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母娘のお茶会が終わり、ヴァレリアが席を外したあと。
ガゼボには、リゼット一人が残された。
午後の陽射しはやわらかく、花の香りが静かに漂っている。
「……ルイ様……」
彼の名を呼んだ声は、風に溶けるように消えた。
――その時だった。
ガゼボの外、低木の向こうに、
誰かが立っている気配がした。
侍女ではない。
庭師でもない。
確かに“いる”のに、足音がしない。
リゼットは、思わず立ち上がった。
「……どなた?」
返事はない。
だが、次の瞬間。
「――風が強いですね」
背後から、低い声が落ちた。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒に近い外套。
一瞬、ルイと見間違うほどの気配――だが、顔立ちは違う。
整っている、とは言い難い。
それでも、なぜか目を引く輪郭。
そして何より――声。
聞き慣れているようで、
けれど、決定的に“違う”。
「…誰?」
リゼットの喉が、ひくりと鳴った。
「……失礼しました。人違いでしたら、お詫びします」
男はそう言って、軽く頭を下げる。
礼儀は正しい。
だが、その仕草には、貴族とも使用人ともつかない癖があった。
「……ここは、立ち入り禁止では?」
問いかけると、男はわずかに口角を上げる。
「そうですね。ですが――」
少しだけ間を置いて、
「“通り道”というものは、案外、曖昧なものです」
意味の分からない言葉。
それなのに、背筋に冷たいものが走った。
「……人を呼びます。さもなくば、すぐに立ち去ってください……」
「ええ。そうします」
男はあっさりと身を引いた。
だが、去り際――
ほんの一瞬だけ、リゼットの耳元に低く言葉が落ちる。
「……あまり、ご無理はなさらない方が」
その声は、
どこか気遣うようで、
それ以上に、何かを“知っている”響きを帯びていた。
男は振り返らない。
低木の向こうへ、音もなく溶けるように消えていく。
あとに残ったのは、風と、花の揺れだけ。
リゼットはその場に立ち尽くし、
胸元を、そっと押さえた。
(……誰……?)
気配は、夫そのものだった。
――だが、違う。
それでも、
声の余韻だけが、
いつまでも耳を離れなかった。
*
晩餐の席は、いつもより静かだった。
長いテーブルの両端に灯る燭台の火が、ゆらゆらと影を落とす。
リゼットはナイフを置いたまま、ほとんど料理に手をつけていなかった。
ルイがリゼットの様子に気付き、心配げに尋ねる。
「……どうした?あまり食が進んでいないようだけど…」
柔らかな声だった。
責める響きは一切ない。
「……ルイ様……」
リゼットは一度、言葉を探すように視線を落とす。
「今日……中庭で……少し、怖いことがあって……」
ルイの表情が険しくなり、動きがわずかに止まった。
「怖いこと?」
その声は低く、だが即座に真剣な色を帯びる。
リゼットは、昼間の出来事をぽつりぽつりと語った。
低木の向こうの気配。
背後から聞こえた声。
一瞬、ルイと見間違えたほどの雰囲気。
「……黒に近い外套で……声が……ルイ様にとても、似ていて……」
話しながら、リゼットの指先がわずかに震える。ルイはそれを見逃さなかった。
「その不審者の顔立ちは?」
「はっきりとは……でも、どこか目を引く感じで……」
ルイは黙って頷き、記憶を整理するように問いを重ねる。
「背格好は?」
「……ルイ様と同じくらいだったように思います」
「年齢は?」
「わかりません…おそらく、二十代かと…」
ルイは考え込み、言葉を続ける。
「使用人か庭師か…馬番か…」
「いいえ……どちらとも違って……」
その一つ一つを、丁寧に聞き取る。
「……分かった」
ルイはきっぱりと言った。
「リゼット…不安にさせてしまって、すまない。すぐに手を打つから」
そう言って、侍従に目を向ける。
「今夜から、裏門と中庭の見回りを増やす。夜警も二人増員だ」
「かしこまりました」
命令は簡潔で、迷いがなかった。
そして、再びリゼットへ視線を戻す。
「屋敷内の戸締りも、すべて確認させる。君の居室の周りは特に念入りに」
「……そんな……大げさでは……」
