奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 事務所の扉が、控えめにノックされた。

 リセラが応対に出ると、そこに立っていたのはハロルドだった。
 落ち着かない様子で周囲を見回し、帽子を両手で強く握りしめている。

「……すみません。急に……」

 その声は掠れていた。

 頬はこけ、目の下にはくっきりとした隈が刻まれている。一晩、まともに眠れなかったことは明らかだった。

「どうされました?」

 マティアスが男の姿を認め、即座に表情を引き締める。

「中へ。すぐに先生をお呼びします」

 言い切ると同時に、マティアスは扉を大きく開け、ハロルドの背中を守るように半身で案内した。

 外の通りに“視線”が残っていないか、最後に一度だけ確かめてから、鍵を掛ける。

 応接室へ通されると、ハロルドは椅子に腰を下ろした瞬間、深く息を吐いた。

 張り詰めていた糸が、ようやく緩んだようだった。

「……もう、限界でした」

 絞り出すような声だった。

「今朝……土地の境界杭が、抜かれていたんです」

 その言葉に、室内の空気が一変する。

「誰かが……夜中に?」

 アデルが静かに尋ねると、ハロルドは力なく頷いた。

「ええ。しかも一本じゃない。……わざと分かるように、何本もです」

 リセラが歯噛みした。

「……見せしめだっぺか?」

「ずいぶんと、強引なやり方ね……」

 クラリスが低く呟く。

 そこへ、書類を手にしたクロードが姿を現し、ハロルドの向かい側に腰掛けた。

「待たせてしまって、すまない」

 クロードは、書類に目を走らせながら淡々と口を開く。

「境界杭を抜く行為は、明確な違法行為だ。
しかも今、この段階でそれをやるということは――」

 顔を上げ、ハロルドを見つめる。

「相手は焦っている。理屈よりも圧で押し切ろうとしている証拠だ」

「……確かに」

 アデルが静かに頷く。

「奴らの動きが、想定より早くなっている」

 クロードは短く肯定した。

 ハロルドは帽子を握り締めたまま、震える声で尋ねる。

「先生……俺、どうすれば……?」

 クロードは迷いなく答えた。

「大丈夫だ。私たちがついている」

 その一言に、ハロルドの肩がわずかに揺れた。

 応接室の扉付近では、ロイクが黙って立ち、場の空気とハロルドの様子を鋭く観察していた。

(……圧は、もう“段階”を越えている)

