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――数日後。
モーリスは、モントレー伯爵家の執務室を訪れていた。
重厚な扉の向こうで、兄エドモンは疲れた様子で書類に目を通している。
「兄上、少し時間をもらえますか」
エドモンは顔を上げ、穏やかに頷いた。
「ああ。どうした、モーリス」
その穏やかさが、モーリスの胸をわずかに苛立たせる。
「外国商人の件です。かなりの負債になっていると聞いています」
エドモンは一瞬だけ眉を曇らせたが、すぐに言った。
「領民に影響が出ないよう、なんとかするつもりだ」
「なんとか、とは?」
問いかけは静かだったが、エドモンは言葉に詰まった。
「……正直に言えば、時間が必要だ」
その返答を聞いた瞬間、モーリスは腹の奥で確信した。兄は、追い詰められている。
「兄上」
声を落とし、ゆっくりと言う。
「私が、負債を引き受けましょう」
エドモンは目を見開いた。
「何を言っている。お前に、そんな余力があるはずがない」
「私個人では難しい。ですが、方法はあります」
モーリスは一歩踏み出した。
「爵位を、私に譲ってください」
沈黙が落ち、エドモンの目が見開かれた。
「……モーリス?」
「形式上でも構いません。モントレー伯爵としての権限があれば、資金調達の道が開ける。今の兄上では、信用が足りない」
言い切った瞬間、エドモンの表情が変わった。
怒りではなく、深い失望だった。
「……爵位を望むのか?」
「ええ。兄上では、この難局を回避できないでしょう。現実的な判断です」
「自分ならできると?」
エドモンは、モーリスを真っ直ぐ見つめ、尋ねた。
「少なくとも、今の兄上より、私の方ができる。これ以上、問題が長引くと困るのは領民ですよ?」
「っ……」
エドモンが声を詰まらせた。領民の名を出されると反論の余地がなかった。
「……具体的に、お前はどうするのだ」
「私には、投資家がついています。負債を返済する目処があります」
その言葉に、エドモンの顔が歪む。
対して、モーリスは涼しい顔で続ける。
「兄上は、いつもきれい事ばかり言って、現実から目を逸らしています。それでは、領地の繁栄はおろか、領民を苦しめる結果になります」
「っ…モーリス…」
「今のままでは、確実に伯爵家は潰れます。それでもいいのですか」
エドモンは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……時間をくれ…」
エドモンが言えたのは、それだけだった。
***
数日後。
モーリスのもとに、兄エドモンからの返事が届いた。
簡潔な文面だった。
言い訳も、感情も、ほとんど書かれていない。
『条件付きで、爵位譲渡を受け入れる。
正式な手続きについては、追って相談したい』
その紙を読み終えた瞬間、モーリスの口元が歪んだ。
「……ようやく、現実を理解したか」
胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりとほどけていく感覚があった。
怒りでも、安堵でもない。
長年、自分を押さえつけていた“兄の影”が、ようやく消え始めたという実感だった。
執務机の前で、モーリスは椅子にもたれ、天井を見上げる。
「伯爵は、私だ」
誰に聞かせるでもなく、確かめるように呟く。
爵位が移れば、状況は一変する。
資金調達も、交渉も、名義も、すべてが自分の裁量になる。
兄のように、領民や体面を気にして立ち止まる必要はない。
「……あとは、銀行に行くだけだ」
それだけで済むはずだった。
必要なのは、形式だ。
書類と、署名と、印章。
誰もが“正規の手続き”だと信じるための体裁。
モーリスは机の引き出しを開け、例の書簡の束に視線を落とした。
封はすでに切られ、内容はすべて頭に入っている。
【焦る必要はない。今は、好機だ。人は、守るためなら判断を誤る】
「……まったく、その通りだ」
低く笑い、モーリスは書簡を取り出して火をつけた。紙は静かに燃え、灰になっていく。
モーリスは立ち上がり、外套を手に取った。
「銀行に行く」
執事にそう告げた。
その一歩が、後戻りのできない線を越える一歩だということに、彼自身は、まだ気づいていなかった。
*
銀行の応接室で、書類が静かに差し出された。
「こちらが、委任に関する申請書類です」
行員の声は事務的だった。
封筒の中には、エドモン伯爵の署名と印章が押された文書が入っていた。郵送で届いたものだという。
「確認は、これで十分ですか」
モーリスが問いかけると、行員は迷いなく頷いた。
「伯爵家からの正式書類ですので」
その一言で、すべてが進んだ。
昏睡状態にあるアデルの個人財産は、“経験豊富な近親者への一時的委任”という名目で、モーリスの管理下へと移された。
誰も、本人に確認することはなかった。
誰も、疑問を挟まなかった。
それは、あまりにも静かな手続きだった。
ーードルン男爵邸。
リゼットは、自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。月明かりが、白いカーテンを淡く照らしている。
(お父様、少し元気になられたみたい)
それだけで、胸が軽くなる。
自分は、ただ心配していただけだ。
家族が壊れないように、言葉を選んだだけだ。
(私は、何もしていない)
誰かを陥れた覚えもない。
何かを奪ったつもりもない。
ただ、必要だと思ったことを口にしただけ。
(お父様は、強い方だもの)
きっと、正しい選択をしたのだろう。
そう、信じていた。
机の引き出しの奥には、小さなカードが一枚、残っている。
読んだあと、燃やすつもりで、うっかり忘れていたもの。
【善意は、時に最も強い力になる】
リゼットは、それを手に取らなかった。
見なかったことにして、静かに窓を閉める。
自分は、何も知らない。
