奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 クロードの事務所を後にし、アデルとリセラは複雑な気持ちを抱えたまま、ラナ村へ戻るため乗り合い馬車の停留所へ向かっていた。

 午後の街道は人通りが多く、荷馬車の音、商人の呼び声、焼き菓子の香り──
 活気に満ちているはずなのに、アデルの胸の中は重かった。

(叔父様……そして家に起きたこと……
 本当に、全部何かの陰謀なの……?)

 不安が胸の奥で渦を巻く。

 ーーその時だった。

 急ぎ足で駆けてきた中年男が、周囲など気にせずアデルの肩に思い切りぶつかった。

「きゃっ!」

 アデルの足元が大きく揺れ、バランスを崩した身体は道へ投げ出された。
 視界の端、馬車が勢いよく迫ってくる。

(……避けられない──!)

「お嬢様ぁぁ!!」

 リセラの叫びが耳を裂いた、その瞬間ー。

 強く、熱い何かがアデルの身体を抱き寄せ、一息で後方へ引き上げた。

 轟音を立てて馬車が通過し、土埃が舞い上がる。

「アデル姉さん!!」

 低く、しかし震えている声。
 アデルは腕の中で瞬きをし、抱き寄せる人物を見上げた。

 筋肉のついた逞しい腕。
 少年の面影を微かに残しつつも、精悍に引き締まった端正な顔立ち。

 外で鍛えられた証のような浅い傷。
 短く切り揃えられた金髪。

 ──幼い頃、リゼットの影に隠れていた臆病な少年の姿は、どこにもない。

「……ロイク……?」

 青年の肩がびくりと震えた。

「アデル姉さん……本当に……生きて……!」

 絞り出すような声で、ロイクはアデルの手を強く握る。その目には、大粒の涙が今にも溢れそうに光っていた。

「……ロ…ロイクよね…?」
「アデル姉さん、怪我はない?!」
 ロイクは瞳を揺らしながら、アデルを支えていた身体を離した。

 従弟の成長ぶりにアデルは戸惑いながら言葉を発する。

「あなたのおかげで大丈夫。ありがとう」

「ああ、良かった。本当に危なかった。あのぶつかった野郎!今度見かけたら、引っ捕まえてやる!!」

 怒りに震える瞳で男が消えた方角をロイクは睨み続ける。

「アデル姉さん、あの野郎の特徴を覚えてる?俺、騎士団にいるから、引っ捕まえるのは得意なんだ」

 ロイクはアデルに視線を戻す。
 アデルは驚きで目を開いている。久しぶりに再開したロイクに驚きが隠せずにいた。

「あ、俺、一人でベラベラと話してたな…ごめん…。そういえば、姉さんはどうして街に……?」

 アデルが答えるより早く、リセラが腰に手を当てて怒鳴った。

「お嬢様の財産調べに銀行行ったんだべ!
現・伯爵さまがやらかしたせいで、お嬢様が困っとるのよ!!」

 ロイクの顔色がさっと青ざめる。

 それは、両親──モーリス夫妻の所業を心のどこかで予感していたからだ。

「……ご、ごめん……俺の家が…………!」

 罪悪感に飲まれ、ロイクの喉が震えた。
 アデルはそっと、彼の肩に触れる。

「ロイク……あなたは関係ないわ。
十五歳で家を出て、ずっと騎士団で頑張ってきたのでしょう?あなたのせいじゃない」

 その優しい声に、ロイクの表情が崩れた。

 実家を嫌い、縁を切り、騎士団で身一つで生きてきた。

 アデルの事故から、ロイクの知らないところで、実家が、モントレーになっていた。
 その事実に、アデルを守れなかった無力感だけが、ずっと胸に残っていた。

「姉さん……守れなかった俺を……そんなふうに……許してくれるのか……?」

 その問いに、アデルは迷わず頷いた。

「ロイク。あなたは……私の大切な従弟よ。
恥じるべきところなんて、どこにもないわ」

