奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 その頃。
 クロード・ベルヌー法律事務所では、
 ジェイコブの件で一連の事実が明らかになって以降、事務所全体の動きが明確に変化していた。

 大きな動きはなかった。
 公告を出すこともなければ、訴えを起こすこともない。

 ただ、情報だけが、正確に選ばれた場所へと流されていた。

 ベルヌー法律事務所が管理に関わる旧領寄りの土地についてである。

 その土地は登記上は整っているものの、過去に境界線の再確認が必要とされた区域であり、なおかつモントレー家が長年、意図的に手を付けてこなかった場所だった。

「例の土地について、測量の再確認が入るらしい」

「売却ではないが、活用の可能性を探っているそうだ」

 そのような曖昧だが無視できない話が、街道沿いの商会や測量関係者、土地仲介を生業とする人間たちの間で、ゆっくりと広がっていった。

 誰が流したのかは分からない。
 しかし、ベルヌーが動いているという点だけは、はっきりと伝わっていた。


***


 仕掛けを打ってから、数日後。

「来ました」

 マティアスが報告書を手にクロードの机にやってきた。

「街道沿いの商会に出入りしている仲介人、ルーカス・ベインが動き始めています」

 クロードはペンを置き、視線を上げた。

「早いな」

「ええ。昨夜、測量関係者にそれとなく接触しています。名目は、昔の測量記録の所在確認です」

 アデルは、その言葉を聞いて指先に力が入るのを感じた。

「同じ手口ですね」

「はい。ただし今回は慎重です。契約ではなく、確認という形で探りを入れています」

 クロードは静かに頷いた。

「指示役が警戒している証拠だ」

「……ですが」

 マティアスは、もう一枚の紙を差し出した。

「ルーカスは、その場で上に報告を入れていると見られます。使用している伝書先が、これまでの案件と一致しました」

 事務所内の空気が、わずかに引き締まった。

「同じ繋がりだな」

 クロードの声には、すでに確信が含まれていた。

「紹介役は違っても、戻る場所は同じだ」

 アデルは、地図上に示された印を見つめた。

 引き返せないところまで来ていると、はっきり分かった。
 恐怖は無く、霧が少しずつ晴れていくような感覚だった。

「次は、どうしますか」

 アデルが問いかけると、クロードは即座に答えた。

「まだ動かない」
「え?」
 
 思わず、アデルは聞き返してしまった。

「相手は、こちらが確認しているだけだと思っている。その誤解は、今は崩さない方がいい」

 クロードはそう言って、報告書を閉じた。

「こちらが駒を進めた。相手も一歩踏み出した。次は、相手が足を置いた場所を見る段階だ」

 マティアスは理解したように頷いた。

「誰が許可を出したのかを見る、ということですね」
「そうだ」

 クロードは静かに言った。

「ルーカスは末端に過ぎない。測量関係者も、ただの歯車だ。本当に問題なのは、止める立場にいる人間が、止めなかったことだ」

 アデルは胸の奥で確信した。相手の輪郭が、ようやく形を持ち始めている。

 まだ剣を抜く時ではない。
 しかし、盤面は確実に一段進んでいた。

 ベルヌー法律事務所は、防ぐ側ではなく、相手の手を見切る側に立っていた。


***


 街道沿いの商会裏で、ルーカス・ベインは額の汗を拭っていた。

 帳場とは別の、物置同然の小部屋だった。

「おかしいだろ……」

 机の上には、彼が流した話の行き先を記した紙切れが三枚並んでいた。

 反応が早すぎる。
 通常であれば、話を持ちかけた後、相手は必ず迷った。
 誰かに相談し、それでも決断できずに沈黙するまで、最低でも二週間はかかるはずだった。

 しかし、今回は違った。

「まだ踏み込んでいない段階だぞ……」

 彼は椅子にもたれ、天井を睨んだ。

 管理されているらしい土地。
 動かせそうだという噂。

 それだけの話で、名前も契約も書類も出していない。それにもかかわらず、ベルヌーの反応は早すぎた。

「もう嗅ぎつけているのか……?」

 その名を口にした瞬間、喉が鳴った。

 紹介役が直接漏らしたとは考えにくい。
 そんな愚かな真似をする人間はいないはずだった。

 ルーカスは懐に手を伸ばしかけ、思いとどまった。今は、連絡を取るべき相手ではない。

 焦りはミスを呼ぶ。
 それだけは、何度も教え込まれてきた。

 しかし、机の端に置かれた地図が目に入った。管理されている土地に引かれた薄い鉛筆の印だった。

 胸騒ぎがした。

 その瞬間、ルーカスは、本来ならしてはいけない行動を取ってしまった。

「一回だけだ……確認するだけだ」

 自分に言い聞かせるように呟き、彼は使うべきではない連絡先に手を伸ばした。


***


「拾えました」

 ベルヌー法律事務所で、夜の気配が窓辺に滲み始めた頃だった。

「先生」

 マティアスは声を潜めて言った。

「来ました。想定より早いです」

 差し出されたのは、一枚の走り書きだった。
 正式な書簡でも報告書でもない。

 照会前の段階で、例の土地について問い合わせが入った。その事実だけが簡潔に記されている。

 クロードは紙を受け取り、目を通した。

「確認の動きだな」

 低い声だった。
 アデルは思わず息を詰めた。

「こちらは、まだ何も公表していませんよね」

「ああ。だからこそだ」

 クロードは紙を机に置いた。

「これは情報を取りに来た動きだ。噂を流した側が、噂の出どころを確かめに来ている」

 マティアスが頷いた。

「紹介役ですね」

「正確には、紹介役のさらに上に繋がる人間だ」

 クロードは淡々と続けた。

「紹介役本人なら、こんな迂回はしない」

 彼は机上の地図に指を置いた。

「ここだ。管理されているが、動かせそうな土地だ」

 アデルは、はっとした。

「触れずにいられなかったのですね」
「そうだ」

 クロードは短く肯定した。

「こちらが置いた駒に、相手が触れた。それで十分だ」

 室内の空気が、静かに引き締まった。

「追いますか」

 マティアスの問いに、クロードは首を振った。

「いや。追わない」
「なぜですか」
「今は、追われていると思わせる方がいい」

 クロードは眼鏡の奥で視線を細めた。

「焦るのは、向こうだ」

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