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その夜――。
モントレー邸の奥、執務室には灯りが一つだけともされていた。
分厚い書類机の向こうで、モーリスは腕を組み、苛立ちを隠そうともせず立っている。
扉が閉まる音。
呼び出されたルイは、いつもと変わらぬ足取りで中へ入った。
「……アデルに会ったらしいな?」
前置きもなく、低い声が飛ぶ。
「ええ。街で偶然に」
ルイは淡々と答え、椅子に腰を下ろすこともなく、ただ立ったまま向き合った。
「偶然、ね」
モーリスは鼻で笑う。
「リゼットが、戻ってからずっと落ち込んでいる。顔色も悪いし、部屋に籠もりきりだ」
苛立ちを隠さずにモーリスは続ける。
「……酷いことを言われたのだろう?」
責めるような視線を向けるが、ルイは眉一つ動かさない。
「いえ。古くから仕えている侍女が少し…ただ、そこまでの侮辱ではありません」
「では、なぜだ」
モーリスの声が上擦った。
「アデルめ……あの、小賢しい女が、何か吹き込んだに違いない」
ルイは、そこで初めて少しだけ言葉を選んだ。
「……彼女の護衛が、ロイクでしたよ」
その名が落ちた瞬間、執務室の空気が、ぴたりと止まった。
モーリスの表情から、血の気が引く。
「……な、なんだと?」
低く、押し殺した声だった。
「ロイクが?あの、家を捨てるように騎士団へ行った……?」
机に置かれた指が、きしりと鳴るほど強く組まれる。
「騎士団の制服を着ていました。街中でも、周囲をよく見ていましたよ」
事実だけを淡々と告げるルイの口調が、
かえってモーリスの神経を逆なでする。
「……あの子の前に、あいつが立ったというのか!あの馬鹿息子っ!」
視線が宙をさまよい、やがて床に落ちる。
「リゼットに……どんな顔を向けた」
モーリスの言葉の端が、わずかに震えた。
「家を裏切った男だ。あれほど愚かな選択をしたヤツが……」
「義父上」
ルイの声が、静かに重なる。
強くもなく、だが明確に制する響きだった。
「街中でした。公になるような騒ぎは、ありません」
モーリスは言葉を継ごうとして、口を閉じる。
喉の奥で、更なる苛立ちが渦を巻いているのが見て取れた。
「……だが、リゼットは傷ついている」
「ええ」
ルイは短く答える。
「少なくとも、楽しい再会ではなかったでしょう」
責めるでも、庇うでもない言い方だった。その曖昧さが、モーリスの眉間に深い皺を刻んだ。
「くそっ、アデルめ……」
吐き捨てるように名を呼ぶ。
「今さら何をしに戻ってきた。眠ったままでいればよかったものを」
ルイは、その言葉にも反応を示さない。
代わりに、淡々と続けた。
「確かなのは一つです」
視線が、まっすぐにモーリスを捉える。
「彼女は、もう以前の立場にはいない」
「……何が言いたい」
「ベルヌー法律事務所。騎士団の護衛。そして、ロイク」
一つずつ、静かに並べる。
「彼女の周囲は、すでに変わっています」
モーリスは、重く息を吐いた。
怒りとも、苛立ちともつかない感情を飲み下すように。
「……厄介な話だな」
「今は、刺激しない方が賢明かと」
そう告げるルイの声は、どこまでも落ち着いていた。
モーリスは、しばらく机に視線を落としたまま、やがて渋々と頷いた。
「……ふん。今夜は、そっとしておく」
吐き捨てるように言い放つと、短い仕草でルイに退室を促した。
*
モーリスの執務室を出て、自室へ戻る回廊を歩いていると、背後から声がかかった。
「ルイ様……」
振り返ると、そこに立っていたのは憔悴した様子のリゼットだった。
「リゼット……今日は、もう休んでいると思っていた」
「ええ……休もうとは思っていたの。でも……お姉様のことを考えると、どうしても辛くて……」
肩を震わせ、涙をこぼすリゼットを、ルイはそっと引き寄せた。
