奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ベルヌー法律事務所に、その書簡が届いたのは、昼下がりだった。

 封蝋は簡素だった。
 家紋も誇示せず、装飾もない。
 欠けも歪みもなく、力の入れ具合まで計算されたように整っている。

 書式は正確だった。
 一字の無駄もなく、語尾はすべて公的文書として最も穏当な形に揃えられている。

 感情を排し、異議を差し挟ませないための言葉だけが、淡々と並んでいた。

 そして、余白。
 行間は詰めすぎず、広すぎない。
 読み手に急がせも、考えさせもしない、絶妙な間隔があった。

 まるで、読む側の呼吸まで把握しているかのようだった。

 その紙面全体から滲み出ているのは、焦りでも威圧でもない。

 ――こちらがどう受け取るかなど、すでに織り込み済みだという、余裕だった。

 差出人――モントレー伯爵家。
 内容は、極めて公的だった。

「旧領寄りの土地に関する件につき、
当家として、当事者への事実確認を進める必要が生じた。ついては、関係者との接触について、事前に貴事務所へ通知する」

 形式も、言葉遣いも、非の打ちどころがない。

 マティアスが紙面を追いながら、眉をひそめる。

「……接触の“通知”ですか」

 クロードは何も言わず、書簡を受け取り、静かに折り畳んだ。

「ああ、そうだ」

 その声には、驚きも苛立ちもなかった。
 ただ、状況を正確に測った者の低い響きだけがあった。

 アデルは、胸の奥に広がるざわめきを抑えながら、尋ねる。

「……接触とは…誰が、来るんでしょうか」

 クロードは一拍だけ間を置いた。
 眼鏡の奥で、視線がわずかに鋭くなる。

「ここには、書いてはいない」

 そして、淡々と続けた。

「だが、来るのは――君の元夫だろう」

 その一言で、室内の空気が張り詰めた。
 ロイクの手が、無意識に強く握られ、指先に力が入り、関節が白くなる。

「……剣は抜かない、ということだな」

 ロイクの声は低く、抑えられていた。

「ああ」

 クロードは短く言った。

「法を盾にした。拒めば、こちらが刃を抜いた形になる」

 室内に、短い沈黙が落ちた。
 ロイクは歯を食いしばり、視線を伏せる。

「……卑怯だな」
「だが、よく考えられている」

 クロードは淡々と続けた。

「正面衝突を避けながら、こちらに選択を迫ってきている。拒めば、こちらが“問題を大きくした側”になる構図だ」

 アデルは、ゆっくりと息を吐いた。

(……逃げ場を塞がれている)

 だが、それは力で押し潰される恐怖ではなかった。理屈によって追い込まれていく、冷たい感覚だった。

「けんど、ルイ様はどのつら下げて接触する気だべか?」

 リセラは眉間に皺を寄せながら呟いた。
 マティアスは少し考えるようにしてから、言葉を続ける。

「ルイ氏の評判は、社交界ではかなり良いんですよね。
見た目も整っていますし、頭の回転も速い。
モントレー家の執務も、実質的には彼が調整しているという話もあります」

「見た目や頭が良くても、人間性が伴わなければ意味がないべさ」

「確かに、リゼット嬢との再婚で一時は評判は落ちましたが……
旧モントレー家の没落や、アデルさんの事故を踏まえれば、貴族としてやむを得ない判断だった、という見方もあります」

「こらっ、マティアス!!」

 リセラが鋭い声で咎める。
 マティアスは我に返ったように顔色を変え、すぐに頭を下げた。

「す、すみません……アデルさん…」

「いいんです、マティアスさん」

 アデルは力なく微笑んだ。

「世間がどう見ているのかを知っておく必要がありますから」

 マティアスは、ばつが悪そうに視線を落とした。

「……ふん、ルイめ。とんだ恥知らずの男だ。アデルは堂々としていればいい。俺がついている」

 ロイクが吐き捨てるように言うと、リセラもすぐに続いた。

「んだ、んだ!わだすも一緒にいるからな、お嬢様!!」

「……ありがとう。二人とも」

 書簡の内容は、どこまでも理屈に沿っていた。
 貴族としての管理責任。
 当事者への事実確認。
 法的な不備を避けるための正式な手続き。

 すべてが、もっともらしく整えられている。
 アデルは、再びゆっくりと息を吐いた。

 逃げ場はない。
 拒否することもできない。

(……来る)

 姿を見せずに、拒めない理由を携えて。
 そして、感情に最も近い距離から。

 クロードが静かに口を開いた。

「アデル嬢、安心してほしい。面会の条件はこちらで決める」

 彼はアデルをまっすぐに見て、はっきりと言った。

「一対一にはしない。時間も場所も限定し、必ず記録を残す」

 それは弁護士としての冷静な判断だった。
 同時に、彼女を守るために引かれた線でもあった。

 ロイクが短く息を吐く。

「……俺も同席する」

「ああ、頼む」

 クロードは即座に応じた。

「これは法的な接触だ。しかし――」

 一拍置いて、静かに言葉を結ぶ。

「感情を使ってくる相手ほど、法の外で刃を振るう」




***


 その夜。

 モントレー伯爵家の執務室では、ベルヌー法律事務所へ送られた書簡の写しが、静かに机の上に置かれていた。

 封蝋は割られ、紙は丁寧に揃えられている。
 だが、そこに置かれた痕跡から、書簡を何度も読み返した形跡は見えなかった。

 ルイは、机の傍に立っていた。

 書簡に触れることはない。
 必要な内容は、すでに一度目を通せば十分だった。

 旧領寄りの土地。
 当事者への事実確認。
 事前通知という名目の接触。

 どれも想定の範囲内だ。

 彼は視線を上げ、窓の外へ目を向ける。
 そこに、迷いも逡巡もなかった。

 感情を整える必要はない。
 言葉を選ぶ必要も、ほとんどない。

 過去を持ち出すなら、事実だけで足りる。
 
 ルイは、静かに袖口を正した。

 この接触は、あくまで家の管理業務の一環だ。私情を挟む理由はない。

 彼の表情は、最初から最後まで変わらなかった。冷静で、抑制が利いていて、どこか距離がある。

 ルイは、書簡の写しから目を離し、執務室を後にする。

 その背には、ためらいも、振り返りもなかった。

 少なくとも――そのように、見えた。

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