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同じ頃、モントレー伯爵家では——
モーリスの執務室の扉が静かに閉じられる音がした。
ルイは外套を脱ぎ、机の前に立ったまま一礼する。
「旧領寄りの土地について、事実確認を行ってきました」
簡潔な報告だった。
それだけで、モーリスの眉がぴくりと動く。
「……で?」
椅子にもたれたまま、モーリスは鼻を鳴らした。
「どうだった?あの女は。多少は動揺したか?」
ルイは一拍置いたが、視線を逸らさない。
「いえ。特には」
それだけだった。
モーリスの口元が歪む。
「ほう……。やはりな。アデルは、お前を愛してなどいなかったのだろう。元夫を前にして、感情ひとつ揺らさないとは」
吐き捨てるような言い方だった。
だが、ルイの表情は変わらない。
淡々と、話題を切り替える。
「確認ですが――彼女の個人財産に、手をつけたという話は事実ですか」
空気が、わずかに軋んだ。
「……な、何を突然」
モーリスの声が、半音ほど上ずる。
「根も葉もない話だ。昏睡状態の親族の財産を、一時的に管理していただけだ」
早口だった。
ルイは、静かに言葉を重ねる。
「向こうは、法的措置を取るそうです」
モーリスの目が、はっきりと見開かれる。
「証拠は、すべて揃っていました。銀行側の記録、提出経路、確認不足――」
淡々と列挙される事実に、モーリスの指が机を叩いた。
「ば、馬鹿な……!」
声が裏返る。
「そんな……そんなはずがあるか!!」
立ち上がり、執事を振り返る。
「べ、弁護士を呼べ!!今すぐだ!!」
執事は顔色を変え、慌てて頭を下げた。
「か、かしこまりました……!」
執務室に残されたのは、荒い呼吸音だけだった。
ルイは、その様子を一瞥する。
同情も、嘲笑もない。
「報告は以上です」
それだけ告げると、踵を返した。
「待て、ルイ!!」
背後で、モーリスが叫ぶ。
「お前の元妻が、関わっているのだぞっ!」
しかし、ルイは振り返らない。
扉の向こうに出ると、声は次第に遠ざかっていった。
彼は、そのまま自分の執務室へ向かった。
*
執務室に入ると、ルイは深いため息をついた。
「……馬鹿なことを。裏は取れるか」
低く、しかしはっきりとした声だった。
独り言にしては、誰かに届くことを前提にした響きがある。
その直後、壁の奥で、わずかな音が返った。返事とも、気配ともつかないほど小さなものだった。
椅子に深く腰を下ろし、背もたれに体重を預ける。
ベルヌー法律事務所での光景が、否応なく脳裏に浮かぶ。
(クロード・ベルヌー……)
黒髪を一つに束ね、感情を表に出さない理知的な眼差し。
無駄のない体躯に、否応なく目を引く端正な容貌。
法曹界でその名を知らぬ者はいない。
外見の印象とは裏腹に、権威にも金にも靡かない人物として知られている。
正義感が強く、妥協をしない。
それでいて感情的にならず、淡々と事実を積み上げる。
(……厄介な男だ)
志の高い人間ほど、扱いにくい存在はない。欲に正直なモーリスのような人間の方が、まだ読みやすい。
(……似ている)
誰に似ているのか、そこまで考えたところで、ルイは思考を切った。
それ以上掘り下げるべきではないと、本能が告げていた。
その時、控えめなノック音が響いた。
「ルイ様……」
柔らかな声に、表情を整える。
扉の向こうから、リゼットが顔を覗かせていた。
「お疲れのところ、申し訳ありません。少し、お時間よろしいでしょうか」
心配そうに眉を寄せ、こちらを見上げている。
「ああ、もちろん。入ってくれ」
「ありがとうございます」
リゼットは静かに室内へ入り、勧められるまま椅子に腰を下ろした。
「父が、とても慌ただしくしていて……何か、あったのですか?」
ルイは、ほんの一瞬だけ彼女に視線を向ける。そして、いつもと変わらぬ穏やかな声音で答えた。
「少し面倒な話が出ただけだ」
「……面倒な話、ですか?」