「いいや」
ルイは、即座に否定した。
「君が怖いと感じたなら、それは十分すぎる理由だ」
その言葉に、リゼットの胸がきゅっと締めつけられる。
「……ありがとう、ルイ様……」
ルイは、そっと彼女の手を取った。
温かく、力強い指だった。
「私の大切な妻だ。守るのは当然だろう」
その瞳は真剣で、曇りがなかった。
リゼットは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私……大丈夫です。ルイ様が、こうして聞いてくださっただけで……」
頬に、安堵の色が戻る。
「今夜は、よく眠れそう……」
ルイは微笑み、彼女の手を軽く包んだまま、離さなかった。
*
その夜――
夜更け。
静まり返った自室で、ルイは一人、寝台に仰向けになっていた。
部屋は広いが、余計なものは何ひとつ置かれていない。
重厚な木製の家具はすべて同じ色調で揃えられ、装飾は最小限のものしかなかった。
壁には肖像画も、家族の思い出を示す品もない。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、外の月明かりさえ遮断されている。
燭台の火だけが、一定の距離を保って淡く揺れ、影を整然と床に落としていた。
書斎机の上には、昼間の書類が几帳面に積まれ、椅子は一分の狂いもなく机に収められている。
――人の温度を感じさせない部屋だった。
寝台も同じだった。
柔らかさよりも実用性を優先した寝具。
皺ひとつないシーツは、誰かと身を寄せ合うためではなく、ただ「眠るため」に用意されたものだった。
ルイは、その中央に、まっすぐ仰向けに横たわっている。
腕は身体の脇に添えられ、
呼吸は静かで、乱れがない。
天井を見つめたまま、しばらく動かない。
そこには、夫としての柔らかな微笑みも、
執務室で見せる冷静な仮面もなかった。
あるのは――
誰にも見せない、何も映さない視線だけだった。
ルイは、天井に視線を固定したまま、息を吐いた。
「……面倒なことを…」
感情は乗らない。
苛立ちでも、怒りでもない。
ただ、処理すべき事柄を前にした人間の声だった。
その一言で、夜は再び、何事もなかったかのように静まり返った。
ガゼボには、リゼット一人が残された。
午後の陽射しはやわらかく、花の香りが静かに漂っている。
「……ルイ様……」
彼の名を呼んだ声は、風に溶けるように消えた。
――その時だった。
ガゼボの外、低木の向こうに、
誰かが立っている気配がした。
侍女ではない。
庭師でもない。
確かに“いる”のに、足音がしない。
リゼットは、思わず立ち上がった。
「……どなた?」
返事はない。
だが、次の瞬間。
「――風が強いですね」
背後から、低い声が落ちた。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒に近い外套。
一瞬、ルイと見間違うほどの気配――だが、顔立ちは違う。
整っている、とは言い難い。
それでも、なぜか目を引く輪郭。
そして何より――声。
聞き慣れているようで、
けれど、決定的に“違う”。
「…誰?」
リゼットの喉が、ひくりと鳴った。
「……失礼しました。人違いでしたら、お詫びします」
男はそう言って、軽く頭を下げる。
礼儀は正しい。
だが、その仕草には、貴族とも使用人ともつかない癖があった。
「……ここは、立ち入り禁止では?」
問いかけると、男はわずかに口角を上げる。
「そうですね。ですが――」
少しだけ間を置いて、
「“通り道”というものは、案外、曖昧なものです」
意味の分からない言葉。
それなのに、背筋に冷たいものが走った。
「……人を呼びます。さもなくば、すぐに立ち去ってください……」
「ええ。そうします」
男はあっさりと身を引いた。
だが、去り際――
ほんの一瞬だけ、リゼットの耳元に低く言葉が落ちる。
「……あまり、ご無理はなさらない方が」
その声は、
どこか気遣うようで、
それ以上に、何かを“知っている”響きを帯びていた。
男は振り返らない。
低木の向こうへ、音もなく溶けるように消えていく。
あとに残ったのは、風と、花の揺れだけ。
リゼットはその場に立ち尽くし、
胸元を、そっと押さえた。
(……誰……?)
