奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 結婚後、アデルは父エドモンの執務を半分引き受けるようになった。

 書類整理、領地の収支、農地の改良案――
 やるべきことは山ほどあったが、
 アデルはそのどれもが楽しくて仕方がなかった。

 なぜなら、その隣にはいつもルイがいてくれたからだ。

「アデル、ここはこう区切ると効率が上がるよ」

 ルイは柔らかな声で助言を送り、
 アデルの書いた案に赤ペンを走らせながら、
 常に最良の方法を提示してくれた。

 学園主席は伊達ではない。
 知識も整然としていて、領民の訴えにも耳が早く、アデルの夢だった土壌改良の計画も、ルイの人脈と助言のおかげで確かな形になり始めていた。

 アデルは心の底から感謝し、自然と頬がゆるんだ。

「ルイ、本当にありがとう。……あなたがいてくれてよかった」

「僕だって同じだよ。アデルとなら、どんな仕事でも楽しくなる」

 言葉を交わすたび、ふたりの距離は自然と近づいてしまう。

 気づけば肩が触れ合い、
 書類の上でそっと指先が重なる。

 触れただけで、胸の奥があたたかくなる。そんな“夫婦になった実感”が、ふたりの間に静かに満ちていた。

「最近、ずっと忙しいから……
落ち着いたら、ふたりでゆっくりしたいな」

 書類を揃えながら、ルイが柔らかくアデルに微笑みかける。

「そうね。領地の視察がてら、小旅行でもどうかしら?」

「ふふっ、君らしいな。仕事も休暇も、一緒に効率よく楽しもうとするところ、好きだよ」

 その言い方があまりにも自然で、アデルは思わず頬を熱くした。

「ご、ごめんなさい……。
せっかくの旅行なのに、つい“効率”を重視してしまって…ちゃんと分けないとダメよね……?」

「え?」
 ルイは目を瞬かせ、それから首をゆっくり横に振った。

「謝ることなんてないさ。アデルらしいと思って、ちょっと笑っただけだよ。
僕は……そういうところも大好きだ」

 突然の“好き”の直球に、アデルは胸の鼓動が跳ねるのを隠せなかった。

「ルイ……本当に、ありがとう。必ず……一緒に行きましょうね」

「もちろん。約束だよ」

 ふたりは指を絡め、静かに、小さく、確かに手を握り合ったあと、そっと唇を重ねた。

 忙しいのに、心はずっと満たされていた。

 そんな“ふたりで作る何気ない幸福”が、
これからも永く続くと、アデルは疑いもしなかった。


***

 だが――
 その温かな日常を、ほんの少しだけ乱す影があった。

 ある日、執務室でアデルとルイが書類に向かっていると、玄関から大きな笑い声が響いてきた。

「いやぁ、兄さん!来てやったぞ!」
「今日はゆっくりお話をしようと思ってねぇ、ソフィア義姉さま」

 それはモーリスとその妻ヴァレリアだった。

 アデルが迎えに行く前に、夫婦はずんずんと屋敷の奥へ入り込み、エドモンの執務室へまっすぐ進んでいく。

「今日はまた大賑わいだな……」
 と、ルイが小さく苦笑する。

 アデルも同じように笑って、
「きっとお父様に用事があるのね」と軽く考えた。

 廊下の向こうでは、モーリスの大きな声が遠慮なく響いていた。

「兄さん、そんなに金を出して大丈夫なのか?
領地の収益は去年より落ちてるはずだろう」

「お父様の判断には間違いがありませんよ」
 とアデルが言うと、モーリスは皮肉っぽく笑った。アデルを一瞥しただけで、

「まぁ、ルイ君がいるなら安心か!
兄さん、昔より判断が甘くなったんじゃないかと思ってねぇ?」

 ヴァレリアはヴァレリアで、ソフィア夫人に向かってため息をつく。

「この屋敷も随分古くて……修繕費、莫大にかかるんじゃありませんこと?地味な上にパッとしないわ」

 ふたりの言葉は、表向きは心配そうで、
 しかしどこか“探っている”ように聞こえた。

 エドモンは穏やかにかわしていたが、アデルは胸の奥がほんの少しざわついた。

 ルイがそっとアデルの肩に触れて、柔らかな声で囁く。

「大丈夫。僕たちは僕たちのやるべきことをしよう。アデルの計画は間違ってないよ」

 その言葉に、アデルは小さな不安なんて吹き飛ぶほど安心した。

 ルイがそばにいてくれる。
 父も母もいる。領地の未来へ向かって歩いている。

 領地はこれから繁栄し、皆が幸せに向かって歩むのだと――心から信じていた。


***

 そんなある日の午後。
 執務室で作業していると、扉の向こうから軽いノックが響いた。

「お嬢様ぁ!リゼット様が来てっだよ!!」

 扉越しにリセラが声をかけた。

「まあ、リゼットが? 」

 アデルは顔を輝かせた。
 一方ルイは、書類の束を整えながら顔を上げる。

「……すまない。せっかくリゼット嬢が来てくれたのに…僕は急ぎでダンベール子爵家に行かなくてはならなくて。父からの呼び出しなんだ」

「ええ、いってらっしゃい。終わった頃に、また三人でお茶しましょう?」

「ああ、そうしよう」

 ルイは穏やかに微笑み、アデルの頬にそっと手を添えたのち、執務室を出て行った。

 アデルは胸を弾ませ、玄関ホールへ急いだ。

 玄関ホールでは、リゼットがいつになく顔色が悪く。神妙な顔で立っていた。

「アデルお姉さま……急に押しかけてしまって、ごめんなさい」

「謝ることないわ。久しぶりで嬉しいくらいだけれど…何かあった?」

 アデルは心配しながら歩み寄る。

「顔色が悪いわ……どうしたの?」

「少し……家族のことで、相談があって……
お姉様に関わる重大なことが…」

「応接室に行きましょう。ルイもすぐ戻ってくるはずよ」

 アデルは自然と、“応接室へ続く広い回廊”へリゼットを案内した。

 そのすぐ先には──本来なら封鎖されているはずの改装中の階段がある。

 今日に限って、布は資材搬入のため外され、段差がむき出しになっていた。アデルは気づいていなかった。

 歩きかけたその瞬間。

 すぐ後ろで、リゼットがためらいの息と、啜り泣くような小さな気配がした。

「……お姉さま」
 
 その瞬間──
 足の裏に、ほんのわずかな“沈むような感覚”が走った。

「え……?」

 アデルが違和感を確かめる間もなく、彼女の体重はほんの一歩、階段側へ寄った。

 続いたのは、紙一重のバランスの崩れ。

「アデルお姉さま?!」

 リゼットの声が響いた。だが、もう遅かった。

「きゃーっ!」

 視界が揺れる。
 階段の縁が迫る。
 石造りの段が目の前に迫った。

──がん。

 頭を打つ鈍い衝撃が、世界を暗く染めた。

「お、お姉さまっ……!」

 震える声。
 泣きそうな気配。
 優しいとも、混乱ともつかない響き。

「……ごめんなさい……」

 アデルは、その言葉の意味を理解する前に意識を手放した。

 こうして、アデルは三年間の眠りについた。



 

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