「ああ……泣かないでほしい。君に泣かれると、胸が張り裂けそうだ」
「ごめんなさい……」
「いや、いい。……寝室まで送ろう」
リゼットの寝室まで送り届けると、ルイは侍女を呼び止めた。
「ホットミルクを。蜂蜜をたっぷり入れてくれ。リゼットは甘いのが好きだから」
寝室のソファに腰を下ろしたリゼットの隣に、ルイも静かに座った。
その手を包むように、優しく握りしめた。
「リゼット……何が、そんなに辛いのか、話してごらん」
「ルイ様……私……」
俯いたまま、リゼットはか細く言葉を紡ぐ。
「お姉様は事故に遭われて、眠っていらした間に……両親が、酷いことをしたでしょう……?」
一筋、涙が頬を伝った。
「……貴方との婚姻も、強引に進めてしまって……奪ってしまった形になったわ」
「リゼット……違う」
ルイの灰青の瞳が、まっすぐに彼女を捉えた。
「違わないわ……。お姉様からしたら、私たち家族にすべてを奪われたのよ……目覚めて、その現実を突きつけられたら……どれほどショックだったか……」
ルイは言葉を挟まず、ただ静かに彼女を抱きしめ、背中を撫でる。
「……それは、君が背負うことじゃない」
「……ルイ様……?」
「君は、私を奪ってなどいない。君に惹かれたのは、私自身だ」
「ああ……ルイ様……」
リゼットは、彼の広く引き締まった背に、そっと腕を回した。
「今夜……一緒に寝てくださる?」
「……リゼット」
ルイは一瞬だけ躊躇し、彼女の肩に手を置いて距離を取る。
「すまない。先ほど、義父上に呼ばれただろう?その件で、少し仕事が増えてしまった」
「……そう、なのね……」
リゼットが寂しげに目を伏せた、その時だった。
控えめなノック音が響く。
「ホットミルクをお持ちいたしました」
侍女がトレイを運び、湯気の立つカップを静かに差し出す。
「さあ、リゼット。飲み終わるまで、ここにいる」
「……ありがとう、ルイ様」
その夜、リゼットが眠りにつくまで、ルイは彼女の傍を離れなかった。
モントレー邸の奥、執務室には灯りが一つだけともされていた。
分厚い書類机の向こうで、モーリスは腕を組み、苛立ちを隠そうともせず立っている。
扉が閉まる音。
呼び出されたルイは、いつもと変わらぬ足取りで中へ入った。
「……アデルに会ったらしいな?」
前置きもなく、低い声が飛ぶ。
「ええ。街で偶然に」
ルイは淡々と答え、椅子に腰を下ろすこともなく、ただ立ったまま向き合った。
「偶然、ね」
モーリスは鼻で笑う。
「リゼットが、戻ってからずっと落ち込んでいる。顔色も悪いし、部屋に籠もりきりだ」
苛立ちを隠さずにモーリスは続ける。
「……酷いことを言われたのだろう?」
責めるような視線を向けるが、ルイは眉一つ動かさない。
「いえ。古くから仕えている侍女が少し…ただ、そこまでの侮辱ではありません」
「では、なぜだ」
モーリスの声が上擦った。
「アデルめ……あの、小賢しい女が、何か吹き込んだに違いない」
ルイは、そこで初めて少しだけ言葉を選んだ。
「……彼女の護衛が、ロイクでしたよ」
その名が落ちた瞬間、執務室の空気が、ぴたりと止まった。
モーリスの表情から、血の気が引く。
「……な、なんだと?」
低く、押し殺した声だった。
「ロイクが?あの、家を捨てるように騎士団へ行った……?」
机に置かれた指が、きしりと鳴るほど強く組まれる。
「騎士団の制服を着ていました。街中でも、周囲をよく見ていましたよ」
事実だけを淡々と告げるルイの口調が、
かえってモーリスの神経を逆なでする。
「……あの子の前に、あいつが立ったというのか!あの馬鹿息子っ!」
視線が宙をさまよい、やがて床に落ちる。
「リゼットに……どんな顔を向けた」
モーリスの言葉の端が、わずかに震えた。
「家を裏切った男だ。あれほど愚かな選択をしたヤツが……」
