座を譲れ、と」
アデルの胸が、冷たくひび割れる。
エドモンはゆっくりと顔を上げ、続ける。
「……モーリスは、さらに条件を出した。お前の夫、ルイ殿を、リゼットの夫にすると」
静かに降ろされた言葉は、刃のようだった。ソフィアは泣き崩れ、リセラは怒りに歯を食いしばる。
アデルは、ほんのわずか目を閉じ、
それだけで涙を拒否した。
――それでも。
胸の奥の火は消えていなかった。
なぜモーリスは、荒れた土地を欲したのか。
なぜ外国商人は、伯爵家を狙ったのか。
なぜルイは、リゼットを選んだのか。
答えは、まだどこにもない。
アデルはそっと、瞼を上げた。
「……お父様、お母様。私は、やるべきことがあります」
その静かな宣言に、リセラが目を丸くする。
「リセラ、身体を貸して。行きたい所……
ううん、行かなければならない所があるの」
リセラは涙を吹き飛ばすように鼻をすすり、勢いよくうなずいた。
「貸すどころじゃねぇです!押してでも引きずってでも、お嬢様の行きたい所に連れていくっぺ!」
その声に、ソフィアがぱぁっと笑みを取り戻す。
「まぁ!頼もしいわ、さすがリセラ!」
「お母様、褒めてる場所が違いますよ」
アデルはかすかに、ほんのかすかに口元を緩めた。
――その笑みは、戦う前の人間が浮かべる、静かな笑みだった。
アデルは浅い息を整え、背筋をゆっくりと伸ばした。
腕の力はまだ心もとない。それでも、言葉を紡ぐ意思だけは揺るがない。
「……ここは?伯爵邸ではないですよね?」
声はかすれているのに、冷静だった。
怒りも嘆きも込めない、ただ事実を問う声音をしていた。
エドモンは視線を落とし、うめくように答えた。
「……ラナ村だ。領地の外れにある、空き家を借りている」
「ラナ村……」
アデルは呟き、わずかに眉を寄せた。
伯爵邸のある中心部より北に位置し、風が強く、土は痩せ、冬は厳しい村だ。
そこに、伯爵一家が住むなど――本来、あり得ない。アデルは表情を動かさず、もう一度問いを重ねる。
「お父様は…伯爵では…なくなったのですか?」
「……モーリス……私の弟が、モントレー伯爵家を継いだ」
エドモンはどこか申し訳なさそうに小さく縮こまった。
「…モーリス叔父さまが…?では、お父様は?」
「私は…モーリスが受け継いでいたドルン男爵になった。
……その、名ばかりの男爵だ。領地も屋敷も、もうない」
名だけの爵位。
名誉すら、残り香のように奪われている。
そこに、ソフィアが、なぜか明るくうなずく。
「ねぇアデル、『ドルン男爵』って響き、
ちょっと可愛いと思わない?」
「お母様。響きの話ではありません。
それにドルンの響きは全く可愛くありません」
アデルは、容赦なく母の発言を切り捨てた。
ソフィアはしゅんとし、隣でリセラが小声でつぶやいた。
「響きじゃ腹は膨れねぇっぺ……」
その辛辣さが、重たい空気をかすかに突き刺した。
アデルは視線を戻し、淡々と次の問いを投げた。
「……もう一度聞きますが…ルイは?
私の夫、ルイはどこに?」
エドモンとソフィアがびくりと肩を揺らす。
視線がそろって逸らされる。まるで見てはいけないものを避けるようだった。
その沈黙を破ったのは、リセラの鼻声混じりの訛りだった。
「ルイ様は……モントレー家に残ってんだっぺ」
「え?モントレー家に?」
アデルの視線が細くなる。
ドルン男爵家となったのは自分たちで、モントレー伯爵家は叔父のものになったはずだ。
「……なぜ、ルイが?」
ほんの一瞬。
アデルの瞳が揺れた。声には出さず、ただ揺れだけが真実を語った。
「だって……ルイ様は、もう、お嬢様の夫じゃねえから……!」
堪えきれず、リセラが声を張り上げた。
「ルイ様は、お嬢様の従妹……
リゼット様の旦那さんになっちまったんだあ!」
室内の空気が凍った。
アデルのまつ毛が、かすかに震える。
それでも彼女は取り乱さない。ただ、静かに息を吸う。
「……え?……」
リゼットーー。
あの俯いてばかりで、自信がなく、いつも遠慮ばかりしていた従妹が――ルイの妻になった?
ショックと驚きで喉が震えたが、ソフィアが慌ててアデルの両手を握りしめた。
「でもねアデル、事故のときルイってば、それは、それは、もうすごい大泣きだったのよ!
