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事務所の扉が開いたのは、夕方も深くなり始めた頃だった。
「ただいま戻りました」
アデルの声に、室内の空気がわずかに揺れる。
続いて、リセラとロイクが入ってきた瞬間――
「リセラ! 遅い!!」
即座に飛んだのは、マティアスの声だった。
「途中で抜け出して、残りの作業がどれだけ大変だったか分かっていますか!?
書類の仕分けに、例の匿名文書の照合、それに——」
そこまで一気に言って、マティアスは息をつく。
普段はきっちり整えられている髪は、今日は珍しく乱れていた。
袖口もわずかに捲れ、机の上には未整理の封筒が積み上がっている。
その様子を一目見て、リセラは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに口を尖らせた。
「……悪かったとは思ってるけどよ。
キーキー細けぇ男だな。お嬢様のピンチだったんだ、仕方ねぇべ」
「……マティアスさん、本当にごめんなさい」
アデルが申し訳なさそうに頭を下げる。
「アデルさん…いや、貴女が謝る必要はないです。僕は、リセラに怒っているんですから」
マティアスは、慌てて首を振った。
リセラが、感情を露わにして声を張り上げた。
「それどころじゃなかったんだど!!」
机を叩くでもなく、拳を握り締めたまま、言葉だけが先に飛び出す。
「街で……会っちまったんだ。会いたくもねぇ相手に、真正面からだ」
「……え、会った?」
マティアスが眉をひそめる。
その時だった。
「――続けて」
低く、落ち着いた声が、奥から響いた。
裁判から戻ったばかりのクロードが、外套を脱ぎながら立っていた。
いつものように疲労の色は見せないが、視線は鋭く、すでに話の核心を捉えている。
「誰に会った?」
一瞬、室内が静まり返る。
答えたのは、ロイクだった。
「……モントレー伯爵家の…」
「――伯爵夫妻……?」
マティアスの顔色が変わり、尋ねる。
リセラが、歯を食いしばるように続けた。
「いいや、リゼット様と……ルイ様だ」
空気が、目に見えて重くなる。
クロードは、何も言わない。
ただ、椅子に腰を下ろし、静かに耳を傾ける姿勢を取った。
「偶然だと思う。あの通りは人の行き来も多いし、時間帯も重なりやすい」
あくまで冷静な分析。
そこに、疑念や断定は含まれていない。
「向こうの馬車が止まって……偶然に声をかけられたんだ」
ロイクの声音には、警戒はあっても確信はない。リセラが歯を食いしばる。
「偶然にしちゃあ、胸糞悪すぎるだろ……」
クロードの視線が、わずかに細まるが、口は挟まない。
「それで……?」
促したのは、クラリスだった。
リセラが一歩前に出る。
「……わだす、我慢できなかった。お嬢様をあんな目で見て……侍女だって、平気で侮辱して……」
「リセラ…」
アデルが、静かに名を呼ぶ。
「……でも」
ロイクが低く言う。
「俺は、止めなかった。止める資格があるとも、思えなかった」
その言葉に、リセラは驚いたようにロイクを見る。
「ロイク様……」
クロードが、ここで初めて口を開いた。
「感情が爆発するのは、無理もない。衝突するのは、避けられない再会だった」
穏やかな声だった。
「だが、今日の件は――重要だ」
視線が、クロードに集まる。
全員の話を聞き終えたあと、クロードはしばらく黙っていた。
机の端に肘をつき、指先を軽く組む。
その沈黙は、思案というより——整理に近かった。
(偶然か)
まず、その可能性を切り分ける。
街は人が多い。
時間帯も特別ではない。
伯爵家の馬車が通ること自体も、不自然ではない。
——理屈だけを並べれば、「偶然」で片づけることはできる。
だが。
(違和感が、残る)
クロードは、リセラの語り口を思い返す。
感情的で、言葉は荒い。
だが——彼女は、勘だけで騒ぐ人間ではない。
ロイクの説明も同様だ。
あくまで冷静に、状況だけを述べていた。
「仕組まれた」とは言わない。
だが、「おかしかった」とは、はっきり言った。
(偶然にしては、重なりすぎている)
