奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ――その日。

 午前の事務所は、比較的穏やかだった。

「アデルさん、これを取引所までお願いできますか」

 マティアスが書類を差し出す。
 いつもの外回りだ。特別な内容ではなかった。

「はい。すぐ戻ります」

 そう答えた瞬間だった。
 胸の奥に、ひっかかるような感覚が走る。

(……変)

 理由は分からない。
 ただ、今日に限って、外に出ることが妙に重く感じられた。

 そのやり取りを、少し離れた机で聞いていたリセラが、ちらりと顔を上げる。

「お嬢様!それは、わだすが行くっぺ」
「リセラ……?」

 勢いよく立ち上がりかけて、彼女はふと足を止める。

 目の前には、今朝届いたばかりの荷。
 事務所宛の匿名文書、破られた封筒、差出人不明の包み。
 中身はまだ精査中で、明らかに席を外せる状況ではなかった。

「……もうすぐ終わるから、大丈夫だぁ」

 それでも言い張るリセラに、マティアスが即座に応じる。

「いや、リセラ。まだまだ終わらない」
 
 彼は机の横に積まれた書類と封筒の山を示した。

「奥の荷物の点検も残っている。重たい物が山積みだ。君に任せたい」
「っ……でも……」

 言葉に詰まるリセラに、アデルがやさしく声をかける。

「大丈夫よ、リセラ。すぐ戻るから」

 そう言いながらも、アデル自身、胸の奥のざわめきが消えないのを感じていた。

(……やっぱり、変)

 そのわずかな違和感に、真っ先に反応したのは、ロイクだった。

「俺が一緒に行く。護衛だからな」

 反論を許さない、騎士の口調だった。
 リセラが、低く付け足す。

「……ロイク様、頼んだど。今日は、なんか嫌な感じがするんだわ」

 珍しく、冗談めかさない声だった。
 ロイクは、短く頷いた。

「ああ。任せとけ」

 アデルは一瞬だけ迷い、それから、小さく頷いた。

「……お願いします」

 リセラは二人の背中を見送りながら、
 無意識に拳を握りしめていた。その視線は、扉が閉まるまで離れなかった。




 通りに出ると、街はいつも通りだった。

 荷馬車の軋む音。
 商人の呼び声。
 人の流れ。

 だが――

 ロイクの視線は、まったく別のものを見ていた。

 反射する硝子。
 建物の影。
 一定の距離を保つ足取り。

(……いる)

 数は少ない。
 露骨ではない。
 だが、確実に“意図を持った視線”。

 ロイクは歩調をわずかに落とし、
 自然にアデルの進路を自分の身体で覆った。

「……ロイク?」
「前だけ見て」

 低い声。
 短い命令。

 アデルは、その声音で悟る。
 ――自分の違和感は、間違っていなかった。

 角を一つ曲がった瞬間、後方の気配が、わずかに乱れた。

(焦ったな)

 ロイクは、立ち止まらない。
 ただ、通りの真ん中で、少しだけ位置を変える。

 視線が、正面からぶつかった。

 一瞬の間だった。
 相手はすぐに目を逸らし、人混みに紛れる。

「……今の」

 アデルが声を落とす。

「気づいたか」

「……ええ」

 ロイクは、それ以上説明しなかった。
 説明する必要がないと判断したからだ。

 代わりに、言う。

「今日は、用件だけ済ませて戻る」
「ロイク…」
「姉さん」

 その呼び方に、アデルは息を止めた。
 ロイクは、視線を前に向けたまま続ける。

「俺がいる。だから、何も考えなくていい」

 それは、覚悟だった。



 外回りの帰り道。
 取引所から事務所へ戻る、いつもの通りだった。

 人通りは多く、昼の喧騒がまだ残っている。だからこそ――油断しやすい。

 ロイクは、無意識に歩調を半拍落としていた。

(……来る)

 予感は、すぐに現実になる。

 通りの角。
 向こうから歩いてきた男が、わざとらしく進路を塞いだ。

「失礼」

 低く、落ち着いた声。
 礼儀正しいが、視線はアデルだけを見ている。

 ロイクは即座に一歩前へ出た。
 言葉より先に、身体が動いた。

「何の用だ」

 男は、ロイクを一瞥しただけで、再びアデルに視線を戻す。

「ベルヌー法律事務所の方ですね?少しだけ、お話を…」

 “少しだけ”。その言い方が、あまりにも慣れている。

「何だ。用件があるなら、事務所へ正式に連絡を」

 ロイクの声は、低く硬かった。
 男は、微かに口角を上げた。

「いえ。事務所ではなく……あなた個人に」

 その瞬間、ロイクの中で、何かが切り替わった。

 剣帯に触れはしない。
 だが、立ち位置が変わる。

 完全に、壁になる位置。

「名を名乗れ」
「名乗るほどの者ではありません」

 男は、視線を外さずに続ける。

「ご忠告をしなければと…最近、あなたの周囲が……騒がしいようですね?」

 アデルの指先が、無意識に強張る。
 ロイクは、それを見逃さなかった。

「下がれ」

 短い命令。
 男は、わずかに眉を動かす。

「護衛の方ですか?随分と、熱心だ」

「職務だ。これ以上、彼女に近づく理由はない」

 一語一語、区切るように言う。
 男は、試すように一歩踏み出した。

 その瞬間ーー。
 ロイクの手が、男の胸元を押さえた。

 力は強くない。
 だが、逃げ場のない位置を取る。

「……ここまでだ。次に近づいたら、警告では済まない」

 声が、氷のように冷たい。
 男は、初めてロイクを正面から見た。

 ――騎士団の眼。
 戦場で人を止めてきた目。

 一瞬の沈黙。

 やがて男は、ゆっくりと両手を上げた。

「……失礼しました。今日は、確認だけです」

 視線を逸らし、後退する。
 その言葉を残し、人混みに溶けるように去っていった。


 しばらく、誰も口を開かなかった。
 やがて、アデルが息を吐く。

「……ありがとう」

 ロイクは、ようやく肩の力を抜いた。

「謝ることじゃないよ」
「でも……」
「アデル姉さん…」

 ロイクは、視線を合わせずに言った。

「こういう“接触”は、これから増える」

 アデルの胸が、きゅっと縮む。

「だが」

 一拍置いてから、続ける。

「俺がいる限り、直接触れさせない」

 アデルは、ロイクの横顔を見る。
 幼い頃から知っているはずの従弟いとこ

 だが今は――

(……こんな顔、知らなかった)

 守る側の顔。
 覚悟を決めた男の顔。

「……ロイク、ありがとう」

 ロイクは、一瞬だけ目を伏せた。

「お礼を言われるほどでもないから」

 そう言って、再び一歩前に出る。

 ――次に来るなら、もう“様子見”では済まない。ロイクは、そう悟っていた。

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