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アデルとロイクが事務所を出て、しばらく経っても、リセラの胸騒ぎは消えなかった。
書類を確認する手が止まり、何度目か分からないため息をつく。
(……やっぱり、おかしい)
理由ははっきりしない。
だが、今朝届いた匿名文書の破られた封筒。
アデルが外へ出る直前に見せた、ほんの一瞬の硬い表情が目に焼きついた。
「……嫌な予感ってのは、当たるもんだべ」
リセラは立ち上がった。
机に向かうマティアスへ声をかける。
「ちょっと、外の空気吸ってくるだ」
「え?今からか?」
「すぐ戻る。……でも、もしわだすが戻らなかったら、追ってきてけろ」
冗談めかした口調とは裏腹に、目は本気だった。
外套を掴み、事務所を飛び出す。
リセラは、アデルとロイクが向かった方角へと足を速めた。
*
一方――
街道をゆっくり進むモントレー伯爵家の馬車の中は、穏やかな空気に満ちていた。
若夫婦で招かれたお茶会の帰り。
柔らかな午後の光が、小窓から差し込んでいる。
「今日は珍しいね」
ルイが、穏やかな声音で切り出した。
「君の方から、街に寄りたいなんて。何か欲しいものでもあるのかい?」
向かいに座るリゼットは、ふわりと微笑む。
いつもと変わらぬ、はかなげで美しい微笑みだった。
「たまには……」
少しだけ視線を伏せ、甘えた声を添える。
「たまには、ルイ様を独占したくなる時もあるのよ。ルイ様、いつも執務でお忙しいから……」
その言葉に、ルイは小さく息を吐き、苦笑する。
「それはすまなかったね。夫失格だな」
そして、やわらかく続けた。
「今日は、君に付き合うことにしよう」
「まぁ……!」
リゼットの顔が、ぱっと明るくなる。
「嬉しい。街のカフェに行ったりしたいの。たまには、そんな時間も欲しくて……わがままを言ってみるものね」
「こんな可愛い我儘なら、いくらでも聞くさ」
ルイは微笑みながら尋ねる。
「それで、行きたいカフェはどのあたりかな?」
リゼットは、少し考える素振りを見せてから、馬車の小窓へ身を寄せた。
「確か……このあたり……」
そう呟き、外を覗いた瞬間――
彼女の表情が、凍りついた。
「――止めて!!」
切羽詰まった声が、馬車内に響く。
「馬車を、止めてください!」
御者が驚いて手綱を引き、馬車は急停止した。
「リゼット?」
ルイが名を呼ぶより早く、彼女は扉を押し開け、外へと駆け出していた。
*
街の通りのざわめきが、ふっと遠のいた気がした。
行き交う人々の足音も、馬車の軋む音も、
風に揺れる看板のきしみさえも、
すべてが薄い膜の向こうへ押しやられていく。
アデルの視界には、
ただ一人――リゼットの姿だけが、鮮明に目に入っていた。
「……お姉様?」
震えるほど柔らかな声だった。
人混みの中で、その呼びかけだけが、はっきりと届く。
アデルは足を止めた。
目の前に立っていたのは、涙を流している――リゼットだった。
淡い色の外套。
細い肩。
今にも折れそうな佇まい。
かつて、守るべき存在だった従妹。
「……リゼット」
名を呼ぶだけで、喉の奥がひりつく。
三年半――。
短いようで、長くもある時間。
意識の奥で、過去と現在が遠く隔てられてしまったような感覚があった。
「本当に…お目覚めになったのね」
リゼットは瞳を潤ませ、両手を胸元で重ねたあと、ほっと息をついたように微笑んだ。
「記事を読んで……ずっと、気になっていたの」
その言葉は、あまりにも自然で、
あまりにも“優しい妹”のままだった。
だが――
その瞬間、
アデルの横にいたロイクが、静かに一歩前へ出た。
さりげなく。
けれど、はっきりとした行動だった。
アデルとリゼットの間に、身体を差し込んだ。
「……姉上…」
低い声だった。
リゼットの視線が、ようやくロイクに向く。
「まぁ…ロイク……!久しぶりね」
懐かしむような笑み。
幼い頃と変わらない、姉の顔だった。
ロイクは、微笑みを返さずに厳しい表情のまま言葉を返した。
「久しぶりだな」
