奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 アデルとロイクが事務所を出て、しばらく経っても、リセラの胸騒ぎは消えなかった。

 書類を確認する手が止まり、何度目か分からないため息をつく。

(……やっぱり、おかしい)

 理由ははっきりしない。
 だが、今朝届いた匿名文書の破られた封筒。

 アデルが外へ出る直前に見せた、ほんの一瞬の硬い表情が目に焼きついた。

「……嫌な予感ってのは、当たるもんだべ」

 リセラは立ち上がった。
 机に向かうマティアスへ声をかける。

「ちょっと、外の空気吸ってくるだ」
「え?今からか?」
「すぐ戻る。……でも、もしわだすが戻らなかったら、追ってきてけろ」

 冗談めかした口調とは裏腹に、目は本気だった。

 外套を掴み、事務所を飛び出す。
 リセラは、アデルとロイクが向かった方角へと足を速めた。





 一方――

 街道をゆっくり進むモントレー伯爵家の馬車の中は、穏やかな空気に満ちていた。

 若夫婦で招かれたお茶会の帰り。
 柔らかな午後の光が、小窓から差し込んでいる。

「今日は珍しいね」

 ルイが、穏やかな声音で切り出した。

「君の方から、街に寄りたいなんて。何か欲しいものでもあるのかい?」

 向かいに座るリゼットは、ふわりと微笑む。
 いつもと変わらぬ、はかなげで美しい微笑みだった。

「たまには……」

 少しだけ視線を伏せ、甘えた声を添える。

「たまには、ルイ様を独占したくなる時もあるのよ。ルイ様、いつも執務でお忙しいから……」

 その言葉に、ルイは小さく息を吐き、苦笑する。

「それはすまなかったね。夫失格だな」

 そして、やわらかく続けた。

「今日は、君に付き合うことにしよう」

「まぁ……!」

 リゼットの顔が、ぱっと明るくなる。

「嬉しい。街のカフェに行ったりしたいの。たまには、そんな時間も欲しくて……わがままを言ってみるものね」

「こんな可愛い我儘なら、いくらでも聞くさ」

 ルイは微笑みながら尋ねる。

「それで、行きたいカフェはどのあたりかな?」

 リゼットは、少し考える素振りを見せてから、馬車の小窓へ身を寄せた。

「確か……このあたり……」

 そう呟き、外を覗いた瞬間――
 彼女の表情が、凍りついた。

「――止めて!!」

 切羽詰まった声が、馬車内に響く。

「馬車を、止めてください!」

 御者が驚いて手綱を引き、馬車は急停止した。

「リゼット?」

 ルイが名を呼ぶより早く、彼女は扉を押し開け、外へと駆け出していた。




 街の通りのざわめきが、ふっと遠のいた気がした。

 行き交う人々の足音も、馬車の軋む音も、
 風に揺れる看板のきしみさえも、
 すべてが薄い膜の向こうへ押しやられていく。

 アデルの視界には、
 ただ一人――リゼットの姿だけが、鮮明に目に入っていた。 

「……お姉様?」

 震えるほど柔らかな声だった。
 人混みの中で、その呼びかけだけが、はっきりと届く。

 アデルは足を止めた。

 目の前に立っていたのは、涙を流している――リゼットだった。

 淡い色の外套。
 細い肩。
 今にも折れそうな佇まい。

 かつて、守るべき存在だった従妹いとこ

「……リゼット」

 名を呼ぶだけで、喉の奥がひりつく。

 三年半――。
 短いようで、長くもある時間。
 意識の奥で、過去と現在が遠く隔てられてしまったような感覚があった。

「本当に…お目覚めになったのね」

 リゼットは瞳を潤ませ、両手を胸元で重ねたあと、ほっと息をついたように微笑んだ。

「記事を読んで……ずっと、気になっていたの」

 その言葉は、あまりにも自然で、
 あまりにも“優しい妹”のままだった。

 だが――

 その瞬間、
 アデルの横にいたロイクが、静かに一歩前へ出た。

 さりげなく。
 けれど、はっきりとした行動だった。

 アデルとリゼットの間に、身体を差し込んだ。

「……姉上…」

 低い声だった。
 リゼットの視線が、ようやくロイクに向く。

「まぁ…ロイク……!久しぶりね」

 懐かしむような笑み。
 幼い頃と変わらない、姉の顔だった。
 ロイクは、微笑みを返さずに厳しい表情のまま言葉を返した。

「久しぶりだな」

 それだけ言って、視線を逸らす。
 敬意も、親しみも、そこにはなかった。
 ただ、距離だけがあった。

 アデルは、その空気の変化に気づき、
 胸の奥が、きゅっと縮む。

(……ああ)

 気づいてしまった。

 この再会は、喜びのためのものではない。

 リゼットは、ロイクの態度に一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに柔らかな微笑へと戻った。

「……突然、驚かせてしまって、ごめんなさい…」

 そう言って、アデルへと向き直る。

「でも……こうしてお顔を見られて、本当に安心したの。お姉様の身をずっと案じていたから…」

 リゼットの瞳からは涙が一筋、溢れた。
 
「……ええ…心配かけてしまったわね…」

 アデルは、慎重に言葉を選んだ。

 昔のようには、話せない。
 昔のようには、近づけない。

 それを、互いに分かっている。

 沈黙が落ちる。

 その隙間に、ロイクの視線が、通りの向こうを一瞬だけ捉えた。

 ――止まった馬車。
 その陰に、立つ一人の男。

 遠目でも分かる。
 背筋の伸びた立ち姿。

(……やっぱり、いる)

 ロイクは、奥歯を噛み締めた。

 あのが憎い。
 そして、許せなかった。

 だが、ここで感情を出すわけにはいかない。ロイクは、再び一歩、前へ。

「……姉上」

 その呼び方は、どこか硬い。

「ここは人目が多い。話があるなら、改めてだ」

 それは、拒絶ではない。
 だが、明確な線引きだった。

 リゼットは一瞬、驚いたように目を見開き、それから、困ったように微笑んだ。

「……そうね。お姉様を見かけて、思わず飛び出してしまったから…」

 小さく頷き、アデルを見る。

「今日は……これで…」

 名残惜しそうに言葉を継いだ。

 ――その瞬間だった。

「お嬢様!!」

 通りの向こうから、聞き慣れた声が飛び込んでくる。

 息を切らし、人混みをかき分けて現れたのはリセラだった。
 

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