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午前の仕事がひと段落した頃。
アデルはマティアスに頼まれた過去の判例記事を借りるために、二階の古本屋へ足を運んだ。
階段を上がると、紙の匂いと、静かな空気が迎えてくる。
店の奥、いつものカウンターで、
白髪の老人が新聞を広げていた。
──あの、新聞だ。
アデルは一瞬、足を止めた。
「……あ」
老人は視線を上げず、低く呟く。
「お嬢さんの記事が出たのぉ…」
指先で、記事の見出しをとん、と叩く。
《三年の眠りから目覚めた元伯爵令嬢》
アデルの名前が、はっきりとそこにあった。
「……はい…。思ったより大きく取り上げられていて…」
そう言うと、老人はふん、と鼻を鳴らした。
「これくらい大きいと…反響も大きいだろう」
しわだらけの指が、紙面をなぞる。
「こういう記事はな、読む者より、“読まれたくない者”が反応する」
老人はようやく顔を上げ、丸眼鏡の奥から、じっとアデルを見据えた。
「……夜道には気をつけなされ。昔の名を引きずる者ほど、影に潜む」
それだけ言うと、新聞を畳み、いつもの無愛想な店主に戻ってしまった。
アデルは、背中にひやりとしたものを感じながら、判例記事を抱えて一階へと戻った。
*
事務所に戻ると、扉の前にひとりの男が立っていた。
くたびれた外套は何度も繕われた跡があり、年の頃は三十代半ば位と思われた。
帽子を胸に抱いたまま、行き交う人々を避けるように壁際に立ち、視線だけが落ち着きなく彷徨っている。
(……依頼人だわ)
アデルがそう感じるより早く、事務所の内側からマティアスが一歩前に出た。
「……失礼ですが。こちらが、ベルヌー法律事務所で……?」
男の声は低く、しかし掠れていた。
何度もこの言葉を頭の中で反芻してきたかのような調子だった。
「はい。そうですが──ご依頼ですか?」
マティアスの声音は事務的だが、冷たくはない。相手を値踏みするような視線もなく、ただ話を聞く者の姿勢だった。
男はほっと息を吐き、深く頭を下げた。
「お願いします……。どうか、助けてください」
その声は、はっきりと震えていた。
「地主に、土地を奪われそうなんです。……いえ、正確には……もう、奪われたことになっていて」
言葉を選びながら話す様子に、マティアスは状況の深刻さを悟る。
「分かりました。こちらへどうぞ」
余計な質問はしない。
まず座らせ、落ち着かせる。
それが、ベルヌー法律事務所の流儀だった。
応接室へ案内され、男はソファに浅く腰を下ろす。膝の上で帽子を握る手が、微かに震えている。
マティアスは差し出された書類を受け取り、ざっと目を通してから奥へ向かった。
「先生。土地契約のご相談です。……内容に、不審な点がありそうで」
クロードは顔を上げ、無言で書類を受け取る。紙の束に目を走らせ──数秒後、椅子を引いて立ち上がった。
(……クロード様が、すぐ動く案件)
アデルの胸が、わずかにざわつく。
それは、“単なる揉め事ではない”合図だった。
クロードは応接室へ入り、男の正面に立つ。
依頼人は椅子に浅く腰掛けたまま、何度も帽子を握り直していた。
「……名は?」
「ハロルド・クレインです。……街外れで、父の代から土地を守ってきました」
彼は一度、視線を落とし、意を決したように続ける。
「……笑われるかもしれませんが」
そう前置きしてから、語り出した。
「土地を、取られそうなんです。……正確には、もう“取られたことになっている”のです」
クロードは頷くだけで、口を挟まない。
促さず、遮らず、ただ聞く。
アデルはペンを走らせながら、男の声の揺れに耳を澄ませていた。
「半年前、投資話を持ちかけられました。小規模な開発で、危険はないと……」
書類は整っていた。
説明も丁寧だった。
何より──急がされなかった。
それが、最大の罠だった。
「昨日になって、突然です。『契約に基づき、土地を明け渡せ』と……」
男は、震える指で契約書を差し出した。
アデルはそれを受け取り、目を落とす。
──瞬間、背筋がひやりと冷えた。
(……似ている)
文章の構成。
条文の配置。
行間の取り方。
あまりにも、見覚えがある。
「……ここ」
思わず、声が漏れた。
「第三条の但し書き。……字体が、微妙に違う」
マティアスが身を乗り出す。