それだけ言って、視線を逸らす。
敬意も、親しみも、そこにはなかった。
ただ、距離だけがあった。
アデルは、その空気の変化に気づき、
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……ああ)
気づいてしまった。
この再会は、喜びのためのものではない。
リゼットは、ロイクの態度に一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに柔らかな微笑へと戻った。
「……突然、驚かせてしまって、ごめんなさい…」
そう言って、アデルへと向き直る。
「でも……こうしてお顔を見られて、本当に安心したの。お姉様の身をずっと案じていたから…」
リゼットの瞳からは涙が一筋、溢れた。
「……ええ…心配かけてしまったわね…」
アデルは、慎重に言葉を選んだ。
昔のようには、話せない。
昔のようには、近づけない。
それを、互いに分かっている。
沈黙が落ちる。
その隙間に、ロイクの視線が、通りの向こうを一瞬だけ捉えた。
――止まった馬車。
その陰に、立つ一人の男。
遠目でも分かる。
背筋の伸びた立ち姿。
(……やっぱり、いる)
ロイクは、奥歯を噛み締めた。
あの男が憎い。
そして、許せなかった。
だが、ここで感情を出すわけにはいかない。ロイクは、再び一歩、前へ。
「……姉上」
その呼び方は、どこか硬い。
「ここは人目が多い。話があるなら、改めてだ」
それは、拒絶ではない。
だが、明確な線引きだった。
リゼットは一瞬、驚いたように目を見開き、それから、困ったように微笑んだ。
「……そうね。お姉様を見かけて、思わず飛び出してしまったから…」
小さく頷き、アデルを見る。
「今日は……これで…」
名残惜しそうに言葉を継いだ。
――その瞬間だった。
「お嬢様!!」
通りの向こうから、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
息を切らし、人混みをかき分けて現れたのはリセラだった。
書類を確認する手が止まり、何度目か分からないため息をつく。
(……やっぱり、おかしい)
理由ははっきりしない。
だが、今朝届いた匿名文書の破られた封筒。
アデルが外へ出る直前に見せた、ほんの一瞬の硬い表情が目に焼きついた。
「……嫌な予感ってのは、当たるもんだべ」
リセラは立ち上がった。
机に向かうマティアスへ声をかける。
「ちょっと、外の空気吸ってくるだ」
「え?今からか?」
「すぐ戻る。……でも、もしわだすが戻らなかったら、追ってきてけろ」
冗談めかした口調とは裏腹に、目は本気だった。
外套を掴み、事務所を飛び出す。
リセラは、アデルとロイクが向かった方角へと足を速めた。
*
一方――
街道をゆっくり進むモントレー伯爵家の馬車の中は、穏やかな空気に満ちていた。
若夫婦で招かれたお茶会の帰り。
柔らかな午後の光が、小窓から差し込んでいる。
「今日は珍しいね」
ルイが、穏やかな声音で切り出した。
「君の方から、街に寄りたいなんて。何か欲しいものでもあるのかい?」
向かいに座るリゼットは、ふわりと微笑む。
いつもと変わらぬ、はかなげで美しい微笑みだった。
「たまには……」
少しだけ視線を伏せ、甘えた声を添える。
「たまには、ルイ様を独占したくなる時もあるのよ。ルイ様、いつも執務でお忙しいから……」
その言葉に、ルイは小さく息を吐き、苦笑する。
「それはすまなかったね。夫失格だな」
そして、やわらかく続けた。
「今日は、君に付き合うことにしよう」
「まぁ……!」
リゼットの顔が、ぱっと明るくなる。
「嬉しい。街のカフェに行ったりしたいの。たまには、そんな時間も欲しくて……わがままを言ってみるものね」
「こんな可愛い我儘なら、いくらでも聞くさ」
ルイは微笑みながら尋ねる。
「それで、行きたいカフェはどのあたりかな?」
リゼットは、少し考える素振りを見せてから、馬車の小窓へ身を寄せた。
「確か……このあたり……」
そう呟き、外を覗いた瞬間――
