奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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  エドガー・ヴァレンの事務所は、異様なほど静かだった。

 書類は整い、机の上も乱れていない。
 だが、窓の外に漂う夕闇と相まって、空気だけが張りつめている。

「……」

 ペンを持つ指が止まり、
 エドガーは無意識に額の汗を拭った。

 その時だった。

 ――控えめなノックが鳴った。

 秘書に告げる間もなく、扉が静かに開く。

 立っていたのは、二人。
 どちらも外套姿で、顔立ちは平凡。
 街ですれ違っても、記憶に残らない類の人物だった。

「エドガー・ヴァレン先生」

 前に立つ一人が、低く告げる。

「少し、お時間をいただけますか」

 命令ではない。
 だが、質問でもなかった。

「……どちら様です」

 問い返した声が、わずかに掠れる。

「ご安心を。連行ではありません。“同意”をいただきに来ただけです」

 男は、淡々と続けた。
 その言葉に、エドガーの背中を冷たいものが走る。

「……同意、とは?」

「場所を移して、お話を伺いたい。それだけです」

 男は一歩だけ近づいた。

「拒否もできます。ただ――、拒否された場合、話は“別の形”になります」

 ほんの一瞬、視線が鋭くなる。

 沈黙。
 エドガーは、喉を鳴らした。

 呼吸を整えようとするが、うまくいかない。この場で叫ぶこともできる。人を呼ぶことも、不可能ではない。

 だが――

(……それで、何が変わる)

 “上”が動いた。その事実だけは、はっきりしていた。

「……分かりました」

 そう答えた瞬間、自分の声が、他人のもののように聞こえた。

「同意いただき、感謝します」

 男は軽く頭を下げる。

「では、少し不躾ですが、目隠しを」

 布が差し出される。
 エドガーは、一瞬だけ躊躇した。
 だが、もう戻れない。

 黙って、それを受け取る。
 視界が、闇に閉ざされた。

「安全は保証します。――ただし、どこへ行くかは、お伝えできません」

 背後から、静かな声がした。
 腕を取られ、歩き出す。

 事務所の床。
 廊下。
 階段。

 自分の城だったはずの場所が、一歩ずつ、遠ざかっていく。

(……選んだのは、俺だ)

 そう言い聞かせても、胸の奥の震えは、止まらなかった。

 馬車の揺れが始まった時、エドガーは、はっきりと理解した。

 ――これは、呼び出しだ。
 ――拒否できない、“裁きの前段階”だ。

 そしてその先に、もう、逃げ道は用意されていない。




 馬車が止まった。
 揺れが収まっても、目隠しは外されない。

「……足元に、ご注意ください」

 先ほどとは別の声。
 だが、その口調は妙に丁寧だった。

 敬意を含んでいる――
 だが、向けられている相手は、エドガーではない。

(……誰に、だ)

 腕を取られ、数歩。
 地面は石張りだ。
 湿った空気が、肌にまとわりつく。

 扉が軋む音。
 古い。
 だが、荒れてはいない。

 使われていないはずなのに、“管理されている”匂いがした。

 ――廃邸。

 だが、完全な廃墟ではない。

「こちらです」

 促され、室内へ入った。

 目隠しが外された瞬間、エドガーは思わず息を詰めた。

 高い天井。
 重厚な柱。
 壁には、かつての栄華を思わせる装飾が残っている。

 だが、家具は最低限。
 明かりも、抑えられている。

 ――判断を迫るためだけの空間。

 正面に、仮面を付けた一人の男が立っていた。

 椅子には座らない。
 書類も広げない。

 ただ、そこにいる。

 その立ち姿だけで、この場の主が誰か、分からされる。

「……」

 エドガーの喉が鳴る。

(……似ている)

 立ち方。
 間の取り方。
 視線の置きどころ。

(……いや、違う)

 即座に、心の中で否定する。

(彼は、もう……)

 考えが終わる前に、男が口を開いた。

「エドガー・ヴァレン先生」

 低く、落ち着いた声。

「お忙しい中、来ていただいて感謝します」

 その言葉に、背後に控えていた手下の一人が、一歩下がる。

「……こちらへお越しになる判断をされたのは、先生ご自身です」

 ――選択したのは、あなた。
 そう告げられている。

「……ええ」

 エドガーは、短く答えた。
 否定しても、意味がない。

「では、本題に入りましょう」

 男は、ようやく机の方へ歩いた。
 だが、腰は下ろさない。

「あなたは、“消そう”としました」

 静かな断定。

「それが、何を意味するか――理解した上での行動ですね」

 エドガーは、乾いた唇を舐めた。

「……私は」

 言葉が、喉に引っかかる。

 否定は、無意味。
 言い訳は、逆効果。

「……私は、すべてを知っていたわけではありません」

 男は、眉一つ動かさない。

「ですが、関与はしていた」

 エドガーは、目を閉じた。

「……はい」

 その一言で、自分の足場が、音を立てて崩れた気がした。

「私が扱ったのは、“契約の整形”です。土地の価値も、最終的な行き先も……」

 エドガーの声が、わずかに震える。

「ただ、“流れ”があることは、知っていました」

 男が、初めて一歩、距離を詰める。

「その流れを作ったのは?」

 沈黙。
 エドガーは、視線を伏せたまま、答えた。

「……ある人物です」

 一瞬。
 背後の手下が、わずかに息を詰めた。

「名は?」

「正確な名は、知りません」

 喉が鳴った。

「ただ……モーリス家の内部に、強い影響力を持つ人物がいる。表には出ない。だが、決定はすべて、そこを通る」

 男は、低く確認する。

「その人物が、“狙う土地”を選ぶ」

「はい」

「あなたの役割は?」

「……合法に見せる」

 エドガーは、ようやく顔を上げた。

「それだけでした」

 沈黙。
 長い、長い沈黙。
 やがて、男は一枚の紙を机に置いた。

「書いてください」

「……何を?」

「あなたが知っている範囲を。名前でなくていい。繋がり、動線、指示の形」

 エドガーは、迷った。

 だが――

(……もう、戻れない)

 震える手で、ペンを取る。
 それは、完全な告白ではない。

 だが――

 ベルヌーが“線”を引くには、十分な点だった。

 背後で、手下が静かに告げる。

「――よろしい判断です、先生」

 その敬語が、誰に向けられたものなのか。エドガーは、もう、考えないようにした。

 歯車は、確実に、別の方向へ回り始めていた。

 

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