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「……こんな時間に、珍しいな」
アデルは、はっとして振り返った。
「……先生」
手にした雑巾を、思わず胸元に引き寄せる。
「す、すみません。うるさくしてしまって……」
声は抑えていたつもりでも、わずかに揺れていた。クロードは即座に首を振る。
「いや。音は問題ない」
迷いのない否定だった。
叱責の色も、咎める気配もない。
「事務所で仕事をしていてね。二階の倉庫から物音がしたから……泥棒か、ネズミかと思って、確認しに来ただけだ」
穏やかな口調でそう言う。
アデルは少しだけ微笑み、戯けるように答えた。
「正解は……掃除をするネズミでした」
「ふふ……良いネズミだな」
二人の間に、緩やかな空気が流れる。
短く笑い合ったあと、クロードは倉庫の中を一度だけ見渡した。
濡れた床。
脇に置かれた水桶。
整えられ始めた棚。
(……眠れなかったか)
「君は、伯爵家の令嬢だろう? 掃除が得意だとは意外だな」
「先生、元伯爵令嬢です。我が家では、貴族の礼儀作法よりも、暮らしの作法を学ぶことの方が多かったので」
アデルは、ふわりと笑う。
「もともと、令嬢らしい気質でもなかったんです。父も母も、あまり厳しくありませんでしたし」
「君の両親……モントレー夫妻は、とても人格者だと評判だ」
「ふふ……お人好しですけどね」
アデルは一瞬だけ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「今日は……頭がいっぱいで……なかなか眠れなかったんです」
「……そうか」
「じっとしているより、身体を動かした方がいいと思って。勝手に、掃除をさせてもらっていました」
クロードは、その言葉を否定しなかった。
むしろ、ほんのわずかに口元を緩める。
「悪くない選択だな」
そう言ってから、少しだけ間を置く。
「だが……一人でやる必要はない」
アデルが、はっと顔を上げる。
「え……?」
クロードは静かに息を吐いた。
「今夜は、もう十分だ。それ以上やると、疲れが残る」
そう言って、倉庫の扉の方へ視線を向ける。
「……一杯、付き合わないか」
「一杯……?」
「紅茶でもいいし、眠れそうにないなら……少しだけ酒でもいい」
その言い方は、どこか不器用で、
だからこそ、無理に誘っているわけではないことが、はっきりと伝わってきた。
*
一階の事務所へ降りると、夜の空気はさらに静かだった。
昼間は人の気配に満ちている応接室も、今は別の場所のように感じられる。
クロードは迷いなく給湯室へ向かい、慣れた手つきで茶器を取り出した。
「紅茶でいいかな。良い茶葉を仕入れたんだ」
「……はい。先生、自ら茶葉を買いに行かれるのですか?」
答えながら、アデルは少し意外に思い、質問をする。クロードは、酒を嗜む人だとばかり思っていたからだ。
「ああ。大通りにある専門店から買ってきたんだ。ここのアールグレイが好きでね」
湯が沸く音の中で、彼は淡々と、しかしどこか柔らかく言った。
「実は、酒はそれほど好きじゃない。付き合い程度だよ」
「え……?」
意外な返答にアデルは思わず驚く。
「この歳で飲めないと、妙に馬鹿にされることが多くてね。だから、場に合わせて飲んでいるだけだ」
茶葉を量り、ティーポットに湯を注ぐ所作は丁寧で、無駄がない。
「味だけで言えば、紅茶の方がはるかに好きだ。これが唯一の趣味かもしれない」
アデルは思わず目を瞬きさせた。
「……先生…趣味があったんですね。てっきり仕事が趣味かと…」
「失礼だな」
そう言いながらも、クロードはかすかに笑った。
カップが差し出され、二人は応接室のテーブルを挟んで向かい合う。
湯気とともに、アールグレイの華やかな香りがふわりと広がった。
「……とても美味しいです」
「それは良かった」
一口含み、アデルはしばらく黙り込む。
そして、少し躊躇ってから口を開いた。
「……先生、質問しても良いですか…?」
「なんだ、堅苦しいな」
その言葉に背中を押され、アデルは恐る恐る尋ねる。
「先生は…おいくつなんですか?」
自分でも、唐突な質問だと思った。
だが、どうしても気になってしまった。
クロードは一瞬だけ考えるように視線を上げ、それから答える。
「もうすぐ、三十だ」
「……そうなんですね」
若いようでいて、落ち着きがありすぎる。物腰も、話し方も、年齢が掴めなかった理由が、少しだけ分かった気がした。
「法曹界では、若いというだけで舐められることが多い」
クロードは肩をすくめる。
「だから、早く歳を取りたいと思っているくらいなんだ」
その言葉に、アデルは小さく笑った。
いつになく饒舌な彼が、どこか不思議だった。
(……あ)
その時、胸の奥で静かに理解する。
――私が、落ち込まないように。
――気を紛らわせようとしてくれているのだ、と。
それを指摘するのは、きっと野暮だろう。
だからアデルは、ただ紅茶を両手で包み込み、湯気越しに彼を見る。
「……ありがとうございます、先生」
何に対して、とは言わなかった。
それでもクロードは、ゆっくりと頷いた。
「今夜は、無理をしなくていい」
その声は低く、穏やかな響きだった。
「少なくとも、この部屋にいる間はね」
紅茶の香りに包まれながら、アデルは久しぶりに、心の奥の緊張がほどけていくのを感じていた。
