奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 震える手で、ペンを取る。

「――よろしい判断です、先生」

 その敬語が、誰に向けられたものなのか。エドガーは、もう、考えないようにした。

 ペンを置いた瞬間だった。
 紙の上に残った文字が、まるで自分の首に巻かれた縄のように見えた。

「……以上です」

 エドガーは、かすれた声で言った。

 男は紙に目を落とし、一字一句を追うでもなく、静かに頷いた。

「十分です」

 それだけだった。
 評価も、感情も、ない。

 エドガーは、胸の奥に鈍い違和感を覚えた。

(……助かる、とは言わないのか)

 男は、ゆっくりと視線を上げる。

「あなたは、役目を果たしました」

 その言葉に、一瞬、安堵が走りかけ――

 次の一言で、凍りついた。

「――ここから先は、あなたは不要です」

 室内の空気が、ぴしりと音を立てた気がした。

「……な、こ、殺すというのか?!私は、協力したはずだ……!」

 エドガーの喉が、言葉を拒む。
 声が裏返っていた。

「ふふふ…命は取りませんよ」

 男は、淡々と遮った。

「ならば…不要とは…!俺は知っていることは、すべて書いた。約束が……違う」

「おかしいですね?私は、約束をしましたか?」

 仮面の男は抑揚のない調子で呟く。
 エドガーは、言葉を失う。

 思い返しても、“助ける”とも、“守る”とも、誰一人、口にしていない。

「あなたは、便利でした」

 男の声には、蔑みも怒りもない。
 ただの事実だった。

「ですが、ベルヌーが動いている以上、あなたを“表に残す”理由はありません」

 背後で、足音が一つ、増えた。
 先ほど敬語を使っていた手下が、一歩、前に出る。

「先生」

 その呼び方は、もう丁寧ではない。

「しばらくの間、外部との接触は控えてください。事務所も……畳んだ方が、身のためです」

「……それは、命令か」

 エドガーは、すでに掠れた声しか出なかった。男は、口角を上げただけで答えなかった。

 だが、沈黙そのものが、肯定だった。

「……私は、捨て駒か」

 誰にともなく、呟く。
 男は、ほんの一瞬だけ、視線を逸らした。

「――最初からです」

 エドガーは、笑った。
 乾いた、音のない笑いだった。

 こうして、彼は“切られた”。

 だが――

(……終わらせない)

 その胸の奥に残った、最後の感情が、やがて、別の火種になることを、この時、まだ誰も知らない。


 
***



 同じ頃。
 夕方も過ぎ、事務所にはマティアスとクラリスの姿はなくなっていた。

「あ!もう、こんな時間だべ!!」

 リセラは、外套を引っ掴むように肩にかけると、

「ちょっくら夕餉を調達してくるだ!」

 そう言い残して、階段を駆け下りていった。

 この時間帯の市場は、閉店間際で値が下がる。彼女にとっては、腕の見せどころでもあった。

 事務所の扉が閉まる音が遠ざかり、建物の中には、夜特有の静けさが戻ってくる。


 ベルヌー法律事務所の執務室では、クロードが一人、机に向かっていた。

 灯りは落とされ、書類を照らすための小さなランプだけが点いている。

 窓の外には、まだ薄い夜の名残が漂い、
通りのざわめきも、どこか遠い。

 ペンが紙を擦る音だけが、一定のリズムで続いていた。

「……先生」

 控えめな声だった。

 振り返ると、アデルが立っていた。
 手には、温かい飲み物が二つ。
 湯気が、静かに立ちのぼっている。

「眠っていませんよね?これ……」

 クロードは一瞬、目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。

「……気付かれたか」

「ええ。書類の音が、止まらなかったから」

 アデルは、そっと机の端にカップを置く。陶器が触れ合う、かすかな音。

 二人の間に、言葉はない。
 だが、その沈黙は重くなかった。

 クロードはカップに手を伸ばし、しばらく湯気を見つめてから、ぽつりと言った。

「……暮らしには慣れたかな」

 唐突な問いだった。
 アデルは少し考え、言葉を選ぶようにして答える。

「はい。おかげさまで。働く場を与えてくれた先生には、感謝しています」

「感謝されるほどのものじゃない」

 クロードは、視線を外したまま言う。

「事務所は人手不足だったしな」

 それから、ちらりとアデルを見る。

「君たち二人は、よくやってくれている。
リセラ嬢とマティアスの化学反応は、正直、想定外だったが」

 ほんの一瞬、口元が緩む。
 釣られたように、アデルも微笑んだ。

「……リセラが、すみません。彼女は本当に裏表がなくて、真っ直ぐな気質で……」

「ああ。良い気質だ」

 クロードは紅茶を一口含み、続ける。

「弁護士なんて続けているとね、嫌でも人間の裏側を見続けることになる」

 カップを置き、静かに言葉を選ぶ。

「だからこそ、真っ直ぐな人間がそばにいるのは、悪くない」

 一拍、間があった。

「それは、君にも言えることだ」

 アデルが、はっと顔を上げる。

「不幸な目に遭っても、歪まなかった。だから、手を貸したくなるのかもしれないな」

「……先生……」

 思わず、声が漏れた。

 クロードはいつも忙しく、こうして腰を落ち着けて話す機会はほとんどない。
それでも――ちゃんと、見られていた。

「……ありがとうございます」

 俯き、ようやく言葉にできた。

 クロードは何も言わない。
 ただ、眼鏡の奥で、その視線がわずかに揺れる。

「私は……」

 アデルは、言葉を探しながら続けた。

「負けたくありません。両親と……領民に、安心を与えられる人間になりたいんです」

 クロードは、静かに頷いた。

「そうか」

 そして、柔らかく言う。

「……その願いが叶えられるよう、私は協力するよ」

 その言葉に、アデルの指が、カップを握る力をわずかに強めた。

 外では、まだリセラの気配はない。
 だが、この静かな時間は、確かに、二人の距離を一歩だけ近づけていた。
 

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