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――数日後。
ベルヌー法律事務所の執務室には、いつもと変わらぬ朝の光が差し込んでいた。
だが、机上に置かれた一通の封書だけが、
この日の空気をわずかに変えていた。
「……とうとう来ましたね」
マティアスが静かに言う。
差出人は、モントレー伯爵家。
内容は――旧領に関する土地照会への一次回答だった。
クロードは封を切り、書類に目を通す。
ページを繰る速度は一定。感情の揺れは、外からは読み取れない。
「通常の整理だ」
短くはっきりと告げる。
「登記、名義、境界。現時点で違法性は確認されない――表向きはな」
アデルは息を整え、続く文面に目を走らせる。
「……“現時点では”と、何度も書かれていますね」
「ああ、書き方だ」
クロードは視線を上げずに答える。
「向こうは“確認した”という事実が欲しい。
だが、こちらは“どこまで確認させるか”を選ぶ」
書類の端に、指先が止まる。
「……この一文」
マティアスが身を乗り出す。
「過去十年以内に、当該区域で民事係争の届け出はない、ですか」
「“届け出はない”」
クロードは淡々と繰り返した。
「つまり、表に出ていない。示談、取り下げ、あるいは――消えた」
室内に、静かな緊張が落ちる。
「これでいい」
クロードは書類を揃え、封筒に戻した。
「一次回答としては、十分だ。向こうが“安心する”には、ちょうどいいだろう」
アデルが顔を上げる。
「……では、次は?」
クロードは一拍置き、静かに言った。
「次は、向こうの駒が動く番だ」
*
同じ頃。
モントレー伯爵家の執務室。
重厚な机の上に置かれた書類を、モーリスは無言で読み進めていた。
ページをめくるたび、目の奥が細くなる。
「……ふん」
目を細めながら、短く鼻を鳴らす。
「大したことは書いていないな」
執事が控えめに答える。
「はい。通常の照会結果かと。違法性は現時点では見当たらない、と」
「“現時点では”……か」
モーリスは書類を机に戻し、背もたれに身を預けた。
「確かに、余計なところまでは、踏み込んでいない。少なくとも、今はな」
その時、扉がノックされた。
「……入れ」
現れたのは、ルイだった。
執務の合間だったのだろう。上着は脱がれ、白いシャツの袖口をきちんと整えながら、一礼する。
動作に無駄はなく、どこか感情の影を感じさせない。
「照会の件、結果が出たと聞きました」
声は低く、穏やかだった。
だが、その視線はすでに机上の書類へと向けられている。
モーリスは、書類から目を離さぬまま、顎でそれを示した。
「ああ。お前も目を通すといい」
ルイは一歩進み、机の端に立つ。
書類を手に取る前に、ほんの一瞬だけ、配置された地図と添付資料を見渡した。
ページをめくる指は静かで、紙の音さえ最小限に抑えられている。
読み進めるにつれ、表情は変わらない。眉一つ動かさず、呼吸の乱れもない。
だがーー。
ある箇所で、指がわずかに止まった。
それは、気をつけていなければ見逃すほどの、ほんの一瞬だった。
すぐに何事もなかったかのように、続きを読み進める。
「……形式上は、問題なし、という結論ですね」
淡々とした声音で答える。
「ああ。少なくとも、現時点では」
モーリスが渋い顔をして、低く応じる。
「だが、“白”とは言い切っていない。ずいぶん歯切れの悪い報告だ」
ルイは書類を閉じ、静かに机の上へ戻した。
「ベルヌーらしい判断です。断定を避け、余地を残す」
そう言って、わずかに口元を緩める。
それは笑みというより、評価に近いものだった。
「……触られたくない部分が、あると言うのか?」
モーリスが探るように問う。
ルイは、即答しなかった。
一拍置いてから、慎重に言葉を選ぶ。
「少なくとも、“完全に整理された土地”ではない、という印象は受けます」
それ以上は踏み込まない。
だが、その言い方だけで十分だった。
モーリスは、鼻で小さく息を鳴らす。