「本当だ……。ここだけ、行間が詰められている」
クロードは、静かに頷いた。
「後から差し込まれているな」
「そんな……!じゃあ、俺は……」
ハロルドの声が裏返る。
「騙された。だが──まだ負けてはいない」
クロードの声は低く、揺るがなかった。
「君の署名は本物だが、君が同意した内容ではない。──つまり、これは“詐欺”だ」
その言葉に、男の目に初めて光が戻る。
「……助かるんですか?」
「助ける」
即答だった。
その様子を見ながら、アデルは胸の奥で、確信に近いものを覚えていた。
(……これは、偶然じゃない)
自分の財産を奪ったやり方と、
この男の土地を奪うやり方。
あまりにも、似すぎていたのだった。
***
そして、その夜──。
街外れの高台に建つ、とある屋敷。
分厚いカーテンに遮られた書斎には、灯りがひとつだけ落とされていた。
机の上に広げられているのは、
新聞ではない。
正式な文書でもない。
簡潔にまとめられた報告書。
余計な装飾のない、事実だけを並べた紙束だった。
「……ベルヌー法律事務所が、噛んだようです」
抑えた声が、闇の中に落ちる。
報告を受けた人物は、椅子にもたれたまま、ゆっくりと頁をめくった。
「ふぅん……」
低く、どこか愉しげな声音。
指先が、ある一行で止まる。
「例の“元伯爵令嬢”のところか?」
「はい。依頼人は無名の地主ですが、書類の手口が……例の件と酷似しています」
沈黙。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
しばらくして、声が落ちてくる。
「……面白い」
感情は読めない。
だが、その一言には、確かな関心が滲んでいた。
「表に出てくるには、まだ早い。こちらが動けば、あちらも警戒する」
報告書が、静かに閉じられる。
「少し──様子を見よう」
それは、猶予ではない。
見逃しでもない。
「“芽”は、伸びるところまで伸ばさせろ。刈るのは……そのあとでいい」
淡々と告げられた言葉に、
部屋の空気が、さらに重く沈む。
誰の名も、まだ口にされない。
だが──確実に、狙いは定まっていた。
歯車は、きしりとも鳴らさず、
闇の中で噛み合いながら──
静かに、確実に、回り始めていた。
アデルはマティアスに頼まれた過去の判例記事を借りるために、二階の古本屋へ足を運んだ。
階段を上がると、紙の匂いと、静かな空気が迎えてくる。
店の奥、いつものカウンターで、
白髪の老人が新聞を広げていた。
──あの、新聞だ。
アデルは一瞬、足を止めた。
「……あ」
老人は視線を上げず、低く呟く。
「お嬢さんの記事が出たのぉ…」
指先で、記事の見出しをとん、と叩く。
《三年の眠りから目覚めた元伯爵令嬢》
アデルの名前が、はっきりとそこにあった。
「……はい…。思ったより大きく取り上げられていて…」
そう言うと、老人はふん、と鼻を鳴らした。
「これくらい大きいと…反響も大きいだろう」
しわだらけの指が、紙面をなぞる。
「こういう記事はな、読む者より、“読まれたくない者”が反応する」
老人はようやく顔を上げ、丸眼鏡の奥から、じっとアデルを見据えた。
「……夜道には気をつけなされ。昔の名を引きずる者ほど、影に潜む」
それだけ言うと、新聞を畳み、いつもの無愛想な店主に戻ってしまった。
アデルは、背中にひやりとしたものを感じながら、判例記事を抱えて一階へと戻った。
*
事務所に戻ると、扉の前にひとりの男が立っていた。
くたびれた外套は何度も繕われた跡があり、年の頃は三十代半ば位と思われた。
帽子を胸に抱いたまま、行き交う人々を避けるように壁際に立ち、視線だけが落ち着きなく彷徨っている。
(……依頼人だわ)
アデルがそう感じるより早く、事務所の内側からマティアスが一歩前に出た。
「……失礼ですが。こちらが、ベルヌー法律事務所で……?」
男の声は低く、しかし掠れていた。
何度もこの言葉を頭の中で反芻してきたかのような調子だった。
「はい。そうですが──ご依頼ですか?」
マティアスの声音は事務的だが、冷たくはない。相手を値踏みするような視線もなく、ただ話を聞く者の姿勢だった。
男はほっと息を吐き、深く頭を下げた。
「お願いします……。どうか、助けてください」
その声は、はっきりと震えていた。
