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それから数日後。
アデルとリセラは、ラナ村の家で静かに荷物をまとめていた。といっても、木箱に収まるほどの量しかない。
替えの衣服。
書きかけの帳簿。
そして、アデルが目覚めてから手放さずにいた小さな祈祷書。
「……本当に、少ないわね」
アデルが苦笑すると、リセラは肩をすくめた。
「身軽なのは悪くねぇべ。逃げるにも、働くにもな」
家の外では、エドモンとソフィアが並んで待っていた。
二人とも、どうしても隠しきれない不安を目に浮かべている。
「アデル……」
エドモンは、帽子を強く握りしめた。
「私が……不甲斐ないばかりに……」
「お父様」
アデルは一歩前に出て、首を振った。
「そんなこと、思わないでください。
私が働くのは、昔から慣れていることですもの」
わざと明るく言うと、ソフィアが涙をこぼしながら微笑んだ。
「……本当に、強い子ね」
リセラが胸を張って割り込む。
「心配いらねぇです!この命に代えてでも、お嬢様は守り通しますから!」
その勢いに、アデルは思わず吹き出した。
「……それ、なんだかプロポーズみたいな台詞ね」
「えっ?!」
「な、なんでそうなるだぁ!?」
三人の笑い声に、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「……リセラがそこまで言うなら」
エドモンは、覚悟を決めたように頷いた。
「どうか、身体だけは大切にしなさい」
「はい。お父様も、お母様も」
アデルは深く頭を下げ、振り返らずに歩き出した。
この家に戻る日を、必ず迎えるために。
***
ベルヌー法律事務所に着いたのは、昼前だった。
「……あれ?」
扉を開けると、事務所は静まり返っている。
「先生は?」
応接机の向こうから、すっと立ち上がった青年が答えた。
「本日は裁判です。午前から出ておられます」
背筋の伸びた姿勢。
濃い茶色の髪をきちんと撫でつけ、眼鏡の奥の瞳は真面目そのもの。
年は二十代半ばほどだろうか。
「僕はマティアス。ベルヌー先生の助手です」
無駄のない一礼。
(……真面目そうな方だわ)
アデルがそう感じたのと同時に、マティアスは淡々と続けた。
「屋根裏の部屋をお貸しすると聞いています。正式な居室とは言えませんから、家賃は不要です」
「屋根裏……?」
「元は倉庫です。ただ、広さはあります。仕切りを使えば、二部屋にできます」
そう言って、建物の奥へ案内する。
──一階は法律事務所。
二階は、貸本屋兼古本屋だった。
階段を上がった瞬間、紙とインク、そして長い年月の匂いが鼻をくすぐる。
壁一面に並ぶ本棚は、天井まで届きそうなほど高く、背表紙の色は褪せ、角は丸くなっている。
店番をしているのは、白髪の老人だった。
背は低いが、背筋は意外なほどしゃんとしている。丸眼鏡の奥の目は鋭く、こちらを値踏みするように一瞬だけ細めた。
「……新しい顔じゃな」
しわがれた声でそう言い、老人は小さく顎をしゃくった。
「ここは本を貸す店じゃが、“ただの本”だけを置いとるわけじゃない」
棚の一角には、明らかに扱いが違う書類がまとめられていた。
革紐で束ねられた新聞の切り抜き。
年代ごとに整理され、端には小さな走り書きがある。
「新聞記事……?」
アデルが尋ねると、老人は鼻で笑った。
「世間は忘れたがる。じゃが、紙は嘘をつかん」
別の棚には、分厚い帳面が何冊も並んでいる。
背には《裁判記録》《判例抄》《係争一覧》といった文字。
「……裁判の記録まで?」
「ベルヌー先生がな、よく使う。過去の裁きは、今の嘘を暴く鍵になるからの」
さらに奥に進むと一見、装丁の立派な歴史書のように見える一冊があった。
それを引き抜くと、中身はびっしりと名前が並んだ名簿だった。
「これは?」
「貴族名鑑じゃ」
老人は淡々と答える。
「爵位、家系、婚姻関係、没落、改名……全部、書いとる。貴族というのはの、肩書きより“繋がり”が肝心じゃからな」
アデルは、思わず背筋が伸びるのを感じた。
──新聞は、世の目。
──裁判記録は、真実の積み重ね。
──貴族名鑑は、血と利害の地図。
この二階は、ただの古本屋ではない。
「……ここは」
アデルがゆっくりと呟く。
「情報の宝庫、ということですね」
老人は、にやりと笑った。