「ああ。君が心配するようなことではない」
それ以上の説明はしない。
リゼットは、その沈黙を責めることもなく、しばらく言葉を探しているようだった。
「……ルイ様」
ためらいがちに、彼女が口を開く。
「お姉様と……お会いになったのですよね」
ルイは答えない。
だが、否定もしなかった。
「公的な場だと、分かっています。分かっているのです。でも……」
リゼットは俯き、ドレスの裾をきゅっと握りしめた。震える指先が、彼女の不安を雄弁に語っている。
「……不安なのです」
「不安?」
「もし、お姉様が……まだルイ様を想っていらっしゃるのなら……私が身を引かなければいけない気がして…」
言葉は途切れ、涙が静かに頬を伝った。
「お姉様は……とても、お可哀想な境遇だから……」
ルイは立ち上がり、そっと彼女の肩を抱いた。
「リゼット」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「私たちは、もう夫婦だ。君が身を引く必要など、どこにもない」
「……ルイ様……」
「私の選択は揺るがない。君との絆は、誰にも壊せない」
そう告げて、優しく抱き寄せ、額に口付ける。
「不安になることはない。私は、君の傍にいる」
「……本当ですか?」
「ああ。約束する」
リゼットは涙を拭い、安堵したように微笑んだ。花がほころぶような笑顔だった。
「今日は執務を早めに切り上げよう。晩餐を一緒に取ろう。良いワインがある」
「嬉しい……楽しみにしています」
穏やかな声でそう答え、彼女は立ち上がった。
「お仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
「いや……顔が見られて良かった」
リゼットは頷き、名残惜しそうに部屋を後にする。
扉が閉まる音が、静かに響いた。
ルイは一人になった室内で、再び息を吐いた。
その表情からは、何一つ感情を読み取ることはできなかった。
モーリスの執務室の扉が静かに閉じられる音がした。
ルイは外套を脱ぎ、机の前に立ったまま一礼する。
「旧領寄りの土地について、事実確認を行ってきました」
簡潔な報告だった。
それだけで、モーリスの眉がぴくりと動く。
「……で?」
椅子にもたれたまま、モーリスは鼻を鳴らした。
「どうだった?あの女は。多少は動揺したか?」
ルイは一拍置いたが、視線を逸らさない。
「いえ。特には」
それだけだった。
モーリスの口元が歪む。
「ほう……。やはりな。アデルは、お前を愛してなどいなかったのだろう。元夫を前にして、感情ひとつ揺らさないとは」
吐き捨てるような言い方だった。
だが、ルイの表情は変わらない。
淡々と、話題を切り替える。
「確認ですが――彼女の個人財産に、手をつけたという話は事実ですか」
空気が、わずかに軋んだ。
「……な、何を突然」
モーリスの声が、半音ほど上ずる。
「根も葉もない話だ。昏睡状態の親族の財産を、一時的に管理していただけだ」
早口だった。
ルイは、静かに言葉を重ねる。
「向こうは、法的措置を取るそうです」
モーリスの目が、はっきりと見開かれる。
「証拠は、すべて揃っていました。銀行側の記録、提出経路、確認不足――」
淡々と列挙される事実に、モーリスの指が机を叩いた。
「ば、馬鹿な……!」
声が裏返る。
「そんな……そんなはずがあるか!!」
立ち上がり、執事を振り返る。
「べ、弁護士を呼べ!!今すぐだ!!」
執事は顔色を変え、慌てて頭を下げた。
「か、かしこまりました……!」
執務室に残されたのは、荒い呼吸音だけだった。
ルイは、その様子を一瞥する。
同情も、嘲笑もない。
「報告は以上です」
それだけ告げると、踵を返した。
「待て、ルイ!!」
背後で、モーリスが叫ぶ。
「お前の元妻が、関わっているのだぞっ!」
しかし、ルイは振り返らない。
扉の向こうに出ると、声は次第に遠ざかっていった。
彼は、そのまま自分の執務室へ向かった。