「……やはりな」
ルイはそれ以上何も言わず、再び一礼した。
「他に御用がなければ、私はこれで」
「ああ。下がれ」
踵を返すルイの背に、迷いはない。
だが、扉を出る直前――
机上の地図へ、もう一度だけ、短く視線が走った。
それが意味するものを、
この時、モーリスはまだ測りかねていた。
扉が閉まる。
執務室に残されたモーリスは、再び書類へと視線を落とした。
「……探り合いか」
低く呟く。
だがその言葉は、すでに自分自身にも向けられていた。
*
モーリスの執務室を出て回廊を進んでいたルイは、ふと足を止めた。
窓の向こう――
中庭のガゼボで、リゼットとヴァレリアが茶を囲んでいる。
母娘で交わされる、よく整えられた笑い声。
陶器が触れ合う、軽やかな音。
ルイは、その場から一歩も動かず、中庭を見つめていた。
派手な身振りで語る母。
それに相槌を打ち、控えめに微笑むリゼット。
白い指先でカップを持ち上げる所作は、あまりにも可憐で、
まるで絵画の一場面を切り取ったかのようだった。
――美しい。
そう感じたのかどうかは、定かではない。
ルイの表情は、ほとんど変わらなかった。
口元に浮かんでいるのが、微笑みなのか、
あるいは、そう“見える形”を保っているだけなのか。
視線は、確かに妻を追っている。
だが、その灰青の瞳の奥はひどく静かで、
澄んだ水面のようにも、底の見えない深みのようにも思えた。
リゼットがふと顔を上げ、窓の方を見た。
――そして、窓の向こうに立つ影に気づく。
一瞬、驚いた表情を見せたあと、花が綻ぶように微笑んだ。
彼女は、カップを置き、控えめに、けれど確かに分かる仕草で、手を振る。
ルイは、その仕草を受け止める。
ほんのわずかに表情を和らげ、柔らかく、穏やかに微笑み返した。
誰が見ても、愛情深い夫のそれに見える笑みだった。
リゼットは満足そうに頷き、再び母との会話に戻った。
ルイは、それを見届けると、微笑みをそのままに、そっと踵を返す。
足音は立てない。
回廊の影に、溶けるように消えていった。
ベルヌー法律事務所の執務室には、いつもと変わらぬ朝の光が差し込んでいた。
だが、机上に置かれた一通の封書だけが、
この日の空気をわずかに変えていた。
「……とうとう来ましたね」
マティアスが静かに言う。
差出人は、モントレー伯爵家。
内容は――旧領に関する土地照会への一次回答だった。
クロードは封を切り、書類に目を通す。
ページを繰る速度は一定。感情の揺れは、外からは読み取れない。
「通常の整理だ」
短くはっきりと告げる。
「登記、名義、境界。現時点で違法性は確認されない――表向きはな」
アデルは息を整え、続く文面に目を走らせる。
「……“現時点では”と、何度も書かれていますね」
「ああ、書き方だ」
クロードは視線を上げずに答える。
「向こうは“確認した”という事実が欲しい。
だが、こちらは“どこまで確認させるか”を選ぶ」
書類の端に、指先が止まる。
「……この一文」
マティアスが身を乗り出す。
「過去十年以内に、当該区域で民事係争の届け出はない、ですか」
「“届け出はない”」
クロードは淡々と繰り返した。
「つまり、表に出ていない。示談、取り下げ、あるいは――消えた」
室内に、静かな緊張が落ちる。
「これでいい」
クロードは書類を揃え、封筒に戻した。
「一次回答としては、十分だ。向こうが“安心する”には、ちょうどいいだろう」
アデルが顔を上げる。
「……では、次は?」
クロードは一拍置き、静かに言った。
「次は、向こうの駒が動く番だ」
*
同じ頃。
モントレー伯爵家の執務室。
重厚な机の上に置かれた書類を、モーリスは無言で読み進めていた。
ページをめくるたび、目の奥が細くなる。
「……ふん」
目を細めながら、短く鼻を鳴らす。
「大したことは書いていないな」
執事が控えめに答える。
「はい。通常の照会結果かと。違法性は現時点では見当たらない、と」
「“現時点では”……か」
モーリスは書類を机に戻し、背もたれに身を預けた。
