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エドガー・ヴァレンの事務所は、過剰なほど整えられていた。
書棚は高さも間隔も寸分違わず揃えられ、背表紙は色ごとに並び替えられている。
机の上に置かれているのは、革張りの書類箱と銀縁のペン立てだけ。
壁には、額装された判決要旨と、来歴の分からない抽象画が一枚。
清潔で、理知的で、非の打ち所がない。
だが――人の気配が、薄い。
ここは相談者のための場所ではない。
結果を処理するための部屋だ。
エドガーは、窓際に立ったまま、ゆっくりと額の汗を拭った。
「境界杭を動かせば、普通は折れるはずだ。泣きついて、示談を申し出てくる。それが、いつもの流れだろう」
独り言のように呟き、口の端を歪める。
だが、今回は違った。
机の端に置かれた報告書。
そこには、短く、しかし不穏な一文が記されている。
【依頼人、法的代理人を変更。ベルヌー法律事務所が介入】
男の指が、ぴくりと跳ねた。
「……ベルヌー、だと?」
その名を口にした瞬間、
背中を、氷水を流し込まれたような感覚が走った。
「……よりにもよって、そこへ行ったか」
厄介、という言葉では足りない。
ベルヌー法律事務所は、業界では“触れてはいけない場所”として知られている。
依頼を選ぶ。
金額でも、立場でも、勝率でもない。
――「筋が通っているか」だけだった。
そして一度引き受けた案件は、途中で手放さない。
示談で濁さない。
圧にも、裏取引にも、決して折れない。
何より、恐れられている理由はそこではない。
「……あそこは、“調べ尽くす”」
書類の裏。
署名の癖。
十年、二十年前の判例。
関係者が忘れたことすら、掘り起こす。
勝つためではない。
相手を潰すためでもない。
――「正しいかどうか」を、最後まで確かめる。
それが、どれほど危険な行為かを、
この業界にいる者なら、誰でも知っている。
男は、椅子を蹴るように立ち上がった。
「……杭を動かしただけで、終わる話じゃなくなったな」
吐き捨てるように呟きながら、男は天井を仰いだ。
これは、面倒な訴訟ではない。
不運な依頼でも、偶発的な事故でもない。
――本来、掘り返されるはずのなかったものに、
こちらが自分から手を伸ばしてしまった。
その自覚が、遅れて胸の奥に沈み込み、
息苦しさとなって広がっていく。
男は、堪えきれずに机を拳で叩いた。
「……やり過ぎたか……?」
誰に向けたとも知れぬ問い。
だが、答えは返らない。
その時、控えめなノックが鳴った。
沈黙を割る、乾いた音。
「……入れ」
扉を開けて現れたのは、外套を着た男だった。
顔立ちは平凡で、街に紛れれば二度と見分けがつかない。そういう人間が、ここでは重宝される。
「報告です」
低く、感情の起伏を感じさせない声だった。
「ハロルド・クレインの件ですが――ベルヌー側が、境界の“復元測量”を進めています」
「……なに?」
男の眉が、わずかに動く。
「二十年前の測量記録を洗い直し、当時の測量士本人にも当たっているようです」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
「……本人、だと?」
喉が、無意識に鳴る。
「生きているはずがない。もう引退して、表舞台からも――」
「存命です。郊外に居住しています」
報告役の男は、淡々と事実だけを告げる。
「記録も、個人で保管されていました。
こちらの想定より……かなり、動きが早い」
沈黙が落ちる。
時間が、妙に引き伸ばされたように感じられた。
「……くそっ」
歯噛みする音が、やけに大きく響いた。
この案件は、本来“静かに終わらせる”はずだった。目立たせず、争わせず、法の形を借りて奪う。
それが、いつものやり方だった。
「……法の中で、殴り返してくるつもりか」
男は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし直す。だが、背筋は硬く張ったままだ。
「上には、報告したのか」
「はい。すでに」
「反応は?」
ほんの一瞬の間。
その沈黙が、答えそのものだった。
「……『余計なことをするな』と」
その言葉に、男は乾いた笑みを浮かべた。
「はは……いつも通りだな。責任は取らないが、結果は求める」
だが、すぐに表情を引き締める。
「今回は……違う」
視線を落とし、声を低くする。
「“例の件”と、繋がりかねない」
報告役の男が、わずかに眉を動かした。
「……元伯爵家の件、ですか」
「そうだ」
短く、重い肯定。
「ベルヌーが本気で嗅ぎつければ、芋づる式だ。あの事務所は、“勝つため”じゃなく、“正しいかどうか”で動く」
沈黙が、再び室内を満たす。
やがて、男は決断を下すように言った。
「……圧を、もう一段階上げる」
「ですが――」
「脅しはするな。暴力も使うな」
鋭い視線。
「“合法の顔をした圧”だ。税、登記、過去の申告……洗えるものは、全部洗え」
報告役の男は、短く頷いた。
「承知しました」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
男は一人、机の前に残された。
その時になって初めて、
自分の指先が微かに震えていることに気づく。
苛立たしげに拳を握りしめた。
「……なぜだ」
何十件も、同じやり方でやってきた。
誰も、ここまで踏み込んではこなかった。
「……なぜ、今回は……」
脳裏に浮かぶのは、
眼鏡の奥で、感情を見せずにこちらを見返す男の顔。
「……クロード・ベルヌー……」
その名を、忌々しげに吐き捨てる。
気づいていなかった。
いや――気づかないふりをしていた。
これは、いつもの“狩り”じゃない。
相手は、逃げない。
折れない。
そして――
こちらを、狩り返す気だ。
男は、生まれて初めて、
はっきりとした“焦り”を覚えていた。
歯車は、確実に狂い始めている。
しかも――
どこまで噛み合ってしまっているのか、