*
執務室に入ると、ルイは深いため息をついた。
「……馬鹿なことを。裏は取れるか」
低く、しかしはっきりとした声だった。
独り言にしては、誰かに届くことを前提にした響きがある。
その直後、壁の奥で、わずかな音が返った。返事とも、気配ともつかないほど小さなものだった。
椅子に深く腰を下ろし、背もたれに体重を預ける。
ベルヌー法律事務所での光景が、否応なく脳裏に浮かぶ。
(クロード・ベルヌー……)
黒髪を一つに束ね、感情を表に出さない理知的な眼差し。
無駄のない体躯に、否応なく目を引く端正な容貌。
法曹界でその名を知らぬ者はいない。
外見の印象とは裏腹に、権威にも金にも靡かない人物として知られている。
正義感が強く、妥協をしない。
それでいて感情的にならず、淡々と事実を積み上げる。
(……厄介な男だ)
志の高い人間ほど、扱いにくい存在はない。欲に正直なモーリスのような人間の方が、まだ読みやすい。
(……似ている)
誰に似ているのか、そこまで考えたところで、ルイは思考を切った。
それ以上掘り下げるべきではないと、本能が告げていた。
その時、控えめなノック音が響いた。
「ルイ様……」
柔らかな声に、表情を整える。
扉の向こうから、リゼットが顔を覗かせていた。
「お疲れのところ、申し訳ありません。少し、お時間よろしいでしょうか」
心配そうに眉を寄せ、こちらを見上げている。
「ああ、もちろん。入ってくれ」
「ありがとうございます」
リゼットは静かに室内へ入り、勧められるまま椅子に腰を下ろした。
「父が、とても慌ただしくしていて……何か、あったのですか?」
ルイは、ほんの一瞬だけ彼女に視線を向ける。そして、いつもと変わらぬ穏やかな声音で答えた。
「少し面倒な話が出ただけだ」
「……面倒な話、ですか?」
「ああ。君が心配するようなことではない」
それ以上の説明はしない。
リゼットは、その沈黙を責めることもなく、しばらく言葉を探しているようだった。
「……ルイ様」
ためらいがちに、彼女が口を開く。
「お姉様と……お会いになったのですよね」
ルイは答えない。
だが、否定もしなかった。
「公的な場だと、分かっています。分かっているのです。でも……」
リゼットは俯き、ドレスの裾をきゅっと握りしめた。震える指先が、彼女の不安を雄弁に語っている。
「……不安なのです」
「不安?」
「もし、お姉様が……まだルイ様を想っていらっしゃるのなら……私が身を引かなければいけない気がして…」
言葉は途切れ、涙が静かに頬を伝った。
「お姉様は……とても、お可哀想な境遇だから……」
ルイは立ち上がり、そっと彼女の肩を抱いた。
「リゼット」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「私たちは、もう夫婦だ。君が身を引く必要など、どこにもない」
「……ルイ様……」
「私の選択は揺るがない。君との絆は、誰にも壊せない」
そう告げて、優しく抱き寄せ、額に口付ける。
「不安になることはない。私は、君の傍にいる」
「……本当ですか?」
「ああ。約束する」
リゼットは涙を拭い、安堵したように微笑んだ。花がほころぶような笑顔だった。
「今日は執務を早めに切り上げよう。晩餐を一緒に取ろう。良いワインがある」
「嬉しい……楽しみにしています」
穏やかな声でそう答え、彼女は立ち上がった。
「お仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
「いや……顔が見られて良かった」
リゼットは頷き、名残惜しそうに部屋を後にする。
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その表情からは、何一つ感情を読み取ることはできなかった。
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