「地主に、土地を奪われそうなんです。……いえ、正確には……もう、奪われたことになっていて」
言葉を選びながら話す様子に、マティアスは状況の深刻さを悟る。
「分かりました。こちらへどうぞ」
余計な質問はしない。
まず座らせ、落ち着かせる。
それが、ベルヌー法律事務所の流儀だった。
応接室へ案内され、男はソファに浅く腰を下ろす。膝の上で帽子を握る手が、微かに震えている。
マティアスは差し出された書類を受け取り、ざっと目を通してから奥へ向かった。
「先生。土地契約のご相談です。……内容に、不審な点がありそうで」
クロードは顔を上げ、無言で書類を受け取る。紙の束に目を走らせ──数秒後、椅子を引いて立ち上がった。
(……クロード様が、すぐ動く案件)
アデルの胸が、わずかにざわつく。
それは、“単なる揉め事ではない”合図だった。
クロードは応接室へ入り、男の正面に立つ。
依頼人は椅子に浅く腰掛けたまま、何度も帽子を握り直していた。
「……名は?」
「ハロルド・クレインです。……街外れで、父の代から土地を守ってきました」
彼は一度、視線を落とし、意を決したように続ける。
「……笑われるかもしれませんが」
そう前置きしてから、語り出した。
「土地を、取られそうなんです。……正確には、もう“取られたことになっている”のです」
クロードは頷くだけで、口を挟まない。
促さず、遮らず、ただ聞く。
アデルはペンを走らせながら、男の声の揺れに耳を澄ませていた。
「半年前、投資話を持ちかけられました。小規模な開発で、危険はないと……」
書類は整っていた。
説明も丁寧だった。
何より──急がされなかった。
それが、最大の罠だった。
「昨日になって、突然です。『契約に基づき、土地を明け渡せ』と……」
男は、震える指で契約書を差し出した。
アデルはそれを受け取り、目を落とす。
──瞬間、背筋がひやりと冷えた。
(……似ている)
文章の構成。
条文の配置。
行間の取り方。
あまりにも、見覚えがある。
「……ここ」
思わず、声が漏れた。
「第三条の但し書き。……字体が、微妙に違う」
マティアスが身を乗り出す。
「本当だ……。ここだけ、行間が詰められている」
クロードは、静かに頷いた。
「後から差し込まれているな」
「そんな……!じゃあ、俺は……」
ハロルドの声が裏返る。
「騙された。だが──まだ負けてはいない」
クロードの声は低く、揺るがなかった。
「君の署名は本物だが、君が同意した内容ではない。──つまり、これは“詐欺”だ」
その言葉に、男の目に初めて光が戻る。
「……助かるんですか?」
「助ける」
即答だった。
その様子を見ながら、アデルは胸の奥で、確信に近いものを覚えていた。
(……これは、偶然じゃない)
自分の財産を奪ったやり方と、
この男の土地を奪うやり方。
あまりにも、似すぎていたのだった。
***
そして、その夜──。
街外れの高台に建つ、とある屋敷。
分厚いカーテンに遮られた書斎には、灯りがひとつだけ落とされていた。
机の上に広げられているのは、
新聞ではない。
正式な文書でもない。
簡潔にまとめられた報告書。
余計な装飾のない、事実だけを並べた紙束だった。
「……ベルヌー法律事務所が、噛んだようです」
抑えた声が、闇の中に落ちる。
報告を受けた人物は、椅子にもたれたまま、ゆっくりと頁をめくった。
「ふぅん……」
低く、どこか愉しげな声音。
指先が、ある一行で止まる。
「例の“元伯爵令嬢”のところか?」
「はい。依頼人は無名の地主ですが、書類の手口が……例の件と酷似しています」
沈黙。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
しばらくして、声が落ちてくる。
「……面白い」
感情は読めない。
だが、その一言には、確かな関心が滲んでいた。
「表に出てくるには、まだ早い。こちらが動けば、あちらも警戒する」
報告書が、静かに閉じられる。
「少し──様子を見よう」
それは、猶予ではない。
見逃しでもない。
「“芽”は、伸びるところまで伸ばさせろ。刈るのは……そのあとでいい」
淡々と告げられた言葉に、
部屋の空気が、さらに重く沈む。
誰の名も、まだ口にされない。
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