彼女の表情が、凍りついた。
「――止めて!!」
切羽詰まった声が、馬車内に響く。
「馬車を、止めてください!」
御者が驚いて手綱を引き、馬車は急停止した。
「リゼット?」
ルイが名を呼ぶより早く、彼女は扉を押し開け、外へと駆け出していた。
*
街の通りのざわめきが、ふっと遠のいた気がした。
行き交う人々の足音も、馬車の軋む音も、
風に揺れる看板のきしみさえも、
すべてが薄い膜の向こうへ押しやられていく。
アデルの視界には、
ただ一人――リゼットの姿だけが、鮮明に目に入っていた。
「……お姉様?」
震えるほど柔らかな声だった。
人混みの中で、その呼びかけだけが、はっきりと届く。
アデルは足を止めた。
目の前に立っていたのは、涙を流している――リゼットだった。
淡い色の外套。
細い肩。
今にも折れそうな佇まい。
かつて、守るべき存在だった従妹。
「……リゼット」
名を呼ぶだけで、喉の奥がひりつく。
三年半――。
短いようで、長くもある時間。
意識の奥で、過去と現在が遠く隔てられてしまったような感覚があった。
「本当に…お目覚めになったのね」
リゼットは瞳を潤ませ、両手を胸元で重ねたあと、ほっと息をついたように微笑んだ。
「記事を読んで……ずっと、気になっていたの」
その言葉は、あまりにも自然で、
あまりにも“優しい妹”のままだった。
だが――
その瞬間、
アデルの横にいたロイクが、静かに一歩前へ出た。
さりげなく。
けれど、はっきりとした行動だった。
アデルとリゼットの間に、身体を差し込んだ。
「……姉上…」
低い声だった。
リゼットの視線が、ようやくロイクに向く。
「まぁ…ロイク……!久しぶりね」
懐かしむような笑み。
幼い頃と変わらない、姉の顔だった。
ロイクは、微笑みを返さずに厳しい表情のまま言葉を返した。
「久しぶりだな」
それだけ言って、視線を逸らす。
敬意も、親しみも、そこにはなかった。
ただ、距離だけがあった。
アデルは、その空気の変化に気づき、
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……ああ)
気づいてしまった。
この再会は、喜びのためのものではない。
リゼットは、ロイクの態度に一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに柔らかな微笑へと戻った。
「……突然、驚かせてしまって、ごめんなさい…」
そう言って、アデルへと向き直る。
「でも……こうしてお顔を見られて、本当に安心したの。お姉様の身をずっと案じていたから…」
リゼットの瞳からは涙が一筋、溢れた。
「……ええ…心配かけてしまったわね…」
アデルは、慎重に言葉を選んだ。
昔のようには、話せない。
昔のようには、近づけない。
それを、互いに分かっている。
沈黙が落ちる。
その隙間に、ロイクの視線が、通りの向こうを一瞬だけ捉えた。
――止まった馬車。
その陰に、立つ一人の男。
遠目でも分かる。
背筋の伸びた立ち姿。
(……やっぱり、いる)
ロイクは、奥歯を噛み締めた。
あの男が憎い。
そして、許せなかった。
だが、ここで感情を出すわけにはいかない。ロイクは、再び一歩、前へ。
「……姉上」
その呼び方は、どこか硬い。
「ここは人目が多い。話があるなら、改めてだ」
それは、拒絶ではない。
だが、明確な線引きだった。
リゼットは一瞬、驚いたように目を見開き、それから、困ったように微笑んだ。
「……そうね。お姉様を見かけて、思わず飛び出してしまったから…」
小さく頷き、アデルを見る。
「今日は……これで…」
名残惜しそうに言葉を継いだ。
――その瞬間だった。
「お嬢様!!」
通りの向こうから、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
息を切らし、人混みをかき分けて現れたのはリセラだった。
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