 言葉の温度が、ロイクの胸の奥まで染み渡る。ロイクは堪えきれず、涙をぼろぼろとこぼした。

「……っ、姉さん……!!」

 アデルはそっと抱き寄せた。

 ──かつてはアデルの背に隠れるほど小さく、怯えがちな少年だったロイク。

 今は、誰かを救える力を持つ青年になっていた。

 アデルはその成長の重さと、再会の奇跡に胸を震わせずにはいられなかった。

 ロイクは、まだ何か言いたそうに口を開きかけていた。
 けれど、街道の先を見れば、日が傾き始めている。

「……私たち、そろそろ行かないと」

 アデルが名残惜しそうに告げると、ロイクは唇を噛みしめた。

「……わかった」

「私、クロード・ベルヌー先生の事務所で働くことになったの。だから、何かあったら、そこに連絡して」

 そう伝えると、ロイクは端正な顔をきゅっと歪めた。

「……アデル姉さんが、働かなきゃいけないなんて……」

 その声には、悔しさと心配が滲んでいた。

 アデルは一瞬だけ目を伏せ、それから、いつものように柔らかく笑った。

「働くこと自体は、慣れているわ。伯爵家の執務もしていたもの」

 そして、少しだけ肩をすくめる。

「ただ……三年間も寝たきりだったのは、さすがに想定外だったけどね」

 その軽い言い方に、リセラがすかさず口を挟む。

「んだ、んだ!伯爵家はなぁ、“働かざる者食うべからず”だったからなぁ!」

 がははは、と豪快に笑うリセラにつられて、アデルも声を上げて笑った。

 ロイクも、つられて小さく笑ったが、胸の奥では複雑な気持ちが渦巻いていた。





 帰りの馬車の中、揺れる車輪の音だけが続いていた。

 しばらく沈黙が流れたあと、リセラがぽつりと、いつになく神妙な声で言った。

「……なぁ、お嬢様」

「なあに?」

「メガネ先生……なんか、抱えてるもんがありそうだったな」

 アデルは窓の外に視線を向けたまま、小さく頷く。

「そうね。人の痛みを、ちゃんと知っている顔だったわ」

 それ以上、二人は多くを語らなかった。

 やがて馬車はラナ村に到着し、今の住まいの前で止まった。

 崩れかけた石壁、歪んだ屋根。
 小さな一軒家。

 夫妻の寝室、居間、台所、アデルの部屋、そして屋根裏──リセラの部屋。

 とても“元伯爵家”が住むとは思えない家だったが、そこには、確かな生活の匂いがあった。

「まあ、お二人とも、おかえりなさい」

 迎えに出てきたソフィアは、裏庭で畑仕事をしていたらしく、泥だらけだった。

「奥様、畑仕事、代わるから休んでけろ」

 リセラがすぐに声をかける。

「ありがとう。でも、私の分はもう終わったの。旦那様のほうに手を貸してくれる?」

 視線の先では、エドモンが鍬を握り、黙々と土を耕していた。

 リセラは頷き、急いで交代する。

 しばらくして、泥だらけのままエドモンが戻ってくる。

「街まで、大丈夫だったか?」

 心配そうな眼差しに、アデルは頷いた。

「ええ。リセラのおかげで何とか。銀行にも、無事に行けました」

 そして、少しだけ姿勢を正す。

「……それで、お父様、お母様。大事なお話があります」

 その真剣な眼差しに、エドモンもソフィアも、思わず息を飲んだ。

 アデルは、銀行で起きたこと、
 クロード・ベルヌーとの出会い、
 そして──彼の事務所で働くことになった経緯を、一つひとつ、丁寧に語った。

 話し終えたあと、静かな沈黙が落ちる。
 エドモンとソフィアは顔を見合わせ、やがて、ゆっくりと頷いた。

 アデルは胸の奥で、静かに思った。

(ここからが、本当の始まりだわ)

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