「義父上」
ルイの声が、静かに重なる。
強くもなく、だが明確に制する響きだった。
「街中でした。公になるような騒ぎは、ありません」
モーリスは言葉を継ごうとして、口を閉じる。
喉の奥で、更なる苛立ちが渦を巻いているのが見て取れた。
「……だが、リゼットは傷ついている」
「ええ」
ルイは短く答える。
「少なくとも、楽しい再会ではなかったでしょう」
責めるでも、庇うでもない言い方だった。その曖昧さが、モーリスの眉間に深い皺を刻んだ。
「くそっ、アデルめ……」
吐き捨てるように名を呼ぶ。
「今さら何をしに戻ってきた。眠ったままでいればよかったものを」
ルイは、その言葉にも反応を示さない。
代わりに、淡々と続けた。
「確かなのは一つです」
視線が、まっすぐにモーリスを捉える。
「彼女は、もう以前の立場にはいない」
「……何が言いたい」
「ベルヌー法律事務所。騎士団の護衛。そして、ロイク」
一つずつ、静かに並べる。
「彼女の周囲は、すでに変わっています」
モーリスは、重く息を吐いた。
怒りとも、苛立ちともつかない感情を飲み下すように。
「……厄介な話だな」
「今は、刺激しない方が賢明かと」
そう告げるルイの声は、どこまでも落ち着いていた。
モーリスは、しばらく机に視線を落としたまま、やがて渋々と頷いた。
「……ふん。今夜は、そっとしておく」
吐き捨てるように言い放つと、短い仕草でルイに退室を促した。
*
モーリスの執務室を出て、自室へ戻る回廊を歩いていると、背後から声がかかった。
「ルイ様……」
振り返ると、そこに立っていたのは憔悴した様子のリゼットだった。
「リゼット……今日は、もう休んでいると思っていた」
「ええ……休もうとは思っていたの。でも……お姉様のことを考えると、どうしても辛くて……」
肩を震わせ、涙をこぼすリゼットを、ルイはそっと引き寄せた。
「ああ……泣かないでほしい。君に泣かれると、胸が張り裂けそうだ」
「ごめんなさい……」
「いや、いい。……寝室まで送ろう」
リゼットの寝室まで送り届けると、ルイは侍女を呼び止めた。
「ホットミルクを。蜂蜜をたっぷり入れてくれ。リゼットは甘いのが好きだから」
寝室のソファに腰を下ろしたリゼットの隣に、ルイも静かに座った。
その手を包むように、優しく握りしめた。
「リゼット……何が、そんなに辛いのか、話してごらん」
「ルイ様……私……」
俯いたまま、リゼットはか細く言葉を紡ぐ。
「お姉様は事故に遭われて、眠っていらした間に……両親が、酷いことをしたでしょう……?」
一筋、涙が頬を伝った。
「……貴方との婚姻も、強引に進めてしまって……奪ってしまった形になったわ」
「リゼット……違う」
ルイの灰青の瞳が、まっすぐに彼女を捉えた。
「違わないわ……。お姉様からしたら、私たち家族にすべてを奪われたのよ……目覚めて、その現実を突きつけられたら……どれほどショックだったか……」
ルイは言葉を挟まず、ただ静かに彼女を抱きしめ、背中を撫でる。
「……それは、君が背負うことじゃない」
「……ルイ様……?」
「君は、私を奪ってなどいない。君に惹かれたのは、私自身だ」
「ああ……ルイ様……」
リゼットは、彼の広く引き締まった背に、そっと腕を回した。
「今夜……一緒に寝てくださる?」
「……リゼット」
ルイは一瞬だけ躊躇し、彼女の肩に手を置いて距離を取る。
「すまない。先ほど、義父上に呼ばれただろう?その件で、少し仕事が増えてしまった」
「……そう、なのね……」
リゼットが寂しげに目を伏せた、その時だった。
控えめなノック音が響く。
「ホットミルクをお持ちいたしました」
侍女がトレイを運び、湯気の立つカップを静かに差し出す。
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