アデルは、はっとして振り返った。
「……先生」
手にした雑巾を、思わず胸元に引き寄せる。
「す、すみません。うるさくしてしまって……」
声は抑えていたつもりでも、わずかに揺れていた。クロードは即座に首を振る。
「いや。音は問題ない」
迷いのない否定だった。
叱責の色も、咎める気配もない。
「事務所で仕事をしていてね。二階の倉庫から物音がしたから……泥棒か、ネズミかと思って、確認しに来ただけだ」
穏やかな口調でそう言う。
アデルは少しだけ微笑み、戯けるように答えた。
「正解は……掃除をするネズミでした」
「ふふ……良いネズミだな」
二人の間に、緩やかな空気が流れる。
短く笑い合ったあと、クロードは倉庫の中を一度だけ見渡した。
濡れた床。
脇に置かれた水桶。
整えられ始めた棚。
(……眠れなかったか)
「君は、伯爵家の令嬢だろう? 掃除が得意だとは意外だな」
「先生、元伯爵令嬢です。我が家では、貴族の礼儀作法よりも、暮らしの作法を学ぶことの方が多かったので」
アデルは、ふわりと笑う。
「もともと、令嬢らしい気質でもなかったんです。父も母も、あまり厳しくありませんでしたし」
「君の両親……モントレー夫妻は、とても人格者だと評判だ」
「ふふ……お人好しですけどね」
アデルは一瞬だけ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「今日は……頭がいっぱいで……なかなか眠れなかったんです」
「……そうか」
「じっとしているより、身体を動かした方がいいと思って。勝手に、掃除をさせてもらっていました」
クロードは、その言葉を否定しなかった。
むしろ、ほんのわずかに口元を緩める。
「悪くない選択だな」
そう言ってから、少しだけ間を置く。
「だが……一人でやる必要はない」
アデルが、はっと顔を上げる。
「え……?」
クロードは静かに息を吐いた。
「今夜は、もう十分だ。それ以上やると、疲れが残る」
そう言って、倉庫の扉の方へ視線を向ける。
「……一杯、付き合わないか」
「一杯……?」
「紅茶でもいいし、眠れそうにないなら……少しだけ酒でもいい」
その言い方は、どこか不器用で、
だからこそ、無理に誘っているわけではないことが、はっきりと伝わってきた。
*
一階の事務所へ降りると、夜の空気はさらに静かだった。
昼間は人の気配に満ちている応接室も、今は別の場所のように感じられる。
クロードは迷いなく給湯室へ向かい、慣れた手つきで茶器を取り出した。
「紅茶でいいかな。良い茶葉を仕入れたんだ」
「……はい。先生、自ら茶葉を買いに行かれるのですか?」
答えながら、アデルは少し意外に思い、質問をする。クロードは、酒を嗜む人だとばかり思っていたからだ。
「ああ。大通りにある専門店から買ってきたんだ。ここのアールグレイが好きでね」
湯が沸く音の中で、彼は淡々と、しかしどこか柔らかく言った。
「実は、酒はそれほど好きじゃない。付き合い程度だよ」
「え……?」
意外な返答にアデルは思わず驚く。
「この歳で飲めないと、妙に馬鹿にされることが多くてね。だから、場に合わせて飲んでいるだけだ」
茶葉を量り、ティーポットに湯を注ぐ所作は丁寧で、無駄がない。
「味だけで言えば、紅茶の方がはるかに好きだ。これが唯一の趣味かもしれない」
アデルは思わず目を瞬きさせた。
「……先生…趣味があったんですね。てっきり仕事が趣味かと…」
「失礼だな」
そう言いながらも、クロードはかすかに笑った。
カップが差し出され、二人は応接室のテーブルを挟んで向かい合う。
湯気とともに、アールグレイの華やかな香りがふわりと広がった。
「……とても美味しいです」
「それは良かった」
一口含み、アデルはしばらく黙り込む。
そして、少し躊躇ってから口を開いた。
「……先生、質問しても良いですか…?」
「なんだ、堅苦しいな」
その言葉に背中を押され、アデルは恐る恐る尋ねる。
「先生は…おいくつなんですか?」
自分でも、唐突な質問だと思った。
だが、どうしても気になってしまった。
クロードは一瞬だけ考えるように視線を上げ、それから答える。
「もうすぐ、三十だ」
「……そうなんですね」
若いようでいて、落ち着きがありすぎる。物腰も、話し方も、年齢が掴めなかった理由が、少しだけ分かった気がした。
「法曹界では、若いというだけで舐められることが多い」
クロードは肩をすくめる。
「だから、早く歳を取りたいと思っているくらいなんだ」
その言葉に、アデルは小さく笑った。
いつになく饒舌な彼が、どこか不思議だった。
(……あ)
その時、胸の奥で静かに理解する。
――私が、落ち込まないように。
――気を紛らわせようとしてくれているのだ、と。
それを指摘するのは、きっと野暮だろう。
だからアデルは、ただ紅茶を両手で包み込み、湯気越しに彼を見る。
「……ありがとうございます、先生」
何に対して、とは言わなかった。
それでもクロードは、ゆっくりと頷いた。
「今夜は、無理をしなくていい」
その声は低く、穏やかな響きだった。
「少なくとも、この部屋にいる間はね」
紅茶の香りに包まれながら、アデルは久しぶりに、心の奥の緊張がほどけていくのを感じていた。
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