「よう分かっとる。じゃから、勝手に触るな。だが──必要なら、聞きに来い」
その言葉に、リセラが小さく息を吐いた。
「……こりゃ、えらいとこに住み込んじまったなぁ」
アデルは本棚を見上げながら、確信していた。
この場所が、失われた真実へ辿り着くための、最初の扉になるのだと。
三階は倉庫と、クロードの住居。
そして、その上にアデルとリセラが住むことになる屋根裏。
「今日は、まず掃除をしてください。掃除が終わる頃には、先生も戻るでしょう」
淡々とした説明のあと、マティアスはふと表情を変えた。
「……それと」
一つ咳払いをする。
「先生は……女性から非常に好意を向けられやすい方です。
ですが、少しでも不純な動機を感じると、依頼を即刻打ち切る」
「……?」
「相手が、どんな身分であろうと、です」
リセラが眉を吊り上げる。
「それ、今ここで言う必要あるかぁ?」
「必要です」
マティアスは即答した。
「……ただ、あなた方を見ている限り、そういった“女性的な下心”は感じませんが」
「……は?」
次の瞬間、リセラが前に出た。
「お前、上等な口きくなぁ?さては……メガネ先生に懸想してる類だっぺ?」
「なっ……!」
マティアスの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「そ、そそそ、そんなことは……!!」
──図星だった。
「リセラ」
アデルが静かに制した。
「失礼しました」
そして、アデルはマティアスを真っ直ぐ見据える。
「誤解なさらないでください。私たちは、恋だの愛だの言っていられる立場ではありません」
声は冷静で、はっきりしていた。
「生きるか、死ぬか。今はそれだけです」
マティアスは言葉に詰まる。
「……ご忠告は感謝します。その点については、どうぞご心配なく」
「んだ!んだ!おめえの思惑は何だかわかんねぇけどな!」
「こらっ、リセラっ、」
アデルの背後から舌を突き出すリセラを見て、マティアスは端正な顔を歪ませる。
「……ぐぬぬぬ……」
悔しそうに唇を噛むマティアス。
リセラは小さく笑った。
「こりゃ、面白い職場になりそうだべな」
アデルは、埃の舞う屋根裏を見上げながら思った。
(ここから……全部、立て直す)
この場所が、新しい戦いの拠点になる。
アデルとリセラは、ラナ村の家で静かに荷物をまとめていた。といっても、木箱に収まるほどの量しかない。
替えの衣服。
書きかけの帳簿。
そして、アデルが目覚めてから手放さずにいた小さな祈祷書。
「……本当に、少ないわね」
アデルが苦笑すると、リセラは肩をすくめた。
「身軽なのは悪くねぇべ。逃げるにも、働くにもな」
家の外では、エドモンとソフィアが並んで待っていた。
二人とも、どうしても隠しきれない不安を目に浮かべている。
「アデル……」
エドモンは、帽子を強く握りしめた。
「私が……不甲斐ないばかりに……」
「お父様」
アデルは一歩前に出て、首を振った。
「そんなこと、思わないでください。
私が働くのは、昔から慣れていることですもの」
わざと明るく言うと、ソフィアが涙をこぼしながら微笑んだ。
「……本当に、強い子ね」
リセラが胸を張って割り込む。
「心配いらねぇです!この命に代えてでも、お嬢様は守り通しますから!」
その勢いに、アデルは思わず吹き出した。
「……それ、なんだかプロポーズみたいな台詞ね」
「えっ?!」
「な、なんでそうなるだぁ!?」
三人の笑い声に、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「……リセラがそこまで言うなら」
エドモンは、覚悟を決めたように頷いた。
「どうか、身体だけは大切にしなさい」
「はい。お父様も、お母様も」
アデルは深く頭を下げ、振り返らずに歩き出した。
この家に戻る日を、必ず迎えるために。
***
ベルヌー法律事務所に着いたのは、昼前だった。
「……あれ?」
扉を開けると、事務所は静まり返っている。
「先生は?」
応接机の向こうから、すっと立ち上がった青年が答えた。
「本日は裁判です。午前から出ておられます」
背筋の伸びた姿勢。
濃い茶色の髪をきちんと撫でつけ、眼鏡の奥の瞳は真面目そのもの。
年は二十代半ばほどだろうか。
「僕はマティアス。ベルヌー先生の助手です」
無駄のない一礼。
(……真面目そうな方だわ)
アデルがそう感じたのと同時に、マティアスは淡々と続けた。