何も、していない。
その確信だけを胸に抱いたまま、彼女は灯りを落とした。
モーリスは、モントレー伯爵家の執務室を訪れていた。
重厚な扉の向こうで、兄エドモンは疲れた様子で書類に目を通している。
「兄上、少し時間をもらえますか」
エドモンは顔を上げ、穏やかに頷いた。
「ああ。どうした、モーリス」
その穏やかさが、モーリスの胸をわずかに苛立たせる。
「外国商人の件です。かなりの負債になっていると聞いています」
エドモンは一瞬だけ眉を曇らせたが、すぐに言った。
「領民に影響が出ないよう、なんとかするつもりだ」
「なんとか、とは?」
問いかけは静かだったが、エドモンは言葉に詰まった。
「……正直に言えば、時間が必要だ」
その返答を聞いた瞬間、モーリスは腹の奥で確信した。兄は、追い詰められている。
「兄上」
声を落とし、ゆっくりと言う。
「私が、負債を引き受けましょう」
エドモンは目を見開いた。
「何を言っている。お前に、そんな余力があるはずがない」
「私個人では難しい。ですが、方法はあります」
モーリスは一歩踏み出した。
「爵位を、私に譲ってください」
沈黙が落ち、エドモンの目が見開かれた。
「……モーリス?」
「形式上でも構いません。モントレー伯爵としての権限があれば、資金調達の道が開ける。今の兄上では、信用が足りない」
言い切った瞬間、エドモンの表情が変わった。
怒りではなく、深い失望だった。
「……爵位を望むのか?」
「ええ。兄上では、この難局を回避できないでしょう。現実的な判断です」
「自分ならできると?」
エドモンは、モーリスを真っ直ぐ見つめ、尋ねた。
「少なくとも、今の兄上より、私の方ができる。これ以上、問題が長引くと困るのは領民ですよ?」
「っ……」
エドモンが声を詰まらせた。領民の名を出されると反論の余地がなかった。
「……具体的に、お前はどうするのだ」
「私には、投資家がついています。負債を返済する目処があります」
その言葉に、エドモンの顔が歪む。
対して、モーリスは涼しい顔で続ける。
「兄上は、いつもきれい事ばかり言って、現実から目を逸らしています。それでは、領地の繁栄はおろか、領民を苦しめる結果になります」
「っ…モーリス…」
「今のままでは、確実に伯爵家は潰れます。それでもいいのですか」
エドモンは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……時間をくれ…」
エドモンが言えたのは、それだけだった。
***
数日後。
モーリスのもとに、兄エドモンからの返事が届いた。
簡潔な文面だった。
言い訳も、感情も、ほとんど書かれていない。
『条件付きで、爵位譲渡を受け入れる。
正式な手続きについては、追って相談したい』
その紙を読み終えた瞬間、モーリスの口元が歪んだ。
「……ようやく、現実を理解したか」
胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりとほどけていく感覚があった。
怒りでも、安堵でもない。
長年、自分を押さえつけていた“兄の影”が、ようやく消え始めたという実感だった。
執務机の前で、モーリスは椅子にもたれ、天井を見上げる。
「伯爵は、私だ」
誰に聞かせるでもなく、確かめるように呟く。
爵位が移れば、状況は一変する。
資金調達も、交渉も、名義も、すべてが自分の裁量になる。
兄のように、領民や体面を気にして立ち止まる必要はない。
「……あとは、銀行に行くだけだ」
それだけで済むはずだった。
必要なのは、形式だ。
書類と、署名と、印章。
誰もが“正規の手続き”だと信じるための体裁。
モーリスは机の引き出しを開け、例の書簡の束に視線を落とした。
封はすでに切られ、内容はすべて頭に入っている。
【焦る必要はない。今は、好機だ。人は、守るためなら判断を誤る】
「……まったく、その通りだ」
低く笑い、モーリスは書簡を取り出して火をつけた。紙は静かに燃え、灰になっていく。
モーリスは立ち上がり、外套を手に取った。
「銀行に行く」
執事にそう告げた。
その一歩が、後戻りのできない線を越える一歩だということに、彼自身は、まだ気づいていなかった。
*
銀行の応接室で、書類が静かに差し出された。
「こちらが、委任に関する申請書類です」
行員の声は事務的だった。
封筒の中には、エドモン伯爵の署名と印章が押された文書が入っていた。郵送で届いたものだという。
「確認は、これで十分ですか」
モーリスが問いかけると、行員は迷いなく頷いた。
「伯爵家からの正式書類ですので」
その一言で、すべてが進んだ。
昏睡状態にあるアデルの個人財産は、“経験豊富な近親者への一時的委任”という名目で、モーリスの管理下へと移された。
誰も、本人に確認することはなかった。
誰も、疑問を挟まなかった。
それは、あまりにも静かな手続きだった。
ーードルン男爵邸。
リゼットは、自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。月明かりが、白いカーテンを淡く照らしている。
(お父様、少し元気になられたみたい)
それだけで、胸が軽くなる。
自分は、ただ心配していただけだ。
家族が壊れないように、言葉を選んだだけだ。
(私は、何もしていない)
誰かを陥れた覚えもない。
何かを奪ったつもりもない。
ただ、必要だと思ったことを口にしただけ。
(お父様は、強い方だもの)
きっと、正しい選択をしたのだろう。
そう、信じていた。
机の引き出しの奥には、小さなカードが一枚、残っている。
読んだあと、燃やすつもりで、うっかり忘れていたもの。
【善意は、時に最も強い力になる】
リゼットは、それを手に取らなかった。
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