ぐしゅぐしゅよ!涙も鼻水も――」
「お母様、ひどいフォローです」
静かな声で即座に切られ、ソフィアはまた泣きそうになった。
アデルは淡々と続ける。
「……なぜ伯爵位も、夫も……すべて叔父夫妻に渡ったのですか?」
今度は誰も軽口を挟めなかった。
エドモンが苦い息を吐き、ゆっくりと語り始める。
「……三年前のことだ。お前が階段から落ち、眠り続けていた、あの年……」
その言葉に、空気が少し冷たく変化する。
「モントレー領は、大変な水害に遭った。
作物は腐り、備蓄も底をつき……
領民を飢えさせるしかないところまで、追い詰められていた」
水害――不作――飢え。
アデルの脳裏に、土壌を語り合った日々がかすめる。
「どうにかしなければ、と……そこへ、
外国の商人が現れた。“莫大な資金援助”を約束してな」
アデルの瞳が僅かに動く。
期待ではなく、疑念の色をしていた。
「その言葉を、信じたのですね…?」
「……信じたいほど、困窮していた」
その一言で、すべての苦さが足してしまうほどだった。
「だが、結果は欺かれた。援助は一部だけ……
残りは“追加資金”として、さらに借金となった。莫大な負債だ。返済できるはずもなかった」
エドモンは俯き、唇を噛みながら続けた。
「そこで、モーリスが現れたんだ。
領地経営も負債も肩代わりする、と。
その代わりに、モントレー伯爵の座を譲れ、と」
アデルの胸が、冷たくひび割れる。
エドモンはゆっくりと顔を上げ、続ける。
「……モーリスは、さらに条件を出した。お前の夫、ルイ殿を、リゼットの夫にすると」
静かに降ろされた言葉は、刃のようだった。ソフィアは泣き崩れ、リセラは怒りに歯を食いしばる。
アデルは、ほんのわずか目を閉じ、
それだけで涙を拒否した。
――それでも。
胸の奥の火は消えていなかった。
なぜモーリスは、荒れた土地を欲したのか。
なぜ外国商人は、伯爵家を狙ったのか。
なぜルイは、リゼットを選んだのか。
答えは、まだどこにもない。
アデルはそっと、瞼を上げた。
「……お父様、お母様。私は、やるべきことがあります」
その静かな宣言に、リセラが目を丸くする。
「リセラ、身体を貸して。行きたい所……
ううん、行かなければならない所があるの」
リセラは涙を吹き飛ばすように鼻をすすり、勢いよくうなずいた。
「貸すどころじゃねぇです!押してでも引きずってでも、お嬢様の行きたい所に連れていくっぺ!」
その声に、ソフィアがぱぁっと笑みを取り戻す。
「まぁ!頼もしいわ、さすがリセラ!」
「お母様、褒めてる場所が違いますよ」
アデルはかすかに、ほんのかすかに口元を緩めた。
――その笑みは、戦う前の人間が浮かべる、静かな笑みだった。
あなたにおすすめの小説
セレスティアの日記~死を迎えるまで姉を慕い続けた妹~
クロユキ
恋愛
子爵家には仲の良い姉妹がいた。
姉のラティアと妹のセレスティアは女の子らしくいつも一緒に遊んでいた。
姉は幼い頃から怖がりで夜はいつも泣いていた。
そんな姉を見ていたセレスティアは姉を怖いモノから守る騎士になると幼い頃から約束をした。
切なく儚い妹セレスティアの叶わない想いの話。
誤字脱字があります。
更新が不定期です。よろしくお願いします。
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
あなたの隣に私は必要ですか?
らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。
しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。
そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。
月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。
そんな状況で、アリーシアは思う。
私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。
* 短編です。4/4に完結します。
ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
真実の愛の裏側
藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。
男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――?
※ 他サイトにも投稿しています。
三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで
狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。
一度目は信じた。
二度目は耐えた。
三度目は――すべてを失った。
そして私は、屋上から身を投げた。
……はずだった。
目を覚ますと、そこは過去。
すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。
――四度目の人生。
これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、
同じように裏切られ、すべてを失ってきた。
だから今度は、もう決めている。
「もう、陸翔はいらない」
愛していた。
けれど、もう疲れた。
今度こそ――
自分を守るために、家族を守るために、
私は、自分から手を放す。
これは、三度裏切られた女が、
四度目の人生で「選び直す」物語。
ベールを上げた新郎は『君じゃない』と叫んだ
ハートリオ
恋愛
結婚式で新郎に『君じゃない』と叫ばれたのはウィオラ。
スピーナ子爵家の次女。
どうやら新郎が結婚する積りだったのは姉のリリウム。
ウィオラはいつも『じゃない方』
認められない、
選ばれない…
そんなウィオラは――
中世ヨーロッパ風異世界でのお話です。
よろしくお願いします。
【完結】愛する人のために
月樹《つき》
恋愛
カスペル公爵令嬢デルフィーヌは、幼い頃その愛くるしい笑顔に一目惚れしたクリストファー王子に請われ、彼の婚約者となった。
けれど王子妃としての厳しい教育を受けるうちに、彼が好きだった笑顔は滅多に見られなくなり…気がつけば彼の側には、デルフィーヌではなく屈託なく笑う平民の聖女アネモネの姿を見かけるようになる…。
『あなたのために、私は無邪気な笑顔もなくしたのに…』
このお話は愛する誰かのために生きる人達のお話です。
三部仕立てで、お話はそれぞれの視点で描かれております。
※他サイトでも投稿しております。