奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 モントレー伯爵家では、土地管理に関する定例の報告が行われていた。

 代替わりや相続が続いた近年、名義や境界が曖昧な土地は少なくない。

 特に、旧領に近い郊外の土地は、放置すれば揉め事の火種になりやすかった。

「最近、周辺で土地絡みの訴えが増えているそうです」

 モーリスに長く仕えている執事が淡々と告げる。

「投資話を装った契約や、境界解釈を巡る係争が、いくつか確認されています」

 モーリスは書類に目を落としたまま、低く鼻を鳴らした。

 口元には、笑みとも嘲りともつかない歪みが浮かぶ。
 年月を重ねた細い目は、感情を隠すことに慣れきっており、その奥では、常に損得と先手だけが冷たく計算されていた。

「……くだらん。昔からある話だ」

 そう言いながらも、ページをめくる指は止まらない。
 やがて、ある地図の一点で、わずかに動きが鈍った。

「だが――」

 執事が続きを促すように視線を上げる。

「同じような手口が、短期間に重なるのは珍しいかと」

「……まあ、そうだな」

 モーリスは背もたれに身を預け、腕を組んだ。

「こちらが先に確認しておけば、余計な疑いを持たれずに済む」

 まるで当然の管理業務のように言葉を返した。

「旧領の一部について、法的な整理を進めろ。照会を出す」

「どちらへ?」

「ベルヌー法律事務所だ」

 執事の眉が、ほんのわずかに動く。

「最近、そちらの事務所は、何かと相談が増えていると聞きますが……」

「だからこそ、だ」

 モーリスは短く言い切る。
 執事は、ルイを呼びに一旦、退室をした。

「こちらが先に動いておけば、向こうも余計な憶測はしないだろう」

それは抗議でも牽制でもない。
盤面の外から置かれた、静かな一手に過ぎなかった。

「……執事、ルイを呼んでくれ」
「かしこまりました」

 執事は静かに頭を下げ、執務室を後にする。
 重厚な扉が閉じ、室内に短い静寂が落ちた。

 しばらくして、控えめなノックが響く。

「失礼いたします」

 入ってきたのはルイだった。
 執務の合間だったのだろう、上着は脱がれ、袖口を整えながら一礼する所作に、無駄がない。

「義父上。お呼びと伺いました」

「ああ……土地管理の件でな。お前にも話しておく必要があると思って」

 モーリスは書類から視線を上げ、短く告げた。

「……土地管理、ですか?」

 ルイは自然な調子で聞き返しながら、机上に広げられた地図へと目を向けた。

 その中の一点で――
 ほんの一瞬だけ、視線が留まった。

 だが、それは意識して見ていなければ、気づかないほど短い間だった。

「旧領寄りの土地に、印が付いていますね」

「そうだ」

 モーリスは腕を組み、低く続ける。

「価値のある土地ほど、放置すれば厄介事を招く。代替わりも続いている今、境界や名義が曖昧な場所は先に整理しておくに越したことはない」

「……照会を出すおつもりですか」

 ルイは、感情を滲ませない声で尋ねた。

「ふっ……理解が早いな」

 モーリスは小さく鼻を鳴らす。

「モントレー家は、やましいことがないからこそ、先手を打つ。
後ろめたいと疑われる前に、線を引いておく必要がある」

「となると……照会先の選定が重要になりますね」

 ルイは淡々と続ける。

「すでに、お決めになっているようですが」

「……ああ、そうだ」

 モーリスは迷いなく答えた。

「ベルヌー法律事務所に依頼する」

 その名を口にした瞬間、ルイの反応が、ほんの一拍だけ遅れた。

「……今、話題の事務所ですね」

「ほう。もう噂は耳にしているか」

「ええ。最近は動きが目立ちますから。何かと話が入ってきます」

 そう言って、ルイはわずかに口元を緩めた。
 モーリスは書類に視線を落としたまま、低く続けた。

「クロード・ベルヌーは厄介な人間だ。平民の血が混じっているとはいえ、半分は公爵家の血が流れている」

 紙をめくる音が、妙に大きく響いた。

「ブランシェ公爵家は、“王家の法の番人”とまで言われた血筋だ。
そのくせ――優秀な弁護士になったのは、クロード一人。まったく皮肉な話だ」

「……他には、いないのですね」

「ああ。家を継いだ次男の子どもたちは、揃いも揃って凡庸だ。法曹の世界にすら入れていない」

 吐き捨てるような口調だった。
 だが、ルイは視線を逸らさず、静かに言葉を返す。

「あの事務所は……依頼を選び、安易な妥協をしない。示談で曖昧に終わらせることもない――評判通りなら、確かに厄介な相手です」

 モーリスは、鼻で小さく笑った。

「それで?」

「……義父上のお考えは、理解できます」

 ルイは落ち着いた声で続ける。

「敵か味方かを量るには、ちょうどいい相手ですから」

 その言葉に、執事が一瞬だけ視線を伏せた。
 モーリスは、じっとルイを見据える。

「お前は、どう思う?」

 問いは短い。
 だが、その裏に含まれた意味は重かった。

 ルイは、わずかに間を置いてから答える。

「問題が表に出る前に確認するのは、賢明です。それに――」

 一呼吸置き、言葉を選ぶ。

「ベルヌーは、表に出た案件しか扱いません。
裏を疑われるよりも、“正面から”線を引く方が、安全でしょう」

 モーリスは、ふっと口角を上げた。

「……余計な勘繰りをされずに済む、というわけだな」

「はい」

 それ以上、ルイは何も付け加えなかった。

 だが、机上の地図に向けられた彼の視線は――
 再び、ほんの一瞬だけ、あの地点をなぞっていた。

「では、私はこれで」

 ルイは一礼し、静かに踵を返す。
 扉が閉じた後、執事がぽつりと呟いた。

「……次期伯爵様は、よく見ておられますな」

「……見えすぎる男だ」

 モーリスはそう言い、再び書類へと視線を落とした。

 ――その“見えすぎる視線”が、
 すでにどこまでを把握しているのか。

 この時点では、まだ誰にも分からなかった。

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