「屋根裏の部屋をお貸しすると聞いています。正式な居室とは言えませんから、家賃は不要です」
「屋根裏……?」
「元は倉庫です。ただ、広さはあります。仕切りを使えば、二部屋にできます」
そう言って、建物の奥へ案内する。
──一階は法律事務所。
二階は、貸本屋兼古本屋だった。
階段を上がった瞬間、紙とインク、そして長い年月の匂いが鼻をくすぐる。
壁一面に並ぶ本棚は、天井まで届きそうなほど高く、背表紙の色は褪せ、角は丸くなっている。
店番をしているのは、白髪の老人だった。
背は低いが、背筋は意外なほどしゃんとしている。丸眼鏡の奥の目は鋭く、こちらを値踏みするように一瞬だけ細めた。
「……新しい顔じゃな」
しわがれた声でそう言い、老人は小さく顎をしゃくった。
「ここは本を貸す店じゃが、“ただの本”だけを置いとるわけじゃない」
棚の一角には、明らかに扱いが違う書類がまとめられていた。
革紐で束ねられた新聞の切り抜き。
年代ごとに整理され、端には小さな走り書きがある。
「新聞記事……?」
アデルが尋ねると、老人は鼻で笑った。
「世間は忘れたがる。じゃが、紙は嘘をつかん」
別の棚には、分厚い帳面が何冊も並んでいる。
背には《裁判記録》《判例抄》《係争一覧》といった文字。
「……裁判の記録まで?」
「ベルヌー先生がな、よく使う。過去の裁きは、今の嘘を暴く鍵になるからの」
さらに奥に進むと一見、装丁の立派な歴史書のように見える一冊があった。
それを引き抜くと、中身はびっしりと名前が並んだ名簿だった。
「これは?」
「貴族名鑑じゃ」
老人は淡々と答える。
「爵位、家系、婚姻関係、没落、改名……全部、書いとる。貴族というのはの、肩書きより“繋がり”が肝心じゃからな」
アデルは、思わず背筋が伸びるのを感じた。
──新聞は、世の目。
──裁判記録は、真実の積み重ね。
──貴族名鑑は、血と利害の地図。
この二階は、ただの古本屋ではない。
「……ここは」
アデルがゆっくりと呟く。
「情報の宝庫、ということですね」
老人は、にやりと笑った。
「よう分かっとる。じゃから、勝手に触るな。だが──必要なら、聞きに来い」
その言葉に、リセラが小さく息を吐いた。
「……こりゃ、えらいとこに住み込んじまったなぁ」
アデルは本棚を見上げながら、確信していた。
この場所が、失われた真実へ辿り着くための、最初の扉になるのだと。
三階は倉庫と、クロードの住居。
そして、その上にアデルとリセラが住むことになる屋根裏。
「今日は、まず掃除をしてください。掃除が終わる頃には、先生も戻るでしょう」
淡々とした説明のあと、マティアスはふと表情を変えた。
「……それと」
一つ咳払いをする。
「先生は……女性から非常に好意を向けられやすい方です。
ですが、少しでも不純な動機を感じると、依頼を即刻打ち切る」
「……?」
「相手が、どんな身分であろうと、です」
リセラが眉を吊り上げる。
「それ、今ここで言う必要あるかぁ?」
「必要です」
マティアスは即答した。
「……ただ、あなた方を見ている限り、そういった“女性的な下心”は感じませんが」
「……は?」
次の瞬間、リセラが前に出た。
「お前、上等な口きくなぁ?さては……メガネ先生に懸想してる類だっぺ?」
「なっ……!」
マティアスの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「そ、そそそ、そんなことは……!!」
──図星だった。
「リセラ」
アデルが静かに制した。
「失礼しました」
そして、アデルはマティアスを真っ直ぐ見据える。
「誤解なさらないでください。私たちは、恋だの愛だの言っていられる立場ではありません」
声は冷静で、はっきりしていた。
「生きるか、死ぬか。今はそれだけです」
マティアスは言葉に詰まる。
「……ご忠告は感謝します。その点については、どうぞご心配なく」
「んだ!んだ!おめえの思惑は何だかわかんねぇけどな!」
「こらっ、リセラっ、」
アデルの背後から舌を突き出すリセラを見て、マティアスは端正な顔を歪ませる。
「……ぐぬぬぬ……」
悔しそうに唇を噛むマティアス。
リセラは小さく笑った。
「こりゃ、面白い職場になりそうだべな」
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