奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 エドガー・ヴァレンが退いたことで、ハロルド・クレインの土地問題は、表向きには決着を迎えた。

「……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」

 ハロルドは、何度も頭を下げ、ついには堪えきれずに涙をこぼした。

 長く張り詰めていたものが、ようやく解けたのだ。

「土地が守れた……父の代からの土地が……」

 その姿に、事務所の空気もやわらぐ。

「法的に立場の弱い者を守るのが、私の仕事です」

 クロードは淡々と言った。
 誇示も謙遜もない、ただ事実としての言葉だった。

 だが、その背中を見つめるマティアスの目は、熱を帯びていた。

「クロード先生っ。さすがです」

 憧れは、もう隠しきれていなかった。

「メガネ先生は、やっぱ立派だなぁ」

 リセラも、素直にそう言って頷く。

 アデルも同じ気持ちだった。
 この人のそばで働けていることが、誇らしくさえあった。

「……一件落着、ですね」

 そう言いかけたアデルに、ロイクが静かに声をかける。

「ハロルドさんの件は、な。でも……姉さんは別だ」

 その言葉に、アデルは小さく息を吸った。ロイクは厳しい表情を緩めずに続ける。

「油断しないでいこう。狙われている事実は、変わらない」

「……ええ」

 アデルは、静かに頷いた。




 ――その夜。

 屋根裏の部屋に戻ると、簡素な仕切りの向こうから、もう規則正しい寝息が聞こえてきた。

 リセラは早かった。
 夕食を終え、少し雑談をしたかと思うと、
 「明日は早ぇからな」と言って、さっさと自分の寝台に潜り込んでしまったのだ。

 木の梁を伝って、かすかな鼾が響く。
 無防備で、疑いのない眠り。

(……リセラは、本当に強い)

 アデルは、そう思う。

 同じ屋根裏。
 同じ不安を抱えているはずなのに、リセラは、眠ることで今日をきちんと終わらせる。

 一方で、アデルはまだ、椅子に腰掛けたままだった。

 小さな卓。
 壁際に寄せた簡易の寝台。
 灯りは、必要最低限。

 屋根裏の窓からは、夜の気配が薄く滲み、遠くの街灯が、ぼんやりと梁の影を揺らしている。

 ここは、仮の住まいだ。
 けれど――
 今の自分には、確かに「帰る場所」でもあった。


 自分が目覚めてから、もう半年が過ぎていた。あまりに慌ただしくて、立ち止まる余裕すらなかった。

 だからだろうか。

 思い出さないようにしていた名前が、
 静けさに紛れて、胸の奥から滲み出てくる。

(……ルイ)

 どうして、今なのだろう。

 あなたは今、何を考えているの?
 私が眠っている間に、心変わりしたの?
 それとも……もっと前から?

 問いかけても、答えは返らない。

 会いたい。
 声を聞きたい。
 顔を見て、確かめたい。

 でも――

(……怖い)

 もし、あなたの瞳に、
 もう私が映っていなかったら。

 もし、優しさが、
 かつてのものではなかったら。

 私は、それに耐えられるだろうか。
 いつから、こんなに臆病になったのだろう。

 以前の自分なら、迷わず会いに行ったはずなのに。

(……今さら、何を話すというの)

 もう、道は分かれてしまった。
 あなたには、あなたの人生があり、私には、私の生き方がある。

 頭では、分かっている。

 それでも――

 胸の奥に残る、この未練だけが、どうしても、消えてくれない。

 アデルは、そっと胸元を押さえた。

 痛みはない。
 ただ、鈍く、温度のある何かが、そこにある。

(……私は、まだ)