もう、自分でも分からなくなっていた。
書棚は高さも間隔も寸分違わず揃えられ、背表紙は色ごとに並び替えられている。
机の上に置かれているのは、革張りの書類箱と銀縁のペン立てだけ。
壁には、額装された判決要旨と、来歴の分からない抽象画が一枚。
清潔で、理知的で、非の打ち所がない。
だが――人の気配が、薄い。
ここは相談者のための場所ではない。
結果を処理するための部屋だ。
エドガーは、窓際に立ったまま、ゆっくりと額の汗を拭った。
「境界杭を動かせば、普通は折れるはずだ。泣きついて、示談を申し出てくる。それが、いつもの流れだろう」
独り言のように呟き、口の端を歪める。
だが、今回は違った。
机の端に置かれた報告書。
そこには、短く、しかし不穏な一文が記されている。
【依頼人、法的代理人を変更。ベルヌー法律事務所が介入】
男の指が、ぴくりと跳ねた。
「……ベルヌー、だと?」
その名を口にした瞬間、
背中を、氷水を流し込まれたような感覚が走った。
「……よりにもよって、そこへ行ったか」
厄介、という言葉では足りない。
ベルヌー法律事務所は、業界では“触れてはいけない場所”として知られている。
依頼を選ぶ。
金額でも、立場でも、勝率でもない。
――「筋が通っているか」だけだった。
そして一度引き受けた案件は、途中で手放さない。
示談で濁さない。
圧にも、裏取引にも、決して折れない。
何より、恐れられている理由はそこではない。
「……あそこは、“調べ尽くす”」
書類の裏。
署名の癖。
十年、二十年前の判例。
関係者が忘れたことすら、掘り起こす。
勝つためではない。
相手を潰すためでもない。
――「正しいかどうか」を、最後まで確かめる。
それが、どれほど危険な行為かを、
この業界にいる者なら、誰でも知っている。
男は、椅子を蹴るように立ち上がった。
「……杭を動かしただけで、終わる話じゃなくなったな」
吐き捨てるように呟きながら、男は天井を仰いだ。
これは、面倒な訴訟ではない。
不運な依頼でも、偶発的な事故でもない。
――本来、掘り返されるはずのなかったものに、
こちらが自分から手を伸ばしてしまった。
その自覚が、遅れて胸の奥に沈み込み、
息苦しさとなって広がっていく。
男は、堪えきれずに机を拳で叩いた。
「……やり過ぎたか……?」
誰に向けたとも知れぬ問い。
だが、答えは返らない。
その時、控えめなノックが鳴った。
沈黙を割る、乾いた音。
「……入れ」
扉を開けて現れたのは、外套を着た男だった。
顔立ちは平凡で、街に紛れれば二度と見分けがつかない。そういう人間が、ここでは重宝される。
「報告です」
低く、感情の起伏を感じさせない声だった。
「ハロルド・クレインの件ですが――ベルヌー側が、境界の“復元測量”を進めています」
「……なに?」
男の眉が、わずかに動く。
「二十年前の測量記録を洗い直し、当時の測量士本人にも当たっているようです」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
「……本人、だと?」
喉が、無意識に鳴る。
「生きているはずがない。もう引退して、表舞台からも――」
「存命です。郊外に居住しています」
報告役の男は、淡々と事実だけを告げる。
「記録も、個人で保管されていました。
こちらの想定より……かなり、動きが早い」
沈黙が落ちる。
時間が、妙に引き伸ばされたように感じられた。
「……くそっ」
歯噛みする音が、やけに大きく響いた。
この案件は、本来“静かに終わらせる”はずだった。目立たせず、争わせず、法の形を借りて奪う。
それが、いつものやり方だった。
「……法の中で、殴り返してくるつもりか」
男は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし直す。だが、背筋は硬く張ったままだ。
「上には、報告したのか」
「はい。すでに」
「反応は?」
ほんの一瞬の間。
その沈黙が、答えそのものだった。
「……『余計なことをするな』と」
その言葉に、男は乾いた笑みを浮かべた。
「はは……いつも通りだな。責任は取らないが、結果は求める」
だが、すぐに表情を引き締める。
「今回は……違う」
視線を落とし、声を低くする。
「“例の件”と、繋がりかねない」
報告役の男が、わずかに眉を動かした。
「……元伯爵家の件、ですか」
「そうだ」
短く、重い肯定。
「ベルヌーが本気で嗅ぎつければ、芋づる式だ。あの事務所は、“勝つため”じゃなく、“正しいかどうか”で動く」
沈黙が、再び室内を満たす。
やがて、男は決断を下すように言った。
「……圧を、もう一段階上げる」
「ですが――」
「脅しはするな。暴力も使うな」
鋭い視線。
「“合法の顔をした圧”だ。税、登記、過去の申告……洗えるものは、全部洗え」
報告役の男は、短く頷いた。
「承知しました」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
男は一人、机の前に残された。
その時になって初めて、
自分の指先が微かに震えていることに気づく。
苛立たしげに拳を握りしめた。
「……なぜだ」
何十件も、同じやり方でやってきた。
誰も、ここまで踏み込んではこなかった。
「……なぜ、今回は……」
脳裏に浮かぶのは、
眼鏡の奥で、感情を見せずにこちらを見返す男の顔。
「……クロード・ベルヌー……」
その名を、忌々しげに吐き捨てる。
気づいていなかった。
いや――気づかないふりをしていた。
これは、いつもの“狩り”じゃない。
相手は、逃げない。
折れない。
そして――
こちらを、狩り返す気だ。
男は、生まれて初めて、
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しかも――
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