奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

文字の大きさ
40 / 171

40

 ベルヌー法律事務所の灯りは、まだ落ちていなかった。

 通りの家々が一軒、また一軒と闇に沈んでいく中で、一階の事務所の窓だけが、夜更けの街に淡く浮かび上がっている。

 机に積まれた書類の影が、蝋燭とランプの光に揺れ、時折、紙を繰る音が静寂を裂いた。

 時計の針は、とっくに日付を跨いでいる。
 それでも誰一人、帰ろうとはしなかった。

机には、契約書、測量記録、地図、照会書の控えが広がっている。

 クロードは椅子に深く腰掛け、眼鏡の奥で書類を追い続けている。

 マティアスは隣で数字と条文を照らし合わせ、時折、低く唸るようにペンを走らせた。

 アデルとクラリスは古い記録をめくりながら、付箋を挟み、静かに必要な箇所を抜き出していく。

「はい、お茶だべ。まだ温かいよ」

 小さな声でそう言って、リセラが湯気の立つカップを机に並べた。

 誰かが声をかける前に、必要な場所へ、必要なものを置いていく。

 冷え始めたパンと簡単な食事。
 調べ物に必要な分厚い本。
 開きっぱなしの地図の端が丸まらないよう、文鎮代わりの小物。

「この辺の地図、古い版も必要だべ。机に置いておくからな」

 リセラはそれだけで満足したように頷き、また奥へ引っ込む。

 誰も気づかないところで、誰よりも早く気づいて、誰よりも動いている。

 それが、今夜の彼女の役目だった。

 アデルは書類の写しを揃えながら、その様子を横目で見ていた。

 胸の奥に、静かな熱が灯る。

(……この人たちとなら)

 疲労は確かに溜まっている。
 だが、不思議と、心は折れていなかった。

 むしろ――
 ここにいる全員が、同じ方向を向いていることが、何よりの支えだった。

「先生、ハロルド氏の件ですが」
 
 マティアスが、控えめに声を上げる。

「投資話を最初に持ち込んだのは、“街道沿いの商会に出入りしている仲介人”です。名前は……ルーカス・ベイン」

 クロードが静かに頷く。

「ジェイコブ氏は?」

「こちらは、“測量関係者を名乗る男”です。
名は違いますが、紹介された場所と文言が……ほぼ同じです」

 アデルが顔を上げる。

「“急がなくていい”
 “安全な投資だ”
 “皆やっている”……ですよね」

「そうです」

 マティアスは紙を差し出した。

「言葉が、揃いすぎています」

 クロードは、その紙に目を通しながら、静かに言った。

「同じ台本だな」

 その一言で、全員が理解する。
 これは偶然でも、個人の悪意でもない。
 だ。

「紹介役は、複数いるはずだ」

 クロードは続ける。

「だが、“どこに繋げるか”を決めている人間は一人だ」

 クラリスが、ゆっくりと言葉を挟んだ。

「……指示役ですね」

「そうだ」

 クロードは視線を上げた。

「契約書を書いた弁護士が退いても、紹介役が残っていれば、いくらでも同じことは起こる」

 アデルは、胸の奥が冷えていくのを感じていた。

(……だから、終わらなかった)

 エドガーが退いたのに、“次”が現れた理由。

「次の一手は?」

 マティアスが尋ねる。
 クロードは、ほんのわずかに口角を上げた。

「“駒を一つ進める”」

 クロードは、淡々と言った。

「……駒、ですか…?」

 アデルが問い返すと、彼は机上の地図に視線を落とす。

「そうだ。価値はあるが、すぐには動かせない土地」

 指先が、地図上のある地点で止まる。

「しかも――こちらが管理していると、誰の目にも分かる場所」

 アデルの胸に、すとんと落ちた。

「……相手が、触らずにはいられない位置ですね」

「その通り」

 クロードは、わずかに頷く。

「駒を一つ進めれば、相手は“何もしない”か、“動く”かを選ばされる」

 静かな声で、さらに続ける。

「動かなければ、こちらの線が通る。動けば――」

 一拍、間を開けて、クロードは継なぐ。

「誰が、どの手で、どこまで関与しているかが見える」

 アデルは、息を呑む。
 これは挑発ではない。
 罠でもない。
 盤面を進めるための、正当な一手だった。

「……始まりますね」

 アデルが呟くと、クロードは短く答えた。

「ああ。もう、始まっているんだ」

「……まさか」

 クロードは、彼女を見る。

「君の旧家が慎重に扱ってきた区域。――あの線の周辺だ」

 言葉に、室内が静まり返る。

「危険では……?」

 思わず、アデルが口にする。
 クロードは、即座に否定した。

「実際に動かすわけじゃない。“動かせそうだ”という情報だけを、流す」

 マティアスが理解した。

「紹介役が、その情報に反応するかを見る……」

「そうだ」

 クロードは頷く。

「食いついた瞬間、“誰が、どこへ、どう繋ぐか”が見える」

 アデルは、ゆっくりと息を吐いた。

(……静かな戦いだ)

 剣も、怒鳴り声もない。
 だが、確実に相手の喉元へ近づいている。

「君は、どうする?」

 クロードが、ふいにアデルへ視線を向けた。

「……私は」

 一瞬だけ迷い、それから、はっきりと言う。

「逃げません。父が守ろうとしたものが、誰かの餌にされるのなら……私は、立ち向かいます」

 クロードは、その答えを否定しなかった。

「分かった」

 短い言葉だった。

「では、始めよう」

 窓の外では、夜の街が静かに息づいている。

 だが、その裏で、ベルヌー法律事務所は――ようやく、相手の正体に触れ始めていた。

あなたにおすすめの小説

真実の愛の裏側

藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。 男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――? ※ 他サイトにも投稿しています。

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした

ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?  ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた

アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。 高校生くらいから何十回も告白した。 全て「好きなの」 「ごめん、断る」 その繰り返しだった。 だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。 紛らわしいと思う。 彼に好きな人がいるわけではない。 まだそれなら諦めがつく。 彼はカイル=クレシア23歳 イケメンでモテる。 私はアリア=ナターシャ20歳 普通で人には可愛い方だと言われた。 そんなある日 私が20歳になった時だった。 両親が見合い話を持ってきた。 最後の告白をしようと思った。 ダメなら見合いをすると言った。 その見合い相手に溺愛される。

【完結】愛する人のために

月樹《つき》
恋愛
カスペル公爵令嬢デルフィーヌは、幼い頃その愛くるしい笑顔に一目惚れしたクリストファー王子に請われ、彼の婚約者となった。 けれど王子妃としての厳しい教育を受けるうちに、彼が好きだった笑顔は滅多に見られなくなり…気がつけば彼の側には、デルフィーヌではなく屈託なく笑う平民の聖女アネモネの姿を見かけるようになる…。 『あなたのために、私は無邪気な笑顔もなくしたのに…』 このお話は愛する誰かのために生きる人達のお話です。 三部仕立てで、お話はそれぞれの視点で描かれております。 ※他サイトでも投稿しております。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

必要とされなくても、私はここにいます

あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。 けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。 口出ししない。 判断を奪わない。 必要以上に関わらない。 ただ静かに、そこにいるだけ。 そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。 張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。 何かを勝ち取る物語ではない。 誰かを打ち負かす物語でもない。 それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。 これは、 声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、 何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、 静かでやさしい結婚生活の物語。