 最後まで言葉にできず、アデルは、静かに目を閉じた。

 涙は、流れなかった。

 けれど、心は、確かに――
 あの人の名を、手放せずにいた。


 ――と、その時。
 屋根裏の扉が、控えめにノックされた。

 こんな時間に?
 アデルは一瞬、身構えたが、次の瞬間、聞き慣れた低い声がした。

「……アデル嬢。起きているか」

 扉を開けると、そこに立っていたのはクロードだった。

 ランプの淡い光に照らされ、眼鏡の奥の瞳が静かにこちらを見ている。

「夜分にすまない」

 そう言ってから、少しだけ間を置く。

「……一杯、付き合わないか」

 一瞬、言葉に詰まった。
 だが、その声には軽さも、下心もないのがわかる。

「下の階だ。中の階段は普段は塞いでいるが……もし大丈夫なら、そこから来てくれ。無理なら、断ってくれて構わない」

「……いえ」

 アデルは、首を振った。

「行きます」

 クロードは、ほんのわずかに安堵したように頷いた。





 外階段を使って下りた先。
 クロードの部屋は、思っていた以上に静かだった。

 扉を開けた瞬間、まず目に入るのは――本。

 壁一面に近い書棚。
 床にも、机の脇にも、積まれた書籍。

 法律書だけではない。
 歴史、哲学、古い判例集、手記のようなものまで混じっている。

「……書斎みたいですね」

「ああ。書斎で暮らしているようなものだな」

 クロードは目を細めて答える。

 部屋の奥には、簡素な寝台。
 飾り気はなく、実用一辺倒だ。

 中央には、二人掛けの小さなテーブル。
 そこに、すでに用意されていたグラスと酒瓶があった。

「改めて、夜分にすまない」

 クロードは椅子を引きながら言った。

「まだ起きている気配がしたから」

 アデルは、はっとして首を振る。

「……足音、うるさかったでしょうか…」

「いや、騒音は、なかった」

 即答だった。
 その言い方が妙に真剣で、アデルは少し気恥ずかしくなり、視線を落とす。

 二人は向かい合って座った。
 グラスに注がれた酒は、強すぎない香りがした。

「……アデル嬢」

 クロードが、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「君を呼んだのは、これからの話をしたかったからだ」

 アデルは、背筋を正した。

「ハロルドの件は、ひとまず片がついた。だが――」

 一拍、間を置く。

「敵は、まだ全貌を見せていない」

 クロードの視線は、揺れない。

「表に出た駒は崩れた。だが、盤の外にいる者たちは、まだ動いていない」

 指先が、テーブルの縁に触れる。

「君の身辺は、これからさらに騒がしくなるかもしれない」

 それは、脅しではなく、現実を正確に伝えるための声音だった。

「だからこそ、共有しておきたかった」

 アデルは、グラスを両手で包みながら、静かに聞いていた。

「怖がらせたいわけじゃない」

 クロードはそう前置きしてから、続けた。

「だが、覚悟は必要だ。君が進んでいる道は、もう“巻き戻せる場所”ではない」

 言葉は重い。
 それでも、不思議と――逃げたい気持ちは湧かなかった。

 アデルは、ゆっくりと顔を上げる。

「……大丈夫です」

 一拍置いて、声を整えた。

「逃げないと、決めましたから」

 まっすぐな視線。
 揺れも、迷いもない。

 クロードは、その目から視線を外さなかった。
 ほんの一瞬、言葉を探すように間が生まれ、それからグラスに口をつける。

「……そうだな」

 低く、確かめるような声音だった。

「君の覚悟を、もう一度聞いておきたかった」

 視線が、再び重なる。
 いつもより、ほんの少しだけ長く。

「私は――」

 そこで、言葉が切れた。
 だがすぐに、静かに続く。

「私は、それを支える役目だから」

 余計な感情は、口にしない。
 けれど、その声には、ただの職務以上の“重み”があった。

 そのことに、アデルは気づいていない。
 ただ胸の奥で、名もない感情が、静かに揺れただけだった。

 夜は、まだ深い。
 だが、この部屋には、不思議と闇が入り込まない。

 ――それは、安心か。
 それとも、始まりか。

 アデルには、まだ分からなかった。

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