奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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――午後。

 ベルヌー法律事務所の応接室には、重たい沈黙が落ちていた。

 つい先ほどまでここにいたジェイコブ・スミスは、必要な説明と書類の受け渡しを終え、「改めて連絡を待つ」とだけ告げて帰っていった。

 扉が閉まったあとも、空気だけがそのまま残されている。

 机の上に並べられたのは、二つの契約書。
 ハロルド・クレインのもの。
 そして――ジェイコブ・スミスのもの。

 どちらも似ている。
 だが、同じではない。

「……巧妙になっているな」

 クロードが低く言った。
 マティアスが眼鏡を押し上げる。

「ええ。ハロルドさんの時は“条文のすり替え”が主でしたが、こちらは……」

 契約書を指でなぞる。

「署名の直前に添付された“補足覚書”が肝ですね。形式上は任意提出。
ですが、実質は本契約と不可分になっている」

 話を静かに聞いていたリセラが首を傾げる。

「なんだ?それ、どういうことだっぺ?」

 マティアスは、机の上の契約書を一枚抜き取り、指で軽く叩いた。

「簡単に言うと……」
 
 一度、言葉を選ぶ。

「『これはおまけです』って顔をした紙が、本命なんだ」

 リセラが目を瞬かせる。

「は?おまけ?おまけが本命って、おかしいべさ」

「ああ。おかしいんだ。『補足覚書』という名前がついているけど…」
 マティアスは続けた。

「表向きは『読まなくても契約は成立します』『任意で添付しました』という体裁なんだ。
 だから、署名する側はこう思う」

 ――大事なのは、こっちの契約書だけだろう。

「ところが実際は――」
 
 マティアスは、補足覚書の一文を指でなぞる。

「“本契約と一体として解釈される”と、ちゃんと書いてある」

 アデルが、はっと息を吸う。

「つまり……」

 クロードが、静かに言葉を継いだ。

「署名した瞬間、この紙も自動的に契約の一部になる」

 リセラの顔色が青く変わる。

「じゃあ……」
「ええ」
 
 マティアスが頷いた。

「『これは後で説明します』『細かい調整です』と言われたまま署名すると、気づかないうちに、条件だけがすり替わる」

 クロードは、淡々と締めくくる。

「読ませないための紙だ。だが、法的には一番効く場所に刃を仕込んである」

 リセラは、ぎゅっと拳を握った。

「……卑怯すぎるど!!」

「だからこそ」
 クロードは視線を上げる。

「“折れた人間”は、負けた理由すら分からない」

 応接室内に、重い沈黙が落ちた。

 これは、強引な脅しでも、乱暴な詐欺でもない。“分からないまま奪う”ための、完成されたやり方だった。

(……学習している)

 アデルは、喉の奥がひやりと冷えるのを感じていた。

 エドガー・ヴァレンがいた頃よりも、
 露骨さが消え、責任の所在が曖昧になっている。

「弁護士の名前が出ていません」

 アデルが気づいたことを口にする。

「そうですね……」
 マティアスが頷く。

「監修者は“顧問契約部”とだけ記されています。個人名を出さない」

 クロードは椅子に深く腰掛け、指を組んだ。

「……エドガーは切られたな」

 確信したように呟く。

「代わりに、“名前のない仕組み”が動き出している」

 さらに、その場が静まり返り、空気が、一段と冷える。

「だが――」

 クロードは続ける。

「この手口は、より多くの人間を動かす必要がある。つまり、どこかで必ず綻びが出る」

 その時だった。
 控えめなノックの音が響いた。

「失礼します」

 入ってきたのは、クラリスだった。
 手には、一通の封書を持っている。

「モーリス・モントレー氏の名で、土地の照会依頼が来ています」

 クロードの視線が、すっと上がる。

「モーリス…が照会だと?」

「ええ。“ある土地の相続線”について、確認を求めてきています」

 アデルの心臓が、強く打った。

(……相続?)

 クロードは封を切り、中身に目を走らせる。
 次の瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。

「……なるほど」

「クロード先生?」

「これは、偶然ではない」

 クロードは書面を机に置き、全員に見せた。

「モーリスは“別件”のつもりで動いている。が、彼が照会してきた土地は――」

 アデルを見た。

「ジェイコブ氏の土地と、地下権で繋がっている」

 マティアスが息を呑む。

「それって……」

「ああ」

 クロードは淡々と告げる。

「投機計画が“一枚の地図”で動いている証拠だ」

 アデルの指が、無意識に強く握られる。

(……父の言葉)

『価値がある場所ほど、人が集まる』

 モーリスは、気づいていない。
 自分が照会したその線が、どれほど危険な場所を指しているのかを。

「先生……」

 アデルは静かに言った。

「これは……もう、偶然の被害じゃありませんよね」

「そうだ」

 クロードは即答した。

「点が、線になりかけている。そして――線は、必ず“誰か”の手で引かれている」

 名前は出さない。
 だが、全員が理解していた。

 エドガーではない。
 だが、エドガーが使われていた“側”。

「……動きますか?」

 マティアスが尋ねる。
 クロードは、ゆっくりと頷いた。

「こちらからは、まだ打たない」

 その目は冷静だった。

「モーリスがもう一歩踏み込めば、向こうは自分から尻尾を出す」

 アデルは、深く息を吸った。
 盤面は、確かに動いた。

 しかも今回は――
 敵が自分で、駒を進めている。

 それが何を意味するのか。
 まだ誰も、口にはしなかった。


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