奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 同じ夜。

 ルーカス・ベインは、帳場裏の小部屋で落ち着きを失っていた。

 狭い部屋の中で、椅子に腰掛けることもできず、立ったまま何度も同じ場所を歩いている。

「……返事が、遅すぎる」

 連絡を入れた先から、いまだに何の返答もない。

 普段であれば、「確認した」「問題ない」という短い言葉が、遅くともその日のうちに返ってくるはずだった。

 それが、今回は違う。

 胸の奥で、嫌な感覚がじわじわと広がっていく。

 ルーカスは歩みを止め、額を押さえた。

「……妙だな」

 ベルヌー法律事務所は、こちらに直接何かをしてきたわけではない。

 訴えもなければ、警告もない。
 それなのに、状況だけが確実に悪くなっている。

 彼の脳裏に、いくつかの顔が浮かぶ。

 ハロルドが折れなかった理由。
 ジェイコブが逃げなかった理由。

 どちらも、ベルヌーに相談したあとだった。

「……脅しじゃない。あそこは……」

 ルーカスは歯噛みした。
 ベルヌーという名は、いつの間にか「怖い相手」ではなく、「頼れる先」として囁かれている。それが、何より厄介だった。

 ここで動けば、必ず痕が残る。
 だが、動かなければ、何が掴まれているのか分からないまま切り捨てられる。

 そのときだった。

 扉の外で、足音が止まった。
 一瞬だったが、確かに誰かが、部屋の前に立った気配があった。

 ルーカスは息を詰める。

 次の瞬間、足音はそのまま遠ざかっていった。ノックもなければ、声もない。

 ただ、「ここに人がいると分かっている」という事実だけが残された。

「……見られているな」

 そう口にした瞬間、自分の声がひどく乾いていることに気づく。

 逃げ道は、まだ存在しているが、選べる道は確実に減っていた。

 ベルヌーは、何も言ってこない。
 それが、今のルーカスにとって、何よりも恐ろしかった。

 追われているのは、もう自分の側だ。
 その認識が、はっきりと形を持ち始めていた。


***


 モントレー伯爵家の執務室。

 重厚な机を挟み、モーリスは書類に目を落としていた。

 その正面、少し離れた位置に、ルイがモーリスに呼ばれ、静かに立っていた。

 室内には、紙をめくる音だけがあった。

 しばらくして、モーリスの指が、ある一頁で止まる。無意識のまま、もう一度そこを読み返し、低く息を吐いた。

「……追加報告書、だと?」

 声は低く、押し殺されている。
 だが、苛立ちは隠しきれていなかった。

 ルイは何も言わず、視線だけを机上の書類に向ける。

 モーリスは、該当箇所を指先でなぞった。

「旧領寄りの土地……しかも、この線の周辺か」

 表向きは整理済み。
 しかし、内部では長年、触れることを避けられてきた場所だ。

「ベルヌーは……なぜ、ここを拾った」

 問いというより、独り言に近い。
 執務室の端に控えていた執事が、慎重に答える。

「照会理由としては、自然です。管理されている土地の周辺で、同様の契約トラブルが複数確認されたため、と」

「それが気に入らん!!」

 モーリスの声が、はっきりと強くなる。

「ここは、本来、表に出る前に、こちらが整理するはずだった場所だ」

 机に置かれた書類を、乱暴に押し戻す。

 知っている者は限られている。
 過去の資料に目を通した者。
 口頭で引き継ぎを受けた者。
 そして、話を動かしていた人間。

 モーリスの視線が、ふと止まる。

「……ベルヌー法律事務所…」

 その名を口にした瞬間、眉間に深い皺が刻まれた。

「クロード・ベルヌー……そして」

 書類の端に記された、補佐者の名を示す。

「……あのが、そこにいるというわけか」

 抑えていた感情が、一気に噴き出す。

「くそっ、忌々しい……!」

 机を叩く音が、執務室に響いた。

「よりにもよって、あの女が!!目覚めなければ、そのまま消えていたものを……!」

 怒声が、室内を満たす。
 執事は一歩引き、ルイだけが、変わらぬ姿勢で立っていた。

 視線を伏せることも、口を挟むこともない。ただ、義父の剣幕を、冷静に受け止めている。

 モーリスは、荒い息を整えながら、ふとルイを見る。

「……お前」

 呼びかけられたルイは、ゆっくりと顔を上げる。

「ちょうどいいところにいる」

 皮肉めいた笑みが、モーリスの口元に浮かんだ。

「この件、のお前に任せよう」

 ルイの表情は動かない。

「まだ、あの小娘を愛しているのか?」

 試すような問いに、沈黙は、一瞬だけだった。

「まさか」

 ルイは即答だった。
 感情の揺れは、声にも、顔にも現れない。

 その返答を聞いて、モーリスは満足そうに頷く。

「はははっ…ならば、好都合だ。あの女を揺さぶれ」

 椅子にもたれ、ゆっくりと言葉を続ける。

「お前がアデルの相手をしろ。偽の愛を囁いてもいい。冷たく突き放しても構わん」

 視線が鋭くなる。

「使えるものは、何でも使え。あの女を、陥れろ」

 執務室に、重い沈黙が落ちた。
 ルイは、深く一礼する。

「承知しました」

 それ以上、何も言わなかった。
 感情も、反論も、そこにはない。
 ただ命令を受け取る者の、淡々とした姿だけが残る。

 モーリスは、書類に視線を戻しながら、低く呟いた。

「……盤面は、確実に動いたな」

 その言葉が意味するものを、この場にいる誰もが、まだ完全には理解していなかった。

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