外回りの時間。
通りの選択。
馬車の停止位置。
どれも単独では弱い。
だが、重なると——線になる。
クロードは、視線をアデルに向けた。
彼女は静かに座っている。
感情を抑え、話を遮らず、誰も責めない。
——だが、分かる。
彼女は、あの場で一番、傷を受けていた。
(……狙いがあるとすれば)
相手の目的は、直接的な危害ではない。
恐怖を植えつける。
過去を突きつける。
心を揺らす。
(“圧”だ)
法廷に出る前の圧。
書類ではなく、人間にかける圧力。
それは、エドガー・ヴァレンのやり方と、よく似ている。
(同じ流れの中にある)
クロードは、そこで一度、思考を止めた。
(まだ、断定はしない)
断定は、判断を鈍らせる。
敵を決めつければ、視野が狭まる。
今、必要なのは——
(“備える”ことだ)
クロードは、静かに口を開いた。
「……今回の件は、偶然の可能性もある」
一瞬、リセラが何か言いかけるが、彼は視線で制した。
「だが、“偶然だったとしても”、無視はしない」
全員を見る。
「街での接触は、これから増えるかもしれない。
善意を装ったものも、敵意を隠したものも含めてだ」
ロイクが、わずかに頷いた。
「護衛体制は、このまま維持する。外回りは必ず複数で。時間と経路も、固定しない」
そして、最後にアデルを見る。
声は、いつもと変わらず静かだ。
だが、その言葉は、はっきりと彼女を守る位置にあった。
「……君の身の回りは、これから騒がしくなるだろう。
だが、それを恐れる必要はない」
静かに続ける。
「正しい場所に立つ者ほど、風を受けるものだ」
アデルは、わずかに目を見開き、
そして、ゆっくりと頷いた。
クロードは、心の中で結論を下す。
(これは、始まりだ)
だが——
(まだ、主導権はこちらにある)
街での再会は、刃ではない。
ただの“接触”だ。
ならば。
(こちらは、次の一手を静かに用意するだけだ)
クロード・ベルヌーは、
そう判断した。
——冷静に。
——確実に。
そして何より、
アデルを中心に、守りを固めながら。
「ただいま戻りました」
アデルの声に、室内の空気がわずかに揺れる。
続いて、リセラとロイクが入ってきた瞬間――
「リセラ! 遅い!!」
即座に飛んだのは、マティアスの声だった。
「途中で抜け出して、残りの作業がどれだけ大変だったか分かっていますか!?
書類の仕分けに、例の匿名文書の照合、それに——」
そこまで一気に言って、マティアスは息をつく。
普段はきっちり整えられている髪は、今日は珍しく乱れていた。
袖口もわずかに捲れ、机の上には未整理の封筒が積み上がっている。
その様子を一目見て、リセラは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに口を尖らせた。
「……悪かったとは思ってるけどよ。
キーキー細けぇ男だな。お嬢様のピンチだったんだ、仕方ねぇべ」
「……マティアスさん、本当にごめんなさい」
アデルが申し訳なさそうに頭を下げる。
「アデルさん…いや、貴女が謝る必要はないです。僕は、リセラに怒っているんですから」
マティアスは、慌てて首を振った。
リセラが、感情を露わにして声を張り上げた。
「それどころじゃなかったんだど!!」
机を叩くでもなく、拳を握り締めたまま、言葉だけが先に飛び出す。
「街で……会っちまったんだ。会いたくもねぇ相手に、真正面からだ」
「……え、会った?」
マティアスが眉をひそめる。
その時だった。
「――続けて」
低く、落ち着いた声が、奥から響いた。
裁判から戻ったばかりのクロードが、外套を脱ぎながら立っていた。
いつものように疲労の色は見せないが、視線は鋭く、すでに話の核心を捉えている。
「誰に会った?」
一瞬、室内が静まり返る。
答えたのは、ロイクだった。
「……モントレー伯爵家の…」
「――伯爵夫妻……?」
マティアスの顔色が変わり、尋ねる。
リセラが、歯を食いしばるように続けた。
「いいや、リゼット様と……ルイ様だ」
空気が、目に見えて重くなる。
クロードは、何も言わない。
ただ、椅子に腰を下ろし、静かに耳を傾ける姿勢を取った。