 これは単なる牽制ではない。
 相手は、本気だ。


 ハロルドが少し落ち着きを取り戻した頃、クロードは声の調子を変えずに問いかけた。

「境界杭が抜かれていた時……何か、気づいたことはありますか?」

「……実は」

 ハロルドは唇を噛み、記憶を探るように視線を伏せた。

「完全に暗くなる前……土地の近くを、二人組の男が歩いているのを見ました」

 室内が、しんと静まり返る。

「顔は?」

 ロイクが即座に問う。

「帽子を深くかぶっていて……はっきりとは。ただ……」

 言葉を選びながら続ける。

「片方の男が、こう言っていたんです。『ここだ。契約書と一致する』って」

 アデルの背筋に、冷たいものが走った。

「……契約書?」

「ええ。土地の位置を、紙と見比べているようでした」

 クロードは、ゆっくりと頷いた。

「境界を“動かす”つもりだったわけだ」

「どういうことですか?」

 ハロルドの問いに、クラリスが静かに説明する。

「契約書上の土地と、実際の土地を意図的にずらす手口よ。杭を抜いて位置を変え、『ここが本来の境界だ』と主張するの」

「……そんな……」

「古い土地ほど、狙われやすい」

 クロードが静かに言った。

「測量記録が曖昧で、代替わりも多い。
 そして何より――」

 一拍、間を置く。

「君の土地には、“価値”がある」

 ハロルドは息を呑んだ。

「価値……?」


 その時だった。
 奥の扉が、きぃ、と小さく鳴いた。

「……やっぱり、そうか」

 現れたのは、二階の古本屋の爺さんだった。

 手には、分厚い資料の束。
 新聞の切り抜き、古い裁判記録、そして――貴族名鑑。

「お爺さん……?」

 アデルが声をかける。

「お前さんの依頼人の土地だ」

 爺さんは迷いなく一枚を取り出した。

「二十年前、同じ区域で“外国商人との共同開発”の話が出ている」

 机に置かれた紙を、指でとん、と叩く。

「当時は頓挫したがな。今も地下に“鉱脈がある”という噂は消えちゃいない」

 ハロルドの顔から、血の気が引いた。

「……知らなかった……」

「持ち主が知らないのは、珍しくない」

 クロードが淡々と続ける。

「知っているのは――奪う側だ」

 爺さんは、さらに一枚を重ねた。

「そして、これだ」

 過去の裁判記録だった。

「十数年前、同じ弁護士が関わった土地争い。署名は本物。だが、内容は偽物だ」

 アデルが息を吸う。

「……同じ……」

「ああ」

 爺さんは深く頷いた。

「点は前からあった。だが――」

 杖で机を軽く叩く。

「お前さんたちが動いたことで、線になった」

 沈黙が室内を支配する。
 やがて、クロードが静かに結論づける。

「ハロルド・クレイン氏が狙われた理由は明確だ」

 クロードが視線を上げる。

「価値ある土地を、合法に見せかけて奪うため。そして――」

 アデルに目を向ける。

「同じ手口で奪われた者が、声を上げ始めたからだ」

 ハロルドは震える手で帽子を握りしめた。

「……俺は……」

「あなたは被害者だ」

 クロードは、はっきりと言い切った。

「そして今、反撃する側に立っている」

 ロイクは、静かに拳を握る。

 ――もう、偶然ではない。
 ――もう、引き返せない。

 歯車は、確かに噛み合った。


***


 同じ頃――モントレー邸。

 執務室の窓には薄い陽が差し、磨き上げられた机の上の書類だけが整然と並んでいた。

 ルイはペンを走らせていた。
 小気味よい筆記音だけが続き、書類は迷いなく仕分けられていく。

 その扉が、控えめに開く。
 リゼットが美しい微笑みを見せながら室内に入る。

「ルイ様。お茶をお持ちしましたわ」

 銀の盆に揺れないティーカップ。
 リゼットはカップを置き、ふと机の端に置かれた新聞に目を留めた。

 紙面の見出しが目に入った瞬間――指先が止まる。

「……あ……」

 息が、ひとつ漏れた。

「まぁ……お姉様……目覚めたのね……!」

 声が震え、涙が頬を伝った。

「……ああ、良かった……本当に、良かった……」

 ルイは筆を止めず、視線だけをわずかに上げた。

「……そうだったか?」

 その声音は柔らかい。
 けれど、温度がなかった。

 リゼットは涙を拭いながら、必死に笑おうとした。

「ルイ様……お姉様が目覚めたのですって。もう、記事はお読みになったのかしら……?」

 ルイは、静かに椅子を回して立ち上がり、リゼットの肩を抱き寄せた。
 
「読んだよ」

 耳元に落ちる声は甘い。
 けれど――言葉の奥に、何かを隠している。

 リゼットは胸の奥の熱に押されるまま、囁いた。

「お姉様に会いたいわ……会ったら、ご迷惑かしら……」

 ルイの手が、わずかに止まる。

「……なぜ、会う必要がある?」

 問いは穏やかだった。
 だが、返事を選び間違えれば、そこから先が変わる――そう感じさせる静けさがあった。

 リゼットは唇を噛み、震える声で言う。

「だって……私がこうして幸せでいるのに……お姉様は働かないといけないなんて……両親が陥れたようで……謝りたいの……」

 ルイは、柔らかく微笑んだ。
 微笑みは完璧で、隙がない。

「君は、やはり優しいな」

 そして、静かに続ける。

「私は、元妻がどうなろうと関心はない。君との未来だけにしか、興味がないんだ」

 リゼットは、少しだけ顔を曇らせた。

「まぁ……ルイ様……私は、お姉様が好きだったから……悲しいの……」

 ルイの指先が、彼女の頬の涙を拭う。
 優しい動作だったが――拭われるのは涙だけではなく、迷いそのもののようだった。

「リゼット……君にそんな悲しい顔は似合わない」

 彼は視線を新聞から外し、彼女の手元の盆に視線を落とす。

「お茶を持ってきてくれたんだろう?お茶にしよう」

 その一言で、話は終わった。
 終わらされた。

 リゼットは小さく頷き、カップに手を伸ばす。だが、新聞の文字はもう頭から離れない。

 そしてルイは――再び机に戻り、ペンを取った。

 まるで、何も起きていないかのように。
 まるで――その記事が、最初から“読むべき報告”の一つでしかないかのように。

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