気配は、夫そのものだった。
――だが、違う。
それでも、
声の余韻だけが、
いつまでも耳を離れなかった。
*
晩餐の席は、いつもより静かだった。
長いテーブルの両端に灯る燭台の火が、ゆらゆらと影を落とす。
リゼットはナイフを置いたまま、ほとんど料理に手をつけていなかった。
ルイがリゼットの様子に気付き、心配げに尋ねる。
「……どうした?あまり食が進んでいないようだけど…」
柔らかな声だった。
責める響きは一切ない。
「……ルイ様……」
リゼットは一度、言葉を探すように視線を落とす。
「今日……中庭で……少し、怖いことがあって……」
ルイの表情が険しくなり、動きがわずかに止まった。
「怖いこと?」
その声は低く、だが即座に真剣な色を帯びる。
リゼットは、昼間の出来事をぽつりぽつりと語った。
低木の向こうの気配。
背後から聞こえた声。
一瞬、ルイと見間違えたほどの雰囲気。
「……黒に近い外套で……声が……ルイ様にとても、似ていて……」
話しながら、リゼットの指先がわずかに震える。ルイはそれを見逃さなかった。
「その不審者の顔立ちは?」
「はっきりとは……でも、どこか目を引く感じで……」
ルイは黙って頷き、記憶を整理するように問いを重ねる。
「背格好は?」
「……ルイ様と同じくらいだったように思います」
「年齢は?」
「わかりません…おそらく、二十代かと…」
ルイは考え込み、言葉を続ける。
「使用人か庭師か…馬番か…」
「いいえ……どちらとも違って……」
その一つ一つを、丁寧に聞き取る。
「……分かった」
ルイはきっぱりと言った。
「リゼット…不安にさせてしまって、すまない。すぐに手を打つから」
そう言って、侍従に目を向ける。
「今夜から、裏門と中庭の見回りを増やす。夜警も二人増員だ」
「かしこまりました」
命令は簡潔で、迷いがなかった。
そして、再びリゼットへ視線を戻す。
「屋敷内の戸締りも、すべて確認させる。君の居室の周りは特に念入りに」
「……そんな……大げさでは……」
「いいや」
ルイは、即座に否定した。
「君が怖いと感じたなら、それは十分すぎる理由だ」
その言葉に、リゼットの胸がきゅっと締めつけられる。
「……ありがとう、ルイ様……」
ルイは、そっと彼女の手を取った。
温かく、力強い指だった。
「私の大切な妻だ。守るのは当然だろう」
その瞳は真剣で、曇りがなかった。
リゼットは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私……大丈夫です。ルイ様が、こうして聞いてくださっただけで……」
頬に、安堵の色が戻る。
「今夜は、よく眠れそう……」
ルイは微笑み、彼女の手を軽く包んだまま、離さなかった。
*
その夜――
夜更け。
静まり返った自室で、ルイは一人、寝台に仰向けになっていた。
部屋は広いが、余計なものは何ひとつ置かれていない。
重厚な木製の家具はすべて同じ色調で揃えられ、装飾は最小限のものしかなかった。
壁には肖像画も、家族の思い出を示す品もない。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、外の月明かりさえ遮断されている。
燭台の火だけが、一定の距離を保って淡く揺れ、影を整然と床に落としていた。
書斎机の上には、昼間の書類が几帳面に積まれ、椅子は一分の狂いもなく机に収められている。
――人の温度を感じさせない部屋だった。
寝台も同じだった。
柔らかさよりも実用性を優先した寝具。
皺ひとつないシーツは、誰かと身を寄せ合うためではなく、ただ「眠るため」に用意されたものだった。
ルイは、その中央に、まっすぐ仰向けに横たわっている。
腕は身体の脇に添えられ、
呼吸は静かで、乱れがない。
天井を見つめたまま、しばらく動かない。
そこには、夫としての柔らかな微笑みも、
執務室で見せる冷静な仮面もなかった。
あるのは――
誰にも見せない、何も映さない視線だけだった。
ルイは、天井に視線を固定したまま、息を吐いた。
「……面倒なことを…」
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苛立ちでも、怒りでもない。
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