「偶然だと思う。あの通りは人の行き来も多いし、時間帯も重なりやすい」
あくまで冷静な分析。
そこに、疑念や断定は含まれていない。
「向こうの馬車が止まって……偶然に声をかけられたんだ」
ロイクの声音には、警戒はあっても確信はない。リセラが歯を食いしばる。
「偶然にしちゃあ、胸糞悪すぎるだろ……」
クロードの視線が、わずかに細まるが、口は挟まない。
「それで……?」
促したのは、クラリスだった。
リセラが一歩前に出る。
「……わだす、我慢できなかった。お嬢様をあんな目で見て……侍女だって、平気で侮辱して……」
「リセラ…」
アデルが、静かに名を呼ぶ。
「……でも」
ロイクが低く言う。
「俺は、止めなかった。止める資格があるとも、思えなかった」
その言葉に、リセラは驚いたようにロイクを見る。
「ロイク様……」
クロードが、ここで初めて口を開いた。
「感情が爆発するのは、無理もない。衝突するのは、避けられない再会だった」
穏やかな声だった。
「だが、今日の件は――重要だ」
視線が、クロードに集まる。
全員の話を聞き終えたあと、クロードはしばらく黙っていた。
机の端に肘をつき、指先を軽く組む。
その沈黙は、思案というより——整理に近かった。
(偶然か)
まず、その可能性を切り分ける。
街は人が多い。
時間帯も特別ではない。
伯爵家の馬車が通ること自体も、不自然ではない。
——理屈だけを並べれば、「偶然」で片づけることはできる。
だが。
(違和感が、残る)
クロードは、リセラの語り口を思い返す。
感情的で、言葉は荒い。
だが——彼女は、勘だけで騒ぐ人間ではない。
ロイクの説明も同様だ。
あくまで冷静に、状況だけを述べていた。
「仕組まれた」とは言わない。
だが、「おかしかった」とは、はっきり言った。
(偶然にしては、重なりすぎている)
外回りの時間。
通りの選択。
馬車の停止位置。
どれも単独では弱い。
だが、重なると——線になる。
クロードは、視線をアデルに向けた。
彼女は静かに座っている。
感情を抑え、話を遮らず、誰も責めない。
——だが、分かる。
彼女は、あの場で一番、傷を受けていた。
(……狙いがあるとすれば)
相手の目的は、直接的な危害ではない。
恐怖を植えつける。
過去を突きつける。
心を揺らす。
(“圧”だ)
法廷に出る前の圧。
書類ではなく、人間にかける圧力。
それは、エドガー・ヴァレンのやり方と、よく似ている。
(同じ流れの中にある)
クロードは、そこで一度、思考を止めた。
(まだ、断定はしない)
断定は、判断を鈍らせる。
敵を決めつければ、視野が狭まる。
今、必要なのは——
(“備える”ことだ)
クロードは、静かに口を開いた。
「……今回の件は、偶然の可能性もある」
一瞬、リセラが何か言いかけるが、彼は視線で制した。
「だが、“偶然だったとしても”、無視はしない」
全員を見る。
「街での接触は、これから増えるかもしれない。
善意を装ったものも、敵意を隠したものも含めてだ」
ロイクが、わずかに頷いた。
「護衛体制は、このまま維持する。外回りは必ず複数で。時間と経路も、固定しない」
そして、最後にアデルを見る。
声は、いつもと変わらず静かだ。
だが、その言葉は、はっきりと彼女を守る位置にあった。
「……君の身の回りは、これから騒がしくなるだろう。
だが、それを恐れる必要はない」
静かに続ける。
「正しい場所に立つ者ほど、風を受けるものだ」
アデルは、わずかに目を見開き、
そして、ゆっくりと頷いた。
クロードは、心の中で結論を下す。
(これは、始まりだ)
だが——
(まだ、主導権はこちらにある)
街での再会は、刃ではない。
ただの“接触”だ。
ならば。
(こちらは、次の一手を静かに用意するだけだ)
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——冷静に。
——確実に。
そして何より、
アデルを中心に、守りを固めながら。
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