奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 面会は、ベルヌー法律事務所の応接室で行われた。

 大きな窓から差し込む午後の光は明るいはずなのに、室内の空気はひどく冷えて感じられた。

 テーブルの上には、記録用の書類と筆記具。配置は整いすぎるほど整っている。

 アデルは背筋を伸ばして椅子に座っていた。
 ワンピースは普段から控えめだったが、今日は、グレー色を選んだ。装飾もない。

 それでも胸の奥では、落ち着かない鼓動が止まらなかった。

(……来る)

 扉の向こうから足音が聞こえた瞬間、身体がわずかに強張る。

 ノックは一度だけ。
 続いて、扉が開いた。

 現れたのは、ルイだった。

 仕立ての良い外套。無駄のない所作。
 変わらない――否、以前よりも洗練された立ち姿。

 その事実だけで、胸がズキリと痛む。

 だが、彼はアデルを見なかった。
 正確には、一瞬だけ視線を向けて、すぐに外した。

「……本日は、お時間をいただきありがとうございます」

 低く、淡々とした声だった。
 まるで、公的な席で初めて言葉を交わす相手に向けるような調子。

 クロードが形式的に応じる。

「こちらこそ。では、着席してください」

 ルイは頷き、椅子に腰を下ろした。
 背筋はまっすぐで、感情の揺れは見えない。

 数秒の沈黙のあと、それを破ったのは、ルイだった。

「では、始めましょう」

 書類に目を落としたまま、事務的に続ける。

「――ドルン男爵令嬢」

 その呼び方が、空気を切り裂いた。
 アデルは、息を吸うことを忘れた。

 頭では理解していた。
 そう呼ばれる可能性があることも。
 立場が変わったことも。

 それでも。

 彼の口から、その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが、はっきりと崩れた。

「……」

 返事が、すぐに出てこない。

 ルイは視線を上げない。
 まるで、その反応すら想定内だと言わんばかりに。

「本件は、旧領寄りの土地に関する事実確認です。個人的な話をする場ではありません」

 冷たいほどに整った言葉だった。

 アデルは、指先に力が入るのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。

「……はい。承知しています」

 声は、かろうじて震えなかった。
 ルイは、その返答に対して何の感情も示さない。

「当家としては、誤解や混乱を避けるため、当事者への確認が必要だと判断しました。それだけです」

「……それだけ…ですか」

 思わず漏れた言葉だった。
 ルイは、初めてアデルを正面から見た。

 透き通るような、灰青の瞳。
 かつて、何度も見つめ返した。
 その瞳に映る自分の顔を何度も眺めた。

 けれど今、その視線には、アデルを映しておらず、温度がなかった。

「それだけとは…?他にあるような言い方に聞こえますが」

 きっぱりと否定される。
 アデルの胸に、じわりと痛みが広がる。

「…いえ、申し訳ありません。続けてください」

(……ああ)

 本当に、切り離されたのだと。
 過去ごと、名前ごと。

 クロードが静かに間に入る。

「では、確認事項に移りましょう。感情的なやり取りは、ここでは不要です」

「同感です」

 ルイは即座に応じた。
 アデルは、視線を伏せる。

 涙は、出なかった。
 出してはいけないと思った。

 ここは、個人の再会ではない。
 公の場で、旧領地の事実確認の場だ。

 それでも。

 ――「」。

 その呼び方だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。

 まるで、眠っている間に奪われた時間と立場を、改めて突きつけられたかのようだった。

 アデルは、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
 そして、顔を上げる。

「では、事実確認に入りましょう」

 声は、先ほどよりも落ち着いていた。

 ルイは一瞬、視線を上げた。
 その切り替えの速さに、わずかに驚いたようだったが、すぐに表情を戻す。

「承知しました」

 彼は書類を一枚、机の中央に滑らせた。

「旧領寄り、第二測量区画。登記上の名義は、現在もドルン男爵家。管理責任者として、あなたが確認に応じる立場にある」

 淡々とした口調だった。
 まるで、感情を介在させないこと自体が目的であるかのように。

 アデルは、書類に目を落とす。

「名義に変更はありません。管理は、事故以前より一貫して同じ方法で行われています」

「境界線については?」

「二十年前に一度、再測量が入りました。その際、境界杭の位置が再確認されています」

 即答だった。
 ルイの指が、わずかに止まる。

「……その記録は?」
「あります」

 アデルは、視線をクロードへ向けた。

「先生」
「ああ、これだな」

 クロードが、用意していた書類を静かに差し出す。

「公的記録の写しです。再測量の理由、立会人、測量士名、すべて揃っています」

 ルイは受け取り、目を走らせる。
 ページを繰る速度が、ほんのわずかに遅くなった。

「……この区域は、近年、投資話が持ち込まれていると聞いています」
「事実です」

 アデルがはっきりと答えた。

「ですが、いずれもお断りしています。理由は二つあります」

 ルイの視線が、再び彼女を捉える。

「一つは、地質が不安定であること。もう一つは――」

 アデルは、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。

「過去に、この土地を巡って“争いになりかけた経緯”があるからです」

 室内の空気が、わずかに張り詰める。
 ロイクが、無意識に一歩、前に出かけた。
 クロードは、それを制するように、視線だけで止める。

「争いとは?」

 ルイが問い返す。

「正式な係争には至っていません。ですが、当時、複数の仲介人が同時に接触してきました」

「……同じ手口で?」
「はい」

 アデルは、まっすぐに答えた。

「“急がなくていい”“安全な投資だ”“皆やっている”――同じ言葉でした」

 その瞬間。
 ルイの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
 クロードは、その変化を見逃さない。

「ちなみに」

 彼が、静かに言葉を挟む。

「その仲介人たちは、いずれも名を変え、今は別の土地案件に関わっていました。今回の件とも、共通点があります」

 ルイは、視線を落としたまま、問いを続ける。

「では、なぜ今になって、再び問題が浮上したと?」

 アデルは、はっきりと答えた。

「分かりません」

 だが、すぐに言葉を継ぐ。

「ただ一つ言えるのは――」

 彼女は、ルイを正面から見据えた。

「この土地は、“狙われる理由がある”場所だということです。だからこそ、私たちは慎重であり続けました」

 沈黙が落ちる。
 ルイは、ゆっくりと息を吐いた。

 冷静な確認のはずだった。
 だが、いつの間にか、彼の方が試されている。

 アデルは、もう揺れていなかった。

 呼び方で受けた痛みを、
 事実と理屈で、確かに乗り越えている。

 クロードは、心の中で確信した。

(……彼女は、折れない)

 ルイは、書類を閉じた。

「……事実確認は、以上です」

 その声は、先ほどよりも、わずかに低かった。アデルは、静かに頷く。

「ご確認、ありがとうございました」

 その姿は、立場を奪われても、名前を変えられても、事実の前で、堂々と立つ一人の当事者だった。

 

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