「確かに、余計なところまでは、踏み込んでいない。少なくとも、今はな」
その時、扉がノックされた。
「……入れ」
現れたのは、ルイだった。
執務の合間だったのだろう。上着は脱がれ、白いシャツの袖口をきちんと整えながら、一礼する。
動作に無駄はなく、どこか感情の影を感じさせない。
「照会の件、結果が出たと聞きました」
声は低く、穏やかだった。
だが、その視線はすでに机上の書類へと向けられている。
モーリスは、書類から目を離さぬまま、顎でそれを示した。
「ああ。お前も目を通すといい」
ルイは一歩進み、机の端に立つ。
書類を手に取る前に、ほんの一瞬だけ、配置された地図と添付資料を見渡した。
ページをめくる指は静かで、紙の音さえ最小限に抑えられている。
読み進めるにつれ、表情は変わらない。眉一つ動かさず、呼吸の乱れもない。
だがーー。
ある箇所で、指がわずかに止まった。
それは、気をつけていなければ見逃すほどの、ほんの一瞬だった。
すぐに何事もなかったかのように、続きを読み進める。
「……形式上は、問題なし、という結論ですね」
淡々とした声音で答える。
「ああ。少なくとも、現時点では」
モーリスが渋い顔をして、低く応じる。
「だが、“白”とは言い切っていない。ずいぶん歯切れの悪い報告だ」
ルイは書類を閉じ、静かに机の上へ戻した。
「ベルヌーらしい判断です。断定を避け、余地を残す」
そう言って、わずかに口元を緩める。
それは笑みというより、評価に近いものだった。
「……触られたくない部分が、あると言うのか?」
モーリスが探るように問う。
ルイは、即答しなかった。
一拍置いてから、慎重に言葉を選ぶ。
「少なくとも、“完全に整理された土地”ではない、という印象は受けます」
それ以上は踏み込まない。
だが、その言い方だけで十分だった。
モーリスは、鼻で小さく息を鳴らす。
「……やはりな」
ルイはそれ以上何も言わず、再び一礼した。
「他に御用がなければ、私はこれで」
「ああ。下がれ」
踵を返すルイの背に、迷いはない。
だが、扉を出る直前――
机上の地図へ、もう一度だけ、短く視線が走った。
それが意味するものを、
この時、モーリスはまだ測りかねていた。
扉が閉まる。
執務室に残されたモーリスは、再び書類へと視線を落とした。
「……探り合いか」
低く呟く。
だがその言葉は、すでに自分自身にも向けられていた。
*
モーリスの執務室を出て回廊を進んでいたルイは、ふと足を止めた。
窓の向こう――
中庭のガゼボで、リゼットとヴァレリアが茶を囲んでいる。
母娘で交わされる、よく整えられた笑い声。
陶器が触れ合う、軽やかな音。
ルイは、その場から一歩も動かず、中庭を見つめていた。
派手な身振りで語る母。
それに相槌を打ち、控えめに微笑むリゼット。
白い指先でカップを持ち上げる所作は、あまりにも可憐で、
まるで絵画の一場面を切り取ったかのようだった。
――美しい。
そう感じたのかどうかは、定かではない。
ルイの表情は、ほとんど変わらなかった。
口元に浮かんでいるのが、微笑みなのか、
あるいは、そう“見える形”を保っているだけなのか。
視線は、確かに妻を追っている。
だが、その灰青の瞳の奥はひどく静かで、
澄んだ水面のようにも、底の見えない深みのようにも思えた。
リゼットがふと顔を上げ、窓の方を見た。
――そして、窓の向こうに立つ影に気づく。
一瞬、驚いた表情を見せたあと、花が綻ぶように微笑んだ。
彼女は、カップを置き、控えめに、けれど確かに分かる仕草で、手を振る。
ルイは、その仕草を受け止める。
ほんのわずかに表情を和らげ、柔らかく、穏やかに微笑み返した。
誰が見ても、愛情深い夫のそれに見える笑みだった。
リゼットは満足そうに頷き、再び母との会話に戻った。
ルイは、それを見届けると、微笑みをそのままに、そっと踵を返す。
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