奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ルイとの事実確認が終わり、事務所の応接室には静けさが戻っていた。

 クロードは、書類を揃えながら、淡々とルイに言葉を切り出した。

「別件になりますが…」

 視線がクロードに向けられる。
 クロードの口調は冷静だった。

「モーリス伯爵に、アデル嬢の財産移譲に関する経緯について、正式な聞き取りを行いたいとお伝え願えますか」

 ルイは、即座に答えなかった。
 だが、それは逡巡ではない。

「……どういうことですか」

 声は低く、落ち着いていた。
 感情の揺れは、表に出ていない。

 クロードは眼鏡を押し上げ、事実だけを切り出した。

「アデル嬢が昏睡状態にあった期間、彼女の個人財産は、叔父であるモーリス伯爵へ委任された形になっていました」

 ルイの視線が、わずかに細くなる。

「……、ですか」

「はい。銀行側の説明によれば、『経験豊富な親族への一時的な権限移譲』という名目です」

 クロードは一拍も置かずに続ける。

「ただし、その根拠となった書類は、郵送で提出された署名と印章のみでした。本人確認は行われていません」

 ルイは、初めてわずかに眉を動かした。

「……エドモン伯爵が、直接銀行へ出向いたわけではない?」

「ええ。銀行側も、それを認めています」

 クロードの声は変わらなかった。

「モーリス氏が、エドモン伯爵の代理として書類を持ち込み、銀行はそれを正規の手続きとして扱いました」

 その場に、短い沈黙が落ちる。
 ルイはアデルを見なかった。
 視線は、クロードに向けられたままだ。

「確認は?」

 短く、要点だけを突く問いだった。

「行われていません。委任者本人への確認も、書類の真正性の精査もありませんでした。当時、エドモン伯爵は、この事実を知りませんでした」

 クロードの返答は簡潔だった。
 ルイは、ゆっくりと息を吐く。

「……銀行と、義父の過失だと?」

「ええ。重大な過失です」

 クロードは静かに続けた。

「昏睡状態にあった人物の財産を、本人確認なしで第三者へ移管する行為は、正当化できません」

 ルイは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
 それは計算ではなく、事実を整理するための間だった。

「……私は、その件を知りませんでした」

 言い訳でも、弁明でもない。
 事実としての一文だった。
 クロードは、それを否定も肯定もしない。

「そうですか。それならば、尚のこと、モーリス伯爵本人から説明を受ける必要がありますね」

 ルイは、小さく頷いた。

「分かりました。義父に伝えます」

 その返答は、あまりに落ち着いていた。
 怒りも、戸惑いも見せない。
 だが、その態度が、かえって場の空気を張り詰めさせる。

「一点だけ、確認させてください」

 ルイが、静かに口を開いた。

「この件は、法的措置を前提としていますか」

 声に感情は混じっていなかった。
 問いは簡潔で、事務的だった。

 クロードは、すぐには答えなかった。
 わずかな沈黙が、その問いの重さを示している。

「アデル嬢の判断次第です」

 そう言って、クロードは視線をアデルへ向けた。

 その瞬間、室内の空気が、微かに変わる。アデルは背筋を伸ばし、ルイを正面から見据えた。

 視線に迷いはなかった。

「私の財産は、祖父から受け継いだものです」

 静かな声だったが、はっきりとした響きがあった。

「個人的な贅沢のためではありません。領地の土壌を改良し、作物の質を上げるために使うつもりでした。将来、この土地に生きる人たちのために」

 ルイは、視線を逸らさなかった。
 それは、かつて何度も交わした話題だった。

 二人が夫婦だった頃、夜更けまで机を挟み、地図を広げて語り合った計画。
 アデルが熱心に語り、ルイが現実的な数字を示した、あの時間。

 アデルは、その記憶を胸の奥に押し込みながら、言葉を続けた。

「その資金が、私の知らないところで移されていた。理由が何であれ、それを見過ごすことはできません」

 一呼吸置き、はっきりと言い切る。

「不当に移譲された事実は明確です。私は、法的措置を取ります」

 その声には、怒りも悲しみもなかった。
 あったのは、決めた人間の覚悟だけだった。

 ルイの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
 だが、それは一拍にも満たない。

「そうですか」

 短く、それだけを返す。

 ルイはそれ以上言葉を重ねず、手元の書類を整え始めた。
 まるで、今の話題に個人的な意味はなかったかのように。

 クロードが、その沈黙を引き取る。

「では、まずはモーリス伯爵に対し、事実関係の聴取と記録を行います。隠されていた経緯がある以上、整理は不可欠です」

 ルイは再びクロードを見る。

「理解しました」

 声は変わらず、落ち着いていた。
 謝罪も、感情的な反論もない。
 形式としては、完璧だった。

「では、本日はこれで」

 その背中を、アデルは追わなかった。
 もう、追う必要はなかった。
 彼女は、自分の選択を、すでに選び終えていた。

 ルイは一礼し、踵を返す。
 扉に向かう直前、ほんの一瞬だけ立ち止まったが、振り返ることはなかった。

 冷静で、無駄な動きのない、整った背中だった。

 その背を見送りながら、クロードは確信していた。

 ――この男は、何も知らなかった。
 そして今、初めて「盤面」を見せられた。

 アデルは、静かに息を吐いた。

「……先生」

 クロードは、彼女に向き直る。

「アデル嬢…よく耐えたな。ここからは、こちらの番だ。」

 その声は、弁護士としてのものだった。
 同時に、依頼人